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師走の夜

作者: 望月

 今、丁度宿題が終わった。算数のドリルだった。

 最近ちっとも進めていなかったせいで、僕はクラスのみんなよりも、ほんの少し範囲が多い。おかげで今日は、八時から勉強を始めて、九時半までかかってしまった。

 はぁ、と深いため息をする。とりあえず机の上に散らばった消しカスと、丸付けに使った赤鉛筆を片づけ、いつもより少し早いが、先に出て待っていることにした。

 

 

 チッ、チッ・・・・・・。

 冬のベランダは、自分の呼吸と、時計の針の動く音くらいしか聞こえない。

(まだあと三十分あるか)

 手首につけたぶかぶかの腕時計が、呼吸に合わせて時を刻む。

 僕の腕は細っちかった。

 あんまり肉付きが良くなくて、本当に、華奢なのだ。

 クラスの女の子は、細くて羨ましいとか、交換してほしいだの何だの言ってるけど、僕は出来れば、もっと筋肉質で男らしい腕がよかったと思っている。その方が僕には都合がよかった。

 と、ふと家々の間を仕切る薄っぺらい壁から、隣のベランダに誰かが出てくる音がした。

 誰か、といっても僕には心当たりがあった。きっと彼女なのだろうと思う。

 案の定、僕の予感は外れてなどいなかった。

「今、いる?」

 壁にもたれかけているんだろう。心配そうなか細い声が、僕のすぐ横で聞こえた。

「うん、いるよ」

「そう、よかった」

 次に安堵したような吐息が聞こえる。僕も、きっと彼女ももたれかけているであろう壁に寄りかかった。

「にしても、今日はずいぶんと早いのね。まだ五十分よ」

 彼女の問いかけに答えるようにして、細っちい腕についた腕時計を覗くと、たしかにまだ約束の十時にはなっていなかった。

「別に。ただ今日は十五夜の月だから、早めに来て見ておきたかっただけさ」

 我ながら何とも分かりやすい言い訳だった。それでも彼女はそれを信じているように、話を続ける。

「十五夜の月?」

「満月のことさ、昔はそう呼んでたんだって。先生が言ってた」

「ふうん、そうなの」

 僕は彼女の「ふうん」が好きだ。何か、新しいことを知ったとき、彼女は素直に頷くことが出来る。彼女が「ふうん」を使ったときは、僕の話題を大事に記憶してくれているようで、何だか胸がきゅっとなる。

「あ、本当だわ。今日は満月だったのね、きれい」

「だろう、満月ってのは新月から数えて十五日目にあるから、十五夜の月なんだってさ」

「ふうん、結構物知りさんなのね」

「僕が物知りなわけじゃないさ。物知りなのは教えてくれた先生だよ」

「でも、あなたももう知識として覚えているんだから、物知りさんだわ」

「そうかなあ」

 雲一つない満天の星空を見つめる。

 流れ星は毎日何十個も流れている、なんてクラスの誰かが言ってたけど、僕はまだ一度も見たことがない。これだけ沢山の星が見えているのに、流れ星だけはいつも見えない。

「もうすぐ今年も終わっちゃうのね」

 ちょっぴり寂しげに彼女は言ってみせた。

「そうだね、あともう少しだ」

 釣られて僕もしんみり言ってしまう。

 そうだ、気がつけば今年も終わってしまうんだ。来年からはもう最後の小学校生活なのだ。

「外、出てみたいんだけどな」

 捨てられた子犬のようだった。

「まだ出れないのかい」

「ううん・・・・・・。微妙、かな。体はもう平気らしいんだけど、私、人ごみって苦手なの」

「じゃあ学校に来れるかどうかは分からないんだ」

「うん」

 話題が途切れる。別にいつも話題に豊富なわけではないから、沈黙することはよくあるけど、今日の沈黙はやけに重たい。

 妙に気まずくて黙りこくっている僕の代わりに、話題を振ってきたのは彼女のほうだった。

「あ、でも・・・・・・私が倒れてもすぐに助けに来てくれるような、力持ちな人がそばにいたら、学校だってへっちゃらかもね」

 ふふふ、と小さく笑うのが分かる。

 僕は自分の白くて細いチョークのような腕を伸ばしてみて、さめざめ泣きたくなった。

「それが君のヒーロー、だもんね」

「うん、そうね。それが私のヒーローだわ」

 夜空を見上げ、僕は来年の抱負を「筋力をつける」にしようと心に決めた。断固たる決意だ。「物知りさん」になれたとしても、倒れかけている女の子を救えやしないのだ。

「風、冷たいね」

 時計を見ると十一時を回りそうだった。

「そうだね。これ以上いると体が冷めちゃうや、今日はここで終わりにしようか」

「うん、そうしましょう。・・・・・・あ、そうだちょっと待って」

 彼女の声が急に落ちた。何となくだが、次に発せられる言葉が何か分かる気がする。どうせいつも同じ返答になるだろうに、それでも彼女は決まって帰り際に聞いてくる。

「明日も、ここに来てくれるかな」

「うん、勿論」

「そう、よかった」

 それじゃあ、といってお互いのベランダの戸を開けた。室内の暖気がやんわり体を包み込む。自然とため息が出た。

 

 テレビでは夜の天気予報が流れている。明日の天気は午後から雪らしい。今冬初めての雪だ。

―――ああ、まったく。

 どうやら僕は、また流れ星を見る機会を逃してしまうようだ。もう一度、僕は彼女と別れたばかりのベランダに出て、零れだしそうな星たちを見上げてみる。

 西の空の、遠くのほうで、何かがきらりと光るのが見えた。

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