7.沙紀、初めて戦場に立つ。(前)
男たちが猛り狂う雄叫び、怒号が、鉄のぶつかる音や重い蹄の響き、馬のいななきや矢が飛び交う風切り音と混じりあって、私の鼓膜を凶暴に刺激し続けている。
眼前じゃない。いくらなんでも、殴り合いの喧嘩もしたことがないような女子高生を最前線に押し出す馬鹿はいなかった。
でも、似たような感じだと思うんだ。激闘の端っこからは、矢が届かないぎりぎりくらいの距離しか離れていない。目測でせいぜい百メートル。そんな近く、馬で駆け寄って来られたら、十秒もかからないで襲われちゃう距離。
いくら、隣に頼り甲斐の塊みたいな巨漢フォカ、逆隣に頼りになるかどうか微妙に不安なカルス、そして前には騎兵隊長としてこの戦いを指揮するマルクスがいたって、怖いものは怖い。
しかも私は丸腰に近い。
「裸というわけにもいくまい」
と親切なんだか馬鹿にしてるんだかわからないカルスの指示で、鎖帷子は強引に着せられているけれど、これが恐ろしく重い。
それでも、重装歩兵が身に付けるような、板金を叩き出して作る胸甲と比べればまだ軽いらしい。私が貧弱ということか。
いやいや。
こんなもん着せられて戦場に出てる時点で根本的に何かおかしいから。
しかも、まだ満足に馬に乗れるはずもない私が、一人で馬に乗るはめになっている。手綱はさすがにカルスが持ってくれているものの、いつ勝手に走り出したり振り落とされたりするか、気が気じゃないわけですよ。
じりじりと焼けるような陽射しの中、多少風はあっても、熱をはらむ鎖帷子を着せられてまともに身動きも取れずに、戦場の真っ只中で乗れもしない馬に騎乗しているってのは、人生でもワーストクラスの惨事だ。
冷や汗と暑い汗と脂汗が全身からどっと吹き出てくるこの感覚、下半身がきゅっと締め付けられる恐怖感、暑いのにがくがくと身体が震え、歯の根が合わずにガチガチと音が鳴るのを抑えられない有り様は、ちょっと表現しがたい。
過呼吸に陥りそうなギリギリの緊張感を切り裂くように、私の顔のすぐ脇を流れ矢が飛び去っていく。届かないはずの距離でも、風の具合でひょいと届くことがある。首をすくめた時にはとっくに私の横を通過しているから、衝突コースにいたら、矢の存在に気付く前に射抜かれていただろう。
私は多分悲鳴を上げていたはずだけれど、その自覚すらない。完全にパニックだった。
戦争だった。
一介の女子高生が体験するにはヘビー過ぎる、本物の命の奪い合い。
自分がこんな場に居合わせるはめになるなんて、考えたこともなかった。
戦況を気にできる余裕なんか無い。自分の目で直接、人が矢に撃たれ、槍に刺され、剣に斬られ、血しぶきと悲鳴を上げて倒れ、絶命していく光景を見る恐怖感、嫌悪感。それに縛られて、戦況なんてものを意識する余裕なんかあるわけがない。
周りの男たちが異様なほど落ち着き払っているのが、せめてもの慰めだった。
「なかなかやるな、急造の部隊にしては」
カルスが白く光る胸甲と冑に身を包み、どこまでものんきそうな声でいうと、黒衣の騎兵隊長マルクスは、ひとつ首をかしげた。
「メディクスがうまく立ち回っているからそう見えるが、動きがまだまだバラバラだな。そろそろテコ入れだ」
「どうしますか、援軍はまだ到着しそうにありませんが」
低い声でフォカが尋ねると、マルクスは馬の首を叩きながら答えた。
「敵も態勢が整っていない。お互い斥候同士の小競り合いだ、我々で一気に崩したら、機を見て撤退だ」
その返答にうなずいたフォカが、付きの歩兵から大きな棍棒を受け取るのと、マルクスが騎兵用の短い槍をしごくのとが同時だった。
マルクスの槍は、なぎなたのような形をしている。一メートル半ほどの黒い身に分厚い片刃で湾曲した刀身がついていて、歩兵たちが持っている刺突専用のまっすぐな槍とはまったく違っていた。
その槍を宙で幾度かしごきあげると、マルクスは短い気合いの声と共に馬の腹を蹴った。
マルクスとフォカが、同時に飛び出した。腹に響くような重々しい馬蹄の轟きを上げ、二人と、その周囲を固めていたわずか五騎の兵が、私たちがいる低い丘から飛び出していった。
私がミュシア騎兵部隊の陣営に泊まり、夜に交わされた竜人の話を反芻しながら眠りについた頃、一騎の兵が陣営地に駆け込んできたのが事の始まりだった、らしい。
兵は、ミュシアの国境監視の任に就いていたマルクス子飼いの兵士で、急報を携えていた。
「アクィルケディア軍部隊、越境の気配あり」
その一報を得たマルクスは、直ちにアクィルケディア国境地帯に騎兵十数騎を派遣。一騎当たり替え馬数頭を引き連れた兵士たちは、三騎一組で国境に向けて出発した。これが夜明け前のこと。
夜が明けて、あまりの事の多さに疲れきっていたらしい私が、葡萄酒に酔った勢いで日が高くなっても惰眠を貪っていると、さすがに見かねたらしいカルスが起こしに来た。
いくらこの世界での保護者とはいえ、レディの寝室に断りもなく入って、あまつさえ枕をひっくり返して起こすという暴挙に出たカルスに私が文句をいうと、カルスはにこりともせずに答えた。
「戦争が始まる。寝ているのは構わんが、この陣営地もすぐ空になるぞ」
戦争、という言葉が、とっさに飲み込めなかった私を非難できる日本人は、そうはいないはず。私にとっては、少なくとも現実感をこめて日常的に使う言葉じゃない。
それでも、ぼやぼやしていると置いていかれる、こいつならきっとやる、という想像力は働いたから、私は寝起きの低血圧でまともに動いていない頭を無理矢理起こして、身支度を始めた。
それにしても、だ。
この世界に来たばかりの頃、といっても昨日の昼下がりだけれど、あの時に私を歓迎した優雅で優しい青年貴族様は、一体どこにお出でかしら? 地が出てきたカルスは傲岸で高飛車で偉そうで、確実に友達にはしないタイプだ。
せっかくきれいなお顔をしているのに、もったいない。いや、きれいなお顔をしているからこそ出来上がった性格か、なんてつまらないことを考えながら身支度を終え、与えられていた幔幕の外に出てみると、私は一気に現実に向き合わされた。
陣営内は、出撃準備で慌ただしい準備の真っ只中だった。
陣営地自体は半恒久的な拠点らしいから残されるけれど、武器や防具はもちろん、食料やそれを煮炊きする道具、宿営地を作るために必要な木材や機材など、運ぶべきものをまとめて荷車に乗せたり、装備の数を確認したり、陣営地の周辺は男たちが忙しく立ち働く姿に埋め尽くされていた。
とりあえず私にやるべきことは無くて、カルスにいわれるがまま、その隣でおとなしく状況を見守っていた。
「知の支配者」として尊崇を受けているらしいカルスは、浮き世の義理を立ててミュシアに全面協力する必要は無いそうで、独特の立場で中立を貫くことも許されるらしい。
「とはいっても、私もミュシア貴族の出だし、マルクスという悪友もいる」
という理由で、カルスはミュシア騎兵部隊の一員として働き始めた。
彼の仕事は戦うことではなく、その準備をする事だった。
準備と一言でいっても、内容は多岐にわたる。食料や武器の調達なんかも大事だけれど、それを運ぶ人や馬の手配、それらが襲われたりしないよう警護する兵の配置、情報を細かく集めるための兵の配置や連絡手段の手配、他の部隊や王の本営への連絡と様々な調整など、やることはいくらでもある。
カルスはそれらの仕事をてきぱきとこなしていく。
周囲の兵士たちも、知の支配者が自分たちの戦いを支えることに違和感は無いらしく、どんどん指示を仰いでいる。
屈強な男たちの集団を自在に操り準備作業を進めていくカルスが、うっかりかっこよく見えたりしないでも無いけれど、きっと気のせいに違いない。
残念ながら私にできることなんかありゃしないのは見え見えだったので、黙ってその光景を見ていることにした。
そのうち、私は異常なまでに視線を感じるようになった。
このくそ忙しいときに不謹慎な、と思わないでもないけれど、明らかに私は、一介の女子高生時代にはあり得なかった注目を浴びていた。
男所帯の陣営地に、品質はともかくとして、少なくとも年頃の女であることは間違いない奴が紛れ込み、しかも彼らにとっては非常に特別な意味を持つらしい竜人を名乗っていると来たら、そりゃ注目もするだろう。昨夜の「アヴェ・ドゥラコ(竜万歳)!」の歓呼は、おざなりなお付き合い程度の掛け声じゃなかった。
芸能人志望でも、お姫様願望の持ち主でも無いから、作業を続ける若い男たちからの熱い視線を受けても、申し訳ないけれどあんまり居心地は良くないし、高められる気分になったりもしない。迷惑だと騒いで視線を嫌悪するほど潔癖でもないけれど。
笑顔をふりまいて周りを明るく照らすような愛想や愛嬌は皆無、上目遣いで男を転がすようなしたたかさも皆無、性差を気にもせず男たちの中に飛び込んでいく無神経さも足りないと来たら、あとは黙って誰とも視線を合わせないようにして、ひっそりと過ごす他ない。
周囲に高まる戦闘へのぴりぴりした緊張感や忙しい空気感にひとり置いてけぼりを食っていた私が、それでも落ち着いていられたのは、どこか当事者感覚を持てなかったからだろう。
そりゃそうでしょう、足手まとい以外に何の意味もない異世界の女なんて、この場にそぐわないこと甚だしいわけで。
私はこの陣営地のお留守番の一員になるのかな、クレスかどこかミュシアの中の街に避難するのかな、くらいに考えていた。多分、たいがいの人々も同じように考えていたはず。
ところが。
そういうのんきな考えは、いつもの男にいつもの調子でぶち壊された。
「何をのんびり観察している。あなたも行くのだから、せめて服の裾をしばるなりして準備しなさい」
「はぁ?」
思わず声を上げてしまった。カルスは全然動じない。
「竜人が戦場も知らぬではどうにもならぬと思っていたが、渡に船だ。いずれやらねばならぬ初陣なら、早いほうがよかろう」
「ちょっと待ってよ、私は武道の心得も無ければそもそも運動能力の無さを頭で何とかフォローしてきた口よ? どう頑張ったって足手まといにしか……」
「案ぜずとも、戦力としては見ておらぬ。足手まとい大いに結構、それも含めての経験だ」
「いや、そうじゃなくて……」
「馬に乗れぬことも問題にはならぬ。なんとでもなる」
ざくざくと話はまとめられ、進められていく。私のささやかな意思なんて、一切汲み取ってもらえなかった。
ガチで最初から戦場に無理にでも引っ張り出す気だったに違いない。この敵の襲撃だって、そろそろ来ると予感してたに決まってる。
でなきゃ、私にサイズぴったりの鎖帷子や冑、小柄でおとなしい馬と小さめで座りの良さ重視の鞍のセット、私が用意してもらっていた分の倍はある着替え、明らかに新調されたらしい竜の紋章入りの携帯食器セットなどが、整然と揃えられているはずがない。
このヤロウ。
アクィルケディアというのは、ミュシアの東にある国。
大アルバ帝国の崩壊以降、この辺りは都市がそれぞれに独立して国を営むようになった。もともと都市国家の歴史があった地域で、アルバ支配下でも各都市の自治権は認められていたらしいから、上に乗っかるように支配していたアルバが滅べば、都市はそのまま独立するのが自然だったらしい。
ミュシアは、クレスやキュリギアなど、いくつかの都市が連合を組んで、他の都市や山賊海賊の類から身を守ったり、経済面で色々と協力したりしながら一体感を強め、ついには統一して国家を作ることになった。その代表として初代国王になったのが、騎兵隊長マルクスのお父さんルキウス・コルネリウス・ルクス。
アクィルケディアはミュシアが都市連合国家として成立する前から、いくつかの大都市が連合して出来上がっていた国で、この周辺では列強として、つまり大国として知られている国。
ミュシアとは、極めて仲が悪いそうで。
「なにしろ、ミュシアが連合国家として統一されるきっかけを作ったのは、アクィルケディアの侵略だからな」
カルスの解説によると、アクィルケディアの侵攻に立ち向かい、人々をまとめあげ、マルクスもそのお父さんも凄まじい戦果を挙げて勝利に貢献、その事もあってお父さんが初代国王に推されたんだそうだ。
「アクィルケディアが相手では個々の都市の力ではとても対抗できない」
その強国アクィルケディアとミュシアの間にあった国が、カルマニアという都市国家。
先年、カルマニア有力者のミュシアを敵視する一派が暴走したのが原因で戦争が起き、ミュシアが勝利した。その時に、ミュシア政府は同格の連合都市としてカルマニアを併合。
ただでさえ煙たいミュシアが、カルマニア併合で強大化するのを、アクィルケディアとしては阻止したかったはず。
でも、それができなかった。
「アクィルケディアも王国なのだが、ちょうど前国王が亡くなってな。我々との戦争どころではなくなった」
血みどろの権力闘争が繰り広げられていたらしい。
「要は、それが終わったということだ」
アクィルケディアがどこまで本気で戦争を考えているかはわからないが、国境付近では既に騎兵部隊の侵攻が始まり、どうも大部隊の重装歩兵も後ろに控えているらしいと、偵察の騎兵から報告が来ているという。
その状況で、まずマルクス率いる騎兵団が行うべき任務は、とにかく敵の情報をつかみ、父王ルキウスやミュシア元老院に至急報告すること。
マルクスは手勢を三分すると、主力を自らが率い、他の部隊を腹心の部下フォカとメディクスに預け、それぞれ別ルートで国境地帯に急行した。
私とカルスは、マルクス率いる主力に同行した。
足手まといの私を連れていくことに、指揮官のマルクスが難色を示すんじゃないかとほのかに期待していた。その反応は。
「竜人は武運の象徴。全力を挙げてお守りし申そう」
正反対ぶっちぎりでした。本当にありがとうございます。
救いは、与えられた馬がかわいかったこと。
乗りやすさ、御しやすさ最優先で選ばれた馬らしくて、小柄で、ずんぐりして、おしりの辺りがやたら大きい。顔も細長くしゅっとしたイメージからはほど遠いもっさり感。
でも、瞳がかわいい。頭はかなり良さそうで、他の馬もよく見ると可愛らしさは感じるんだけれど、この子は図抜けてかわいかった。騎兵たちから見たら不細工ちゃんかもしれないけれど、私はこの子のかわいさに一撃でやられた。
「かわいい」
を連発しながら乗ってみると、なにせ小柄だからそれだけでも乗りやすいのに、私が不器用によじ登ろうとしている間、この子は踏ん張って身じろぎもせずにいてくれた。
馬術のかけらも持ち合わせはないけれど、周りから教えられた通りに腹を脚で締め付けたり叩いたりすることで意思を伝えると、「お嬢ちゃん、つまりはこうしたいんだろ?」とでも言い出したげな様子で従ってくれる。
去勢された三歳の牡馬で、名前は無いらしい。
「名前は私がつけてもいいの?」
きっと私の目は、この時空に飛ばされて初めてのレベルでキラッキラしていたに違いない。
「ご随意に」
カルスが苦笑していた。
でも、とりあえず行軍についていくのが精一杯なので、命名は後回し。
やたら重たくて着心地最悪な鎖帷子や冑を身に付け、まだ名前がない馬にまたがり、そのたてがみにしがみつくようにして必死で行軍についていく。
陣営地があった平原はすぐに途絶え、丘が複雑に入り組む地形になり、やがて馬がすれ違うのは難しいくらいの細い道を通り、そんなに大きくはない峠を越えた。
古代ローマの街道を思い浮かべると少しがっかりかもしれない。あんなにしっかり舗装された道じゃなかった。でも、付近の木はきちんと伐採されて、道は踏み固めるだけじゃなく細かめの砂利まで敷かれている。
この辺りから先はカルマニアの領内で、アクィルケディア軍はこの新しいミュシアの領域を我が物にしようとしていると思われた。いつ敵が出てきてもおかしくないということだ。
マルクスの主力はいつの間にか数が減っていて、精悍な黒衣の騎士の周りは少しずつ寂しくなっていた。
事情は聞かなくてもわかる。細かく偵察したり、父王に報告を出したりで、駆け足で移動しながらも出入りが激しい。
ただ必死に馬にしがみついているうちに日が落ち、疲労のあまり馬から転げ落ちそうになること数度、そのたびにカルスに迷惑そうに助けられながら、なんとかその日の夜営地にたどり着いた。
そこは都市カルマニアの郊外にある小さな村のひとつらしいけれど、詳しくはわからない。疲れ果てて、情報がまるで頭に入ってこなかった。
そこの農家から借りた小屋の軒先に、マルクスの部下たちがわざわざ私用の幔幕を張ってくれた。寝台代わりに藁を敷き詰め、その上に綿の布を張ってくれたのは、軒先を貸してくれた農家の老夫婦だった。
私だけが立派なベッドつきになってしまったので恐縮していると、おばあさんの方が私の顔を拝むようにしながら、
「生きているうちに竜人様のお世話が出来るなんて夢みたいだ」
とつぶやいていた。
そういう身分なのか、と改めて驚いた。
ついでに、少し怖くなった。私に何の力があるというのか。どんな価値があるというのか。拝まれるほどの何ができるというのか。
怖さが「少し」なのは、私が図太かったからじゃない。行軍の疲労が限界を越えていて、それ以上思考が続かなかったからだ。
快適な藁ベッドに寝転んで、私が爆睡しているうちに、マルクスのもとに次々と部下が戻ってきては報告を上げた。
私は朝になってカルスから聞いただけだけれど、報告をまとめると、アクィルケディア軍はまだ本格的な侵攻に取りかかる段階ではないらしい。少数の機動兵力をミュシア国内、特に新しくミュシアの連合内に入ったカルマニアの領内に展開させ、ミュシアの反応を見ようとしているらしかった。
「威力偵察というやつだな」
カルスが分析していたけれど、私は半分も聞いていない。これからの行軍でいかに体力を温存しながらついていけるか、そっちの方が私には大事だったから。
「カルマニアにどれだけミュシアの勢力が浸透しているか、あるいはどのくらいの早さで迎撃の軍を手配できるか、その辺りを武力行使で測ろうというわけだ」
「解説ご苦労さま。それより馬の上で疲れない秘訣を教えてよ」
「背筋を伸ばして、腰でリズムを取れ。馬とリズムを合わせれば、走らせているわけじゃなし、そんなに疲れはせんよ」
聞かれれば、たとえ自分の話の腰を盛大に折られてもちゃんと答える辺り、きっと知の支配者も忍耐が必要だ。
カルスがいうには、アクィルケディア本国で動員準備が進んでいるのは確かで、傭兵を大量に確保し、それ相応の補給物資も集め始めている様子らしい。マルクスの部下には、ミュシア各都市の商人の次男坊三男坊も多いから、人や物資がお金で動く気配には敏感で、情報も確度が高い。
早朝から忙しくしていたマルクスは、私やカルスの出発準備が終わる頃に姿を見せた。
「敵斥候はこちらの兵力が大きいのを察して、早々に逃げ去ろうとしているようだ。せっかくのお出でに矢の一本も馳走しないでは寝起きが良くない」
マルクスは、敵騎兵が本国アクィルケディアに戻る道の途中に先回りし、道をふさいで襲撃したいと説明した。
「フォカとメディクスに既に敵騎兵を追い込むよう命じている。我々はそれに先んじて国境付近に展開する」
「その後はどうする」
カルスが尋ねると、マルクスは片頬で笑った。
「帰るさ。アクィルケディアの本隊を引き受けるつもりは無い」
「出てくると思うか」
「本気でカルマニア奪還に動くかどうかは知らぬ。だが、斥候に出した騎兵が全滅したとなれば、少なくとも国境辺りをうろうろしている我々ミュシア兵を見逃すわけにもいくまい」
「そこから全面衝突に至ることを恐れて、出てこない可能性もあるのではないのか」
「そんな殊勝な神経を持っていたら、そもそもこのタイミングに威力偵察など試みるまいが」
「そうだな。相変わらずの傲慢さだが、そういう連中だな」
二人で話が完結していて、私が入るすきがない。別にそんなすきは欲しくないけれど。
と思っていると、急にカルスが私を見た。
「ということだ、沙紀どの」
「へ?」
油断もすきもあったもんじゃない。
「マルクスの騎兵団はこれから実戦に向かう。我々はもちろんそれに同行し、あなたは初陣を飾ることになる。よろしいか」
「よろしいかって……いいわけないじゃない。でもどうせ私に今さら選択権なんか無いでしょ」
腹立ち紛れに苦情。
「一人じゃ帰れないし、そもそもどこに敵がいるかわからない状態で、どうやって逃げるのよ。行くわよ。行きますよ。だから死ぬ気で守りなさい」
いいたいことをいってやる。
「当然だ」
カルスは眉ひとつ動かさずに応えた。
「なにがあろうとあなたは必ず守り抜いてみせる」
こんな時だけまっすぐな瞳で真摯に語りかけてくるのは、反則だと思う。繊細なくらいの美形だけに。
でも、必ず余計な一言を付け加えないと気が済まない男らしい。
「もっとも、落馬まで阻止し続けられると期待されても困るが」
あの究極に大人しくて頭が良くて協力的な馬でさえ落下しそうになるというのは、私によほど運動神経が足りていないという証拠でしかない。
ちっ。いわれんでもわかっとるわ。