第8章 挙兵の夜
夏の終わりの空気は、どこか重かった。
風が止まり、虫の声すら遠く、
城下は嵐の前のような静けさに包まれていた。
治部は、地図の広げられた机の前に立っていた。
その眼差しは、もはや政務官のものではなかった。
世界を裁く者の眼だった。
「刑部。
家康殿は、ついに兵を動かす気配を見せています」
刑部は治部の背中を見つめながら、静かに答えた。
「治部。
あなたはどうするつもりだ」
治部は迷わなかった。
「挙兵します。
正しさを守るために」
その声音には、恐れも迷いもなかった。
ただ、純粋な確信だけがあった。
刑部は、わずかに目を伏せた。
「治部……挙兵は、もはや後戻りできぬ道だ」
治部は振り返り、刑部をまっすぐに見た。
「後戻りする必要はありません。
正しさは、前にしか進まない」
その一言に、刑部は胸の奥で静かに笑った。
(そうだ。
治部は、もう完全に“純白の狂気”だ)
治部は続けた。
「刑部。
あなたは……私と共に来てくれますか」
その問いは、かつての“友情”の名残ではなかった。
信仰の確認だった。
刑部は、ゆっくりと頷いた。
「もちろんだ、治部。
私は、あなたの正義を信じている」
治部の表情に、わずかな安堵が浮かんだ。
だがその瞬間、刑部の胸の奥では別の声が響いていた。
(治部よ。
お前が挙兵すれば、家康殿は必ず動く。
その混乱の中で、私は“悪”を完全に隠せる)
治部は地図に手を置いた。
「刑部。
私は、この国を正しくしたいのです。
正しくない者が力を持つ世界を、終わらせたい」
刑部は静かに言った。
「治部。
正しさのために戦う者は、美しい。
だが――」
治部が顔を上げた。
「だが?」
刑部は、灯火の揺らぎの中で微笑んだ。
「美しいものほど、壊れやすい」
治部はその言葉の意味を理解しなかった。
理解しようともしなかった。
(私は壊れない。
正しさは壊れない)
治部はそう信じていた。
だが刑部は知っていた。
(治部。
お前は壊れる。
だが、その壊れ方こそが――
私の描く“冷たい秩序”の完成形だ)
夜が深まるにつれ、治部の決意は鋼のように固まっていった。
「刑部。
私は、明日、挙兵します」
刑部は静かに頷いた。
「治部。
その決断は、歴史を動かす」
治部は微笑んだ。
「歴史は、正しい者が作るものです」
刑部は、その言葉を聞きながら胸の奥で呟いた。
(違う。
歴史は、“語り継がれる形”を選んだ者が作るものだ)
治部は地図を折り、灯火を吹き消した。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
**世界が、音もなく“戻れない側”へ傾いた。**
刑部はその気配を、誰よりも深く味わっていた。
(治部。
お前は今、自分の正義に飲み込まれた。
そして私は――その正義の崩壊を、美として見届ける)
灯火の消えた闇の中で、
二人の影は、もはや“友”のものではなかった。
こうして、石田治部少輔は挙兵を決意し、
大谷刑部少輔はその決意を“静かに祝福”した。
関ヶ原へ向かう歯車は、
ついに、不可逆の音を立てて回り始めた。




