表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
関ヶ原に棲む悪魔  作者: 双鶴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/14

第6章 純粋の狂気

 石田治部少輔。

 大谷刑部少輔。


 城中では、いつの間にか二人はそう呼ばれるのが当たり前になっていた。

 だが、二人のあいだだけは、まだ昔の名が残っていた。


 「紀之介、あの件の書状は確認したか」


 「治部……いや、佐吉。

  あなたの目は、すでにすべてを見通しているだろう」


 治部――佐吉は、わずかに眉をひそめた。


 「私は、正しいかどうかを見ているだけです」


 その声音には、かつての柔らかさはなかった。

 正しさだけを見つめる、冷たい光が宿っていた。


 最近、治部の評判は二つに割れていた。


 「治部殿は、恐ろしいほどに正しい」

 「治部殿は、恐ろしいほどに容赦がない」


 誤りを犯した者は、味方であろうと容赦なく切り捨てられた。

 情も、恩も、立場も、治部の前では意味を失う。


 ある日のこと。

 ある武将が、わずかな不始末を咎められ、治部の前に呼び出された。


 「治部殿、どうかお情けを……。

  これまでの働きもお汲み取りいただきたい」


 治部は静かに首を振った。


 「過去の働きは、過去のものです。

  今、誤りを犯したという事実は消えません」


 「しかし……!」


 「政は、情で動かしてはなりません。

  誤りは、正されねばならない」


 その声音には、怒りも憎しみもなかった。

 ただ、冷たい確信だけがあった。


 武将は顔を歪めた。


 「治部殿……あなたは正しい。

  だが、その正しさは、人を殺しますぞ」


 治部は一瞬だけ目を伏せた。

 だが次の瞬間、その瞳には何の揺らぎもなかった。


 「正しさを守るために必要な犠牲ならば、受け入れます」


 その言葉は、刃そのものだった。


 その場に同席していた紀之介――刑部は、

 そのやり取りを黙って見つめていた。


 (ここまで来たか、佐吉)


 武将が去ったあと、治部はふと息を吐いた。


 「紀之介。

  私は……間違っているのでしょうか」


 その問いには、かつてのような迷いはなかった。

 ただ、自分の進む道が“正義”であることを再確認したいだけの声音。


 紀之介は静かに首を横に振った。


 「いいや。

  あなたは正しい。

  正しさを貫く者は、必ず誰かを切り捨てる。

  だが、それを恐れてはならない」


 治部は目を閉じた。


 「私は、恐れてはいません。

  ただ……」


 「ただ?」


 「正しくないものが、この世に存在し続けることの方が、耐え難いのです」


 その一言に、紀之介は確信した。


 (もう戻れない)


 佐吉は、もはや“正義の若者”ではない。

 **純粋な狂気そのもの**になりつつあった。


 その夜、刑部の部屋には灯火がひとつだけ灯っていた。


 紀之介は机に向かい、静かに筆を走らせていた。


 ――治部の性質

 ――治部が切り捨てた者たち

 ――治部が「正しくない」と断じた基準

 ――治部が、まだ切り捨てていないもの


 (治部は、もはや自分の正義を疑わない。

  疑わぬ者は、強い。

  そして、壊れやすい)


 筆を止めたとき、扉が叩かれた。


 「……刑部」


 呼びかけの声に、紀之介はわずかに目を細めた。


 扉の向こうから聞こえたのは、治部の声だった。

 その声音には、かつての“佐吉”の影が一切なかった。


 「入れ」


 扉が開き、治部が姿を見せた。


 「紀之介……いや、刑部」


 その言い直しに、紀之介は微かに笑った。


 「どうした、治部」


 初めて、二人は互いを官職名で呼び合った。


 それは、かつての“友情”が、

 完全に“役割と支配”へと変質した瞬間だった。


 治部は灯火の下に立ち、静かに言った。


 「刑部。

  私は、これからもっと多くを切り捨てることになるでしょう。

  それでも、私は正しいのでしょうか」


 紀之介は立ち上がり、治部の前に歩み寄った。


 「治部。

  あなたの正義は、もはや誰にも止められない。

  そして――」


 紀之介の声は、闇の中で静かに沈んだ。


 「正しさのために世界が壊れるなら、

  それは世界の方が間違っているのだ」


 治部の瞳に、静かな炎が宿った。


 「ならば、私は進みます。

  たとえ、すべてを失おうとも」


 紀之介は胸の奥で別の言葉を呟いた。


 (そうだ。

  すべてを失え、治部。

  その果てに生まれる“冷たい秩序”こそ、私の望む世界だ)


 灯火が揺れ、二人の影が壁に重なった。

 その影は、もはや“若き友”のものではなかった。


 こうして、石田治部少輔の正義は、

完全に“純粋の狂気”へと変質し、

 大谷刑部少輔の悪は、その狂気を抱きかかえるように静かに笑っていた。


 関ヶ原へ向かう歯車は、

 もはや誰にも止められぬ速さで回り始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ