第3章 正義の軋み
佐吉が秀吉の政務に加わるようになってから、
その几帳面さと正確さは、ますます際立っていった。
だが同時に、周囲との摩擦も増え始めていた。
「佐吉殿、そこまで細かく言わずとも……」
「細かいことではありません。
誤りは誤りです。正すべきです」
佐吉は淡々と答えた。
その声音には怒りも誇りもない。
ただ、正しさへの揺るぎない確信だけがあった。
その“確信”が、周囲の空気を少しずつ変えていく。
「また石田か……」
「正しいのはわかるが、あれでは息が詰まる」
そんな声が、廊下の隅で囁かれるようになった。
紀之介は、その変化を静かに見つめていた。
(いい兆しだ)
佐吉の正義は純白だ。
だが純白は、ほんのわずかな汚れにも敏感で、
そして自らを守るために、より強く輝こうとする。
その輝きが、周囲の目には“眩しすぎる光”となる。
その日の夕刻、紀之介は佐吉を呼び止めた。
「佐吉。少し、よろしいか」
佐吉は振り返り、わずかに疲れた表情を見せた。
「紀之介……。
私は、間違ったことをしているのでしょうか」
紀之介は首を横に振った。
「いいや。あなたは正しい。
ただ、正しい者は、時に周囲から疎まれる」
佐吉は目を伏せた。
「私は……正しくありたいだけなのです。
それが、秀吉様のお役に立つと信じて」
紀之介は静かに頷いた。
その仕草は優しく、温かく見えた。
だがその瞳の奥には、波ひとつ立たぬ静けさがあった。
「佐吉。
正しさは、時に人を傷つける。
だが、それでも正しさを貫く者がいなければ、世は乱れる」
佐吉は顔を上げた。
その瞳には、迷いと決意が入り混じっていた。
「私は……正しさを捨てたくありません」
「ならば、貫けばいい」
紀之介は微笑んだ。
「あなたの正義は、美しい。
私は、それを信じている」
その言葉は、佐吉の胸に深く響いた。
(紀之介は……わかってくれる)
佐吉は、初めて心の底から安堵した。
だが紀之介の胸の奥では、別の思いが静かに形を成していた。
(正しさに取り憑かれた者ほど、導きやすい)
その夜、佐吉は書状の山に向かい、
ひとつひとつの誤りを正し続けた。
その姿は、まるで祈りのようだった。
正しさを守るための、静かな祈り。
だがその祈りは、
周囲の者たちには“融通の利かぬ頑なさ”に映り始めていた。
翌朝、廊下の空気はさらに重くなっていた。
「また石田か……」
「正しいのはわかるが、あれでは……」
佐吉はその声を聞いても、表情を変えなかった。
ただ、筆を握る手に力がこもった。
その手は、正しさを守るために震えていた。
怒りではない。
恐れでもない。
**正しさを失うことへの、異常なほどの拒絶。**
紀之介は、その様子を遠くから見つめていた。
(そうだ。
そのまま進め、佐吉。
正義を貫け。
その先にあるものを、私は見たい)
紀之介の微笑みは柔らかかった。
だがその奥には、温度がなかった。
こうして、佐吉の“正義”は静かに軋み始め、
紀之介の“支配”は、音もなく深まっていった。
そして、関ヶ原へ向かう歯車は、
またひとつ、確実に噛み合った。




