4.馬車に大いに揺すぶられる。
馬という生き物に、私は全然縁が無かった。興味も無かったし、牧場なんか近くにあるわけもなかった。
急に乗れといわれても乗れるはずもないわけで、馬車というものが発明されていたことに私は感謝した。
したはずだった。
ところが。
こいつがもう、凄まじい乗り心地。
まず、車輪にバネが付いてるといっても、付いてるだけ。ぼよんぼよんと揺れると、揺れっぱなしで跳ねまくる。
「ダンパーってもんはないの」
思わず、悲鳴を上げた。
一応、五〇ccバイクの免許は持っているので、サスペンションとダンパーの区別くらいはつく。サスペンションがバネで、ダンパーがその揺れを吸収する減衰器。
それが無いのかと私が怒鳴った相手は、馬車の横を涼しい顔で騎行するカルス。
日が落ちて薄暗くなった野原でも、その顔がはっきりと確認できる己の視力が腹立たしい。
「あるさ。あなたの知っているダンパー、あるいはショックアブソーバーと呼ばれる機械ほどの性能が無いだけで」
「知ってるなら仕組みくらい教えてあげればいいじゃない」
「『知の支配者』はみだりにその知識を公にはできない」
「けちっ」
馬車は、一頭の馬が、ちょうど小さな風呂桶のような形をしている箱の両側に大きな車輪が付いているものを、ガラガラと引いている。映画「ベン・ハー」で見たような、古代ローマの戦車競争で使われた戦車と比べると、だいぶもっさりしている。格好は良くない。しかも屋根も無い。
本来は一人で乗る物らしいけれど、今日はまったくの素人の私が乗るということで、特別に御者つき。
この御者がまた、カルス並みに平然とした顔で立っている。手綱を引いて馬車を操る、その姿勢のいい立ち姿は、非常に安心ではあるのだけれど、漆黒の肌に乗っている表情が極めて涼しげなので、見ていてちょっと腹が立つ。
メディクス、と名乗っていた。
私の着替えが終わってすぐにドムス(邸宅)に入ってきた数人の男たちのうち、名乗ったのは三人。そのうちの一人が、彼、メディクス。
メディクス、というのはあだ名らしい。この世界ではあだ名をそのまま通称として使い、さらには姓にしてしまうことがよくあるらしい。日本ではあんまり考えられないけれど。
「もともとは医師です。今は半分以上兵士になってしまっていますが」
メディクスという単語、そもそも医師という意味の言葉だ。本名はちゃんと別にある。
「偉大なる竜人閣下、クィントゥス・ラエティウスと申します、お会いできて至上の幸福です」
と名乗ってもらったのは一時間ほど前のこと。ずいぶん若いお医者さんだな、と思ったけれど、聞けば、家業が医者だから物心付いたころからずっと医業を仕込まれていて、成人する頃には実際に患者もよく診ていたらしい。
カルスも背が高くてほっそりしているけれど、メディクスはもっと研ぎ澄まされた感じ。脂肪の薄い体に鋼の着肉が張り付いている、軽量級のボクサーのような体つきをしているのがわかる。
私とカルスの会話の意味はよくわかっていないようだけれど、私が馬車の揺れを耐えがたく思っているのは充分わかるようで、
「今しばらくお待ち下さい。じきに到着です」
と、あまり慰めにならないことを口にしてくれた。
なぜ慰めにならないか。
だって、もう何度目だ、そのセリフ。
私の馬車の、進行方向右側の脇をカルスが騎行しているのだけれど、左側にも随行者がいる。
こちらは、巨漢。
でかい。
カルスの長身が小柄に見えかねない大男な上に、筋肉の塊で体中を覆っているような、恐ろしいほどに頑強な体つきをしている。
私も決して小さいほうじゃない。現代でも日本人女子としては大きい部類の、一六七センチある。この世界の人々は人種もばらばらだから一概には言えないと思うけれど、観察している限り、現代人よりちょっと小柄な気がする。私より小さい男性がずいぶん多い気がした。
でも、この男たちに囲まれていると、自分が小柄で華奢な女の子に感じられてくるから不思議だ。電車に乗っていてバスケ部の集団に囲まれてしまったとき以来。うっかり自分がかわいらしく思えてきかねない。
その中でも特に馬鹿でかいこの人は、フォカ、と名乗った。白い肌を金の体毛できらきらと光らせ、マッチョな体を大柄な馬に乗せている。往年のシュワルツェネッガーみたいな人だ。年は若いはずなんだけれど、落ち着きがあるからか、年齢不詳の雰囲気がある。
この人はあまりしゃべらない。しゃべる役はカルスとメディクスに任せているみたいだ。
ちなみにフォカ、という単語は「アザラシ」という意味らしい。
筋肉はすごいしでかい体だけれど、アザラシのようなずんぐりした感じには見えない。どうして「フォカ」になったのか、ちょっと気にならないでもない。
この大男が馬に乗っていると、馬の方が気の毒に見えないこともない。
私が持っている馬のイメージは、だいたいテレビで見た競馬のサラブレッドか、時代劇なんかの騎行シーンから来ている。そういう現代で見られる馬は、世界各地で見られる様々な種類の馬の中では、結構大きな種類だということは知っていた。
だから、目の前に何頭もいる馬が意外に小さな体格だったことに驚きはしなかったけれど、どう見ても二メートル以上ある筋肉ダルマの巨漢に乗られる馬を見たら、そりゃ同情したくなるのが人情というもの。驚いたのは、その見た目に関わらず、その馬が平然とフォカを乗せ、悠々と歩いていることだった。
小柄でも、かなり頑丈に出来ている馬らしい。
ちなみにフォカも、フォカという本名じゃない。
「ガイウス・サエニウスと申します」
と名乗っていた。
メディクスもフォカも、名前がふたつで出来ている。この世界のルールではどうなのかわからないけれど、少なくとも私が知っている古代ローマのルールからいえば、この二人は貴族の出身ではない、ということだ。
貴族と呼ばれるような階級の人々は、名前のほかに姓を二つ持っている。家族名と、氏族名だ。
たとえば、史上有名なカエサル。彼の名前はガイウス・ユリウス・カエサル。
名前がガイウス。その後ろのユリウスというのが氏族名で、カエサルというのが家族名。
「ユリウス氏族のカエサル家のガイウス」
という意味。
この氏族名というのは、簡単に付けられる性質のものじゃない。貴族である証なんだから。
だから、平民階級の人間は、どれだけ資産を持っている商人だろうが、どれだけ武勲を上げた将軍だろうが、氏族名を名乗ることはなかった。
たとえば、共和制ローマ最後の守護者といわれる大ポンペイウス。軍事の才能だけなら古代ローマ史上トップクラスの偉大な将軍で、共和制ローマ元老院の代表者としてカエサルと内戦を戦った人だけれど、この人の名前は「グナウエス・ポンペイウス」。氏族名は無し。大地主の長男として生まれ、実家の富を背景に軍団を編成して戦争に加わったところから、彼の偉大な履歴が始まるのだけれど、どんなに大金持ちのボンボンでも、自分で作った軍団を率いて大戦果を上げようとも、非貴族階級は氏族名を名乗らない。
そういえば「知の支配者」カルスは、ヴァレンティウス・カルスと名乗っていた。
この場合、ヴァレンティウスというのは、私が持っている知識を総動員して考えると、氏族名にしか聞こえない。ということは、彼は貴族の出身ということだ。
中にこれでもかとばかりに綿が入っているとはいえ、こう振動が激しいと決して座り心地がいいといえない馬車の椅子にしがみついている私の横で、涼しげに馬を流しているカルスの横顔を私がにらみつけていると、カルスはその視線を受け流すのが楽しみとでもいうかのように軽く笑顔を見せる。
この笑顔、なるほど、美貌や知性まで持って生まれやがった貴族の小生意気なボンとしか思えん。むかつく。
そもそも私がなぜ馬車になんぞ乗っているのか。
理由は至極簡単。
私が馬に乗れないからだ。
着替えが終わった後、ばたばたと騒ぐ音がした。それは訪問客があるからだとすぐにわかった私は、一応、着替えたばかりのこちらの衣装で品良く立ってお出迎えした。
先頭に立って来たのがカルスで、その後ろに数人の男たちがいた。
どれも若い。
その中に、私が乗っている馬車の御者役を買って出てくれたメディクスと、左隣で馬を歩かせているフォカがいた。
「沙紀どの、これからあなたにはこの世界のことを学んでもらわなければならないが、まずはそのサポートをする人間が必要となる。私ももちろん協力はするが、実際に目で見た方が早いだろう。色々なつてをたどって見学に行くことにしたい」
カルスが説明するには、この街、クレス自体は、治安もいいし竜人に対する理解もあって過ごしやすい場所だけれど、城壁を出た街の外になれば話は違ってくるという。
「最近はだいぶ良くなったが、それでもいきなり戦争が始まることもあれば、山賊追いはぎの類が出ないということもない」
と、怖いことをいう。
こっちは平和ボケのニッポン人だぞ。そりゃ世間には変な奴はたくさんいたけれど、いきなり殺し合いが始まるようなところじゃ育ってないんです。脅すなよ。
「王国が出来てまだわずかしか経っていない。首都をどこに置くかすら、つい最近決まったばかりだ。王家が立つまでは、その辺りの食いっぱぐれが山賊になって荒らしたり、隣国がいきなり攻め込んできたり、まあ色々大変だった」
そんな色々大変だった時期を乗り切るために戦ってきた人たち、その代表者が、メディクスでありフォカだった。
「彼らはクレス防衛隊から始まるミュシア王国騎兵隊の指揮官だ。まだ若いが、これでもミュシア全軍に冠たる猛者だ」
とカルスはいった。何のことやらわからないけれど、若いなりに偉い人たちらしい。
「彼らと、彼らの指揮者に話を通してある。まずは、このミュシアという地域を理解するために、この辺りの視察を行ってほしいのだ」
カルスは本題に入った。私に見学ツアーをさせる気らしい。
確かに、カルスにくどくど説明されつつ眠気に耐えるよりは、外に出て色々と見せてもらった方が理解も早いし楽しいはず。
だいたい、自分がいる場所の見当すら付かないのが困る。せめてなんとなくのイメージくらい欲しい。
それには、街の中を歩き回ることと、ちょっとでもいいから外から眺めてみるのがいい。
私は、自分が生まれ育った東京の都市としてのでかさを、別の地方都市に行って初めて実感できるようになった。外から見るのって、中を知るのと同じくらい大事。
カルスがいうには、さすがに王様にじきじき国を紹介してもらうのは難しいらしい。
「いやいやいや、そんなの私も望んでませんけれど」
「竜人ともなれば、その立場は大国の指導者をも凌ぐ。おいおい説明するが、そのことは頭に入れておいて欲しい。このミュシアの王も、あなたの前では同格にもなれない立場だし、必要があればあなたの前に平伏することすら厭わないだろう」
淡々という。
「だが、何しろ建国早々ということもあるし、つい先ごろの戦後処理の真っ最中ということもあって、王も恐ろしく忙しい。有体に言えば、あなたに構っている暇がない」
「なくていいってば、お偉いさんに会うのなんか、遠慮できたらそれに越したことはないんだし」
私が正直にいうと、カルスは苦笑した。
「それでは困る。何度でもいうが、竜人は非常に高貴な身分なのだ。本人がどう思おうがね。それはともかく、きちんとした立場の人間が案内すれば、どこに見学に行こうが事が円滑に運ぶ。その相手を紹介したいのだ」
「あんたでいいんじゃないの」
無愛想きわまる声で私がいう。大概態度の悪い女だ。エリカ様か。
後ろで聞いていたメディクスやフォカも、ちょっと意外そうな顔をしている。
カルスは相変わらずで、ちっとも気にした様子がない。
「私でももちろん構わない。だが、私には、全くといっていいが、権力がない。みな『知の支配者』として敬ってくれはするが、実際の権限は何一つ持たない身でね」
カルスが私に紹介したいのは、その新しく出来た王国の、騎兵隊を仕切っている将軍なのだそうだ。メディクスやフォカの上官、ということだ。
「この二人を送ってきたのは、即日来られない非礼を詫びるためだそうだが、明日にでも本人がこちらに来るようだ。近くにはいるらしいが」
「近くってどれくらい」
とっさに聞き返したのは、単純にこいつらが「近い」というのがどのくらいの距離感なのか知りたかったから。
「さて、距離でいえば五ミッリアリウム程度かな」
カルスが後ろの男たちに確認する。いかにも理系人間的な黒人男性がそれに答える。もちろん、彼がメディクス。
「二分の十一ミッリアリウム程度かと」
分数で表現するのが古代ローマの風習というのは知っていたから、実際に聞いてちょっと驚いたけれど、すぐに換算できた。約五・五ミッリなんとか。
「つまり、あなたの知る単位でいう、約八キロメートルというところだな」
カルスが換算してくれた。
たしか、ミッリアリウムというのはローママイルのことで、一・四八キロメートルくらい。
その程度は「近く」らしい。車もバイクもない時代だけれど。
「こっちから歩いていくにはちと遠いか」
と私がつぶやくと、カルスたちは聞き逃さなかったようで、突っ込んできた。
「あなた自身で行かれるおつもりか」
「うーん……まあ、行った方が早いかなあ、とも思うし、色々見て回らないとさ、わからないことが多すぎて、自分が何をしたらいいのかイメージつかめないんだよね」
正直なところをいうと、カルスはうなずいてくれた。
「確かに、早めに色々見て回った方がいいだろうが」
「でも、城壁の外って出ないほうが無難なんでしょ」
「護衛がいれば構わぬ。メディクスやフォカはおそらく望むべき最高の護衛役だ」
「だったら、事情が許すんなら私の方から挨拶に行くよ。騎兵団の将軍様だって、私に会いにわざわざ出向いてられるほど暇じゃないんでしょ」
「そうしてくれるのなら、ありがたかろう。どうだ」
カルスが後ろに確認する。
一団の中で一番でかい人、フォカがうなずいた。
「カルマニアの残党狩りもひと段落着いて、兵馬を休ませている折だ。お出で下されば、騎兵たちの様子も見られて一石二鳥でしょう」
「決まりだな。それではそのように手配を」
カルスがいうと、フォカとメディクスがさっと身を翻した。その素早い動作が、見ていて快い。
「では、あなたも準備をされるがよい」
「へ?」
いきなり振られて、私は素で聞き返した。
カルスはごく当たり前のようにいった。
「早速、行こう」
「はい? これから? え? もう夜なのに?」
「部屋は暗いが、外はまだ明るい。今から行けば騎兵団の夕食にも間に合うだろうしな」
意表を突かれた。てっきり明日の話だと思っていたのに。
まあ、別に見たいテレビが見られるわけでもないし、友達と会う約束もなければ、遅いとくどくど文句をいう母がいるわけでもない。
非常にさびしい女に成り果てている今、別にお誘いを断る理由も無いか。暗くっても、護衛がいれば安全だって判断なんだろうし。
「てか、準備っていったって、準備するものなんかなーんにも持ってないんですれど」
「そうだったな。では、これから出かけるという気構えだけは作っていただこう」
「作ったってば。もったいぶらないで、さっさと出ようよ」
私はつっけんどんにいいながら歩き出した。その後に控えている悲劇も知らず。
その悲劇は、元老院側とは別にある道を通り、外に出てすぐに私に襲い掛かってきた。
考えなくたってわかるけれど、八キロメートルって、一言でいうけれど結構な距離だ。まともに歩いてたら二時間コース。まして私みたいなお荷物つき。
そりゃ、歩いて行くわけないよね。騎兵団の指揮官たちだって紹介されてるんだし、なおさら。
で、外に出たら、いたわけだ、馬たちが。
乗るのか、これに。
誰かが前か後ろに座ってくれていれば、騎士道伝説のお姫様よろしくぽこぽこ乗っていけないでもない気がしたけれど、期待はあっさり崩された。
もちろん、私の期待やらなんやらをぶち壊すことに関しては第一人者に成りつつある、あの男によって。
「たぶん無理だろうな。その服が乗馬に向いていないのももちろんだが」
と、カルスが冷静に指摘する。
「馬に乗るというのはそう簡単なことではない。あなたも知っているとは思うが、彼らの乗る馬には鐙が無い」
あ。
そうでした。そうでしたね。
大の歴史オタクが知らないわけはない。古代ローマの時代、人類はまだ鐙というものを知らなかった。
あぶみ、というこの道具は、要するに馬に乗っている際に足を置くためのもの。馬に乗るための足がかりにしたり、乗っている時に踏ん張ったりする道具だけれど、これが発明されることで飛躍的に馬が乗りやすい動物になった。
それまでは、馬に乗るというのは、特殊技能といえた。だから古代史では騎兵という存在が非常に貴重だったし、それが育つ土地の傭兵たちが大活躍していた。生まれた頃から馬に慣れ親しめるような環境に育たないと、なかなか乗りこなせない代物だったのだ。
逆に、鐙が普及するにつれ、馬に乗ること自体は大した特殊技能ではなくなり、常に馬に乗って原野を駆け巡るような場所ではない農耕地域の人間でも、騎兵となって働けるようになった。
たとえば中世ヨーロッパの花である騎士は、それまでの歴史では見られなかったような長大な槍を持ち、ありえないほどの重装備で戦場に出たものだけれど、これは、鐙のおかげで馬の上でしっかり踏ん張れるようになったから、出来るようになったことだ。裸馬に乗って出来ることじゃない。
その鐙が、無い。
「まあ、乗っているだけならば大丈夫とは思うが、万が一ということもある。しっかり練習してからでなければお勧めは出来んね」
というわけで、私のお馬さん同乗計画は、思いついた瞬間に崩れ去ってしまった。
そこで出てきたのが馬車、というわけだ。
邸宅にもともと存在していたらしいこの馬車、最初の乗り心地は良かった。なにしろ椅子のふかふか具合が素晴らしくて、鉄製の板バネ数枚が重なった上に乗っかっている車台も、結構いい乗り心地なんじゃないかなって思えた。
結果、甘かったけれどね。
バネ自体の性能がどんなに良くても、その振動を抑える物がないと大変なことになる。私は強烈な乗り物酔いでその教訓を叩き込まれることになってしまいましたとさ。
ちゃんちゃん。
いや、まだこの長い一日は終わってない。残念なことに。