目的地
さっきはあれほど遠くに感じていたゴール地点が、今はもう目前となっていた。
周りの風景は夕方から夜へと移行し終えたばかりの繁華街。
まず第一に視界に飛び込んでくるのは、店先と街灯の明かりに照らし出された、これからさらに増えていくであろう人々の雑多な塊だった。
本日の仕事を終えたという安堵感と解放感を滲ませるスーツ姿の男達が、歩道の端に足を止めて同僚達との談笑に身振りを交えて夢中になっているのが見えた。
その横を高校生か大学生のどちらなのか、と尋ねられると躊躇してしまう体格をした十人程の私服姿の若者達が、中でも年長の方であろうと推測される男を先頭にして、その指差す建物を目指し足早に通り過ぎていく。
最後尾になっているのは手に持った携帯電話の液晶画面に見入っている少女と、その画面を覗き込みながら何か楽しそうに話しかける同年代の少女の二人。
その遅れがちになっている二人を気遣わしげな表情を浮かべて振り向いていた小柄な少年は、もう視界に入っている皆の向かう目的地に、少女らの注意を向けようと声を掛けていた。
混み合いだした歩道の流れの中、対向者が衝突を避けてくれていることを意識しているのかいないのか、彼女らは手元の携帯電話に気を盗られ、前を見ないままに歩を進めていく。
遮られる事のない歩道の流れのすぐ横には、信号機の度に作り出される停滞した車の淀み。
周囲の店先の多彩なネオンの明かりを反射する滑らかな外装と密閉されたガラスの向こう側で、運転者達は自分達の進行を規制する鮮やかな赤色を不満を湛えた表情で見つめていることだろう。
普段よりも密度が高い夜の街の光景を目にし、改めて今が金曜日の宵であることを認識させられる。
整えておいた髪を乱しながら耳元で音を立てる風を、しかし私は心地よく全身で感じていた。呼吸を大きく乱される事もないままに、周りの風景が次々と背後へ流れていく。
それ程の速度の中で、街の様子がまるで編集された映像を見るかのように一コマ一コマ認識できている事は、風を感じる爽快感と同時にもたらされた、人の体の持つ一種の興奮剤の作用だろうか。
彼女が今も待っているのではないかと思うと、ただ気持ちが焦ってしまい飛び出したが、今にして思えば少し急ぎすぎたかもしれない。
まだ彼女と顔を合わせた時に、どうやって話を切り出すべきかを決める事ができていないのだ。
今からの僅かな時間で考えなければならないと思うと、気が重くなり目が回りそうだった。
彼女と最後に別れた晩、激しい言い争いになってしまったあの夜の事が、遠い昔の事の出来事のように感じられた。
なんという事もないつまらない理由で生じた借金が、気がつくと私の生活を圧迫する物となっていた。
つまらない男の意地で私は彼女にその事を話せないでいた。
そんな日々の中、つまらない事が原因でその事が彼女にばれて……、思いがけない事になってしまったのだ。
彼女は私のだらしなさを激しく非難し、私の見通しの甘さを強く指摘し、私の隠す態度を厳しく問い詰めた。
そんな状況にあっても、私は小さなプライドを捨てきる事ができず、彼女の言葉をそのまま受け入れる事ができなかったのだ。
今までに無いほど激しい口論の末、彼女はついに決別を宣言し、私に背を向け玄関へ向かった。
冷静な気持ちになった今から思えば、彼女の言い分の方が(多少感情的ではあっても)筋が通っていた事は否定できないだろう。しかしその時の私は、とても冷静に物を考える事ができる状態ではいられなかったのだ。
その後で冷静になった私は、一人になったリビングに呆然と立ちすくんだまま、喪失感のあまりの大きさにしばらく身動きする事さえできないでいた。
ただもう一度彼女に会ってその日の事を謝りたかった。
もう一度、なんという事もない話で笑いあいたかった。
彼女と共有していた時間が、遠く手の届かないところできらきらと光を放っているのを否定する事ができなかった。
彼女に再び会う為にどうすればいいのか、その道のりは言うまでも無く分かっているのだが、実現までにある程度の時間を要した。借金から解放される為にも、私の身辺を見直して整理する事は必要不可欠であったからだ。
この数日間の時間の流れは、じりじりと頭の後ろを圧迫するような焦りを伴うものだった。
体を動かしながらでも、彼女が私を待っていてくれているのか、それとももう完全に見放されてしまっているのか、その問い掛けだけが頭の中を駆け回り、気が逸るのを抑えるのに苦労する事となった。
そしてついに、再び彼女に逢う為の段取りがつき、身嗜みを整えて今の時間に至る。
彼女と会うための目的地を繁華街の中でも一際高いこのビルの正面玄関前としたのは、二人でこのビルの屋上庭園から眺めた街の夜景を忘れる事ができず、もう一度ここを訪れてみたいと思ったからだったが、そういった私の感傷を彼女は笑うだろうか。
レストランやホテル、何かの企画の際の大規模な会場となる事もある施設を内包した総合ビルの入り口の前には、充分すぎる照明によって日が沈んだ後でも数台のハイヤーが客を待っているのを確認する事はできたが、今のところ他に人の姿は見えなかった。
私は今の目的地としている場所、玄関前の風景を上空から眺めながら、ただ満ち足りた気分でその場所に落下していった。
さすがにこれだけの高層ビルなだけあって、地表に落下するまでの時間も長く感じらた。走馬灯を髣髴とさせる回想が頭を流れて尚、少しばかり思いを巡らせる余裕がある。
思った以上にすばらしい人間の思考能力に感心しながらも、これほどの瞬く間にでもじっくりと考える能力あったのならば、あの日、玄関に向かった彼女の後頭部に、錘の入った適度な重量感を持ったテープカッターを叩き付ける前に一呼吸置いて考える事ができればよかったのに、といった愚痴のような思いも頭を過ぎらないでもなかった。
しかし他の煩わしい出来事も含めて解決する方法を考えれば、最終的にこの結論に達したであろうし、その上で彼女の事もこの形が万全のもののように思われるのだ。
奇妙な興奮状態の中ではゆっくりと感じられた地表までの移動は、それでも確実に終点を目指して加速していく。
正面玄関付近の地表を覆う、モザイクを施されたアスファルトの模様一つ一つを判別できるほどの距離にまで近づいた頃、ロータリーの真ん中、一段高くなった植え込みの中に植えられた二本の背の高い木の枝と生い茂った葉が、最初は視界の一部を、そして視界の大部分を占めていく。
しまった、と咄嗟に口から言葉が漏れた。
背筋から汗が吹き出るのを感じるほどにの誤算が生じていた。
屋上から飛び降りた際に勢いがつき過ぎたのか、目標よりも体が飛びすぎてしまっていた。
充分に手入れされた花壇と植え込みの木々の枝ぶりを下に見下ろして、不運にも一命を取り留めてしまう事態を想像し頭の中が空転した。
この高さから飛び降り、即死を免れてしまっては間違いなく激痛に長時間苛まされる事になる。その後にもう一度何らかの手段を使って彼女に会いに行くにせよ、余分な時間を取らされてしまう可能性が強かった。
私はもう、生きていく事に嫌気がさしているというのに。
何とか木の枝の上に落ちるのを避けるべく、半ば無意識のうちに手や足を動かして落下軌道を僅かにでも動かそうとした時だった。
生い茂っていた木の葉の中に、外灯に照らされる青葉が風で揺らされたその中に、光の加減なのか、私の目にちらりと、人の頭のようなものと差し伸べられた手のようなものが見えた気がした。
頭のほうは顔が陰になって表情は見えないが、私はそれが彼女だと、彼女が見守っているのだと直感した。
あぁ、今まさに彼女に会わんがために、こうして自ら命を絶とうとする私を迎えにきてくれたのだ、と思えたのだ。
胸が一杯になるのを感じながら、私の方に向けられた彼女の手を取るべく、全身全霊で彼女の手に触れるよう体を伸ばす。
何とか、その手に触れようか、という瞬間に、私の目に映っていたその手に見えていたものはさっと手の届かない位置に退き……。
拒絶されたという事を考えるよりも早く、まず伸ばしていたその右腕が木の枝に激突した。
その衝撃で霞みかけていた意識が現実に引き戻されたが、同時にその反動から体はその生い茂る木の枝の中に突入した。ちょうど引っかかった腕を支点に落下する軌道が変化したのだ。
精一杯腕を伸ばしていた事で顔を保護する事もできないまま、切れてしまうのではないかという速度で葉が頬に叩きつけられた後、潜り抜けたその先には、僅かに上げたその顔の先に、ちょうど人差し指ほどの太さの枝が尖った先を私の顔に向……。
「で、ホシの彼は体のほうは大丈夫だったのかい?」
病院での聞き取りを終えて帰ってきた同僚が鞄を机に置いたのを合図に、向かい合った机の反対側から男は会話を続けた。
「あぁ、地面に叩き付けられる前に木がクッションになっただかで、なんとか一命は取り留めたよ。ただ、その時に木の枝が……、その、右目にこう、突き刺さってたらしくてな」
椅子に座った後、一息ついてから右目の前に人差し指を近付けながら状況を説明する。口にしながらその内容を想像して表情がゆがんでいるのが見て取れた。
「眼窩から脳の一部まで刺さっていた枝は無事取り除かれて、その後数日経ってようやく意識は取り戻したようなんだが、神経がやられていてほぼ体が動かないんだとさ。面会できたとしてもあれは事情聴取するのは無理っぽいなぁ」
鞄の中に入っていた資料を机に出していた手が、コピーされた一枚の紙を手にして止まる。彼の部屋で発見された手書きの遺書のコピーだ。
「彼女の元へ、ねぇ……。殺された彼女もそんなのに追いかけられたく無いだろうにな」
遺書の文章には被害者である彼女への思いと、書いた本人の妄想じみた死への憧れが書き綴られていた。
彼がビルから飛び降りる際の心情を本当の意味で理解する事はできないであろうが、けして珍しいものでもなくなった自殺に救いを求める者たちの心理については、今までの経験からも知識として知ってはいる。
「この世に嫌気がさして死のうとして死に損ない、結果自分の意思で何も行えなくなったと。人間、目指すとこを一歩見間違えると碌な事が無いねぇ」
彼は身動きの取れないベッドの上で今も落下し続ける夢を見る。
未だに目標の地面に辿り着けないでいるのだ。
読んで頂き有難うございました。
初の投稿となります。
一文が妙に長くて読み辛くなってしまっているかもしれません。
今回の反省も踏まえて、今後も何かしら作っていきたいものです。