第5章 家康という照明
徳川家康の名が、政務の場で囁かれることが増えた。
その存在は、静かに、しかし確実に秀吉政権の空気を変えつつあった。
「家康殿は、また勝手な動きを……」
「石田殿、どう思われますか」
諸将の視線が佐吉に集まる。
佐吉は迷わなかった。
「家康殿の行いは、法に照らして不当です。
正すべきです」
その声音は、いつもより鋭かった。
家康の存在が、佐吉の正義を照らし出していた。
まるで、光が影を濃くするように。
評定が終わると、佐吉は廊下を歩きながら拳を握りしめた。
(家康殿は……正しくない。
このままでは、世が乱れる)
その思いは、怒りに近かった。
いや、怒りそのものだった。
そのとき、背後から声がした。
「佐吉」
振り返ると、紀之介が立っていた。
「家康殿の件、気にしているのだな」
佐吉は息を吐いた。
「紀之介……私は、どうしても許せないのです。
法を曲げ、己の都合で動く者を」
紀之介は静かに頷いた。
「家康殿は、強い。
だが強さは、正しさとは違う」
佐吉の目が鋭く光った。
「正しくない者が力を持てば、世は乱れます。
私は、それを許せません」
紀之介は、その言葉を聞きながら、
胸の奥で静かに微笑んだ。
(いい。
家康という“照明”が、佐吉の正義を照らし出している)
家康は悪ではない。
ただ、佐吉の正義を“燃え上がらせる光”だった。
紀之介は歩き出し、佐吉の隣に並んだ。
「佐吉。
あなたの正義は、家康殿のような者がいるからこそ輝く。
正しさは、敵を得て初めて形になる」
佐吉は立ち止まった。
「敵……」
「そうだ。
正義は、敵がいなければ存在できない。
家康殿は、あなたの正義を照らす“光”だ」
佐吉は息を呑んだ。
(家康殿が……私の正義を照らす?)
その言葉は、佐吉の胸に深く沈んだ。
紀之介は続けた。
「家康殿が動くほど、あなたの正義は強くなる。
あなたは、家康殿に勝たねばならない。
正しさを守るために」
佐吉の瞳に、炎のような光が宿った。
「……わかりました。
私は、正しさを守ります。
たとえ相手が誰であろうと」
紀之介は微笑んだ。
その微笑みは柔らかく、優しく、温かかった。
だがその奥には、波ひとつ立たぬ静けさがあった。
(そうだ。
その炎を燃やせ、佐吉。
家康という照明が、お前の正義を狂気へ導く)
その夜、佐吉は灯火の下で書状を読み返していた。
家康の名が記された箇所に、指が止まる。
「正しくない……」
その呟きは、祈りのようであり、呪いのようでもあった。
紀之介は遠くからその姿を見つめていた。
(家康殿よ。
あなたは敵ではない。
あなたは、佐吉の正義を照らす“光”だ。
その光が強ければ強いほど――
佐吉は、より深い狂気へ進む)
紀之介はふと、窓の外の闇を見た。
(そして私は、その狂気を使って――
この国を、冷たく澄んだ秩序へ作り替える)
灯火が揺れ、紀之介の影が壁に伸びた。
その影は、善人のものではなかった。
こうして、家康という“照明”によって、
佐吉の正義は炎のように燃え上がり、
その炎は、もう誰にも消せなくなっていた。
関ヶ原へ向かう歯車は、
またひとつ、確実に噛み合った。




