第7章 沈黙の裏切り
治部の正義は、もはや誰にも止められなかった。
味方であろうと、恩人であろうと、
誤りを犯した者は容赦なく切り捨てられた。
「治部殿は、恐ろしいほどに正しい」
「治部殿は、恐ろしいほどに容赦がない」
そんな囁きが、城中のあちこちで聞こえるようになっていた。
治部はそれを知っていた。
だが、気にも留めなかった。
(正しくない者が去るのなら、それでいい。
正しさを濁らせる者は、味方ではない)
その確信は、もはや信念ではなく、
**世界を裁く者の思想**だった。
その一方で、刑部は静かに動いていた。
徳川家康の側近から、密かに文が届いたのは、
ある雨の夜だった。
――大谷殿。
治部殿の動き、いかが見えるか。
刑部は文を読み、灯火の下で静かに笑った。
(家康殿よ。
あなたは治部を恐れている。
だが、恐れるべきは治部ではない。
治部を動かしている“正義”だ)
刑部は筆を取り、短く返書を書いた。
――治部は、止まらぬ。
止める者がいない。
それは裏切りではなかった。
刑部にとっては、ただの“保険”だった。
治部が勝っても、負けても、
自分の悪が露見しないようにするための、
冷静で、静かな布石。
翌日、治部が刑部の部屋を訪れた。
「刑部。
また家康殿が勝手な動きをしているようです」
治部の声音は、怒りではなく、
**正しさを侵された者の静かな憤り**だった。
刑部は微笑んだ。
「治部。
家康殿は、あなたの正義を恐れているのだ」
治部は目を細めた。
「恐れるべきは、正しさを欠く者です。
私は、正しさを守るだけです」
刑部は頷いた。
「その通りだ。
だが治部……あなたは、少し急ぎすぎている」
治部は眉をひそめた。
「急ぎすぎている……?」
「正しさは、時にゆっくりと浸透させる方が良い。
あまりに速く進めば、反発を生む」
治部はしばし沈黙した。
「私は……正しさを遅らせることができません。
誤りがあるなら、すぐに正すべきです」
刑部はその言葉を聞きながら、
胸の奥で静かに別の思いを抱いた。
(治部は、もう誰の声も届かぬ場所にいる)
治部は続けた。
「刑部。
私は、あなたを信じています。
あなたは、私の正しさを理解してくれる唯一の人だ」
その言葉に、刑部は微笑んだ。
「もちろんだ、治部。
私は、あなたの正義を信じている」
だがその微笑みの奥には、
波ひとつ立たぬ静けさがあった。
治部は気づかない。
刑部は、治部の正義を“信じている”のではなく、
**利用している**のだということに。
その夜、刑部は再び家康側へ文を送った。
――治部は、もはや止まらぬ。
いずれ、あなたの前に立ちはだかる。
文を封じたあと、刑部は灯火を見つめた。
(治部が勝てば、私は治部の正義の影に隠れられる。
治部が負ければ、私は家康殿の秩序に紛れ込める)
そして、胸の奥で静かに呟いた。
(歴史とは、強者が作るものではない。
“語り継がれる形”を選んだ者が作るものだ)
その一滴が、刑部の悪の核心だった。
灯火が揺れ、刑部の影が壁に伸びた。
その影は、善人のものではなかった。
こうして、治部の正義は狂気へと進み、
刑部の悪は沈黙の中で深まり、
関ヶ原へ向かう歯車は、
さらに速く、さらに静かに回り始めていた。




