第1章 正義の子
石田佐吉――後の三成が初めて「正義」という言葉を意識したのは、まだ幼い頃だった。
寺で学んでいた彼は、嘘をついた子を叱りつける僧の手を、迷いなく掴んだ。
「嘘は悪いことです。でも、怒りで叩くのは、もっと悪いことです」
その声は震えていなかった。
ただ、真っ直ぐで、揺らぎがなかった。
その日から寺では囁かれた――あの子は正義の子だ、と。
だが佐吉自身は、その呼び名を知らない。
ただ、正しいと思うことを言い、正しいと思うことを行うだけだった。
その真っ直ぐさは、やがて秀吉の目に留まる。
鷹狩りの帰途、秀吉が喉の渇きを訴えた。
夏の陽は高く、風は湿り、草木の匂いが濃い。
家臣たちは慌てて湯を沸かし、茶を用意しようと右往左往していた。
その時、佐吉が迷いなく前へ進み出た。
「お待ちください」
彼はまず、**とても熱い茶を少量**差し出した。
湯気が立ち上り、香りが秀吉の鼻をくすぐる。
「まずはこれを。体が冷えておられますゆえ、強く温めるのが最も良いと存じます」
秀吉は一口含み、目を細めた。
「次だ」
佐吉はすぐに、**熱いが適量の茶**を差し出した。
先ほどよりも湯気は弱く、口当たりが柔らかい。
「体温が戻りつつあります。今は熱すぎず、しかし温を保つ量が最も良いと存じます」
秀吉の口元が緩む。
「三度目だ」
佐吉は最後に、**やや熱いが、たっぷりの茶**を差し出した。
器の表面には薄い湯気が漂い、香りが深い。
「気力を戻すには、やや熱い茶を十分に。これが最も良いと存じます」
秀吉は笑った。
その笑いは、ただの愉快ではなく、
**“この子は使える”**
という確信の笑いだった。
「名は?」
「石田佐吉と申します」
その瞬間、佐吉の人生は大きく動き始めた。
――そして、その場にもう一人、若き武将がいた。
大谷吉継。
まだ病の影はなく、端正な顔立ちに清潔な衣をまとい、
その佇まいは静かで、どこか涼しげだった。
だが、その瞳の奥には、年齢に似つかわしくない“深い静けさ”があった。
吉継は佐吉を見つめていた。
その視線には、驚きも感動もない。
ただ、冷たい観察だけがあった。
(この子は、正義を信じている。
純粋で、真っ直ぐで、壊れやすい。
――そして、利用価値がある)
佐吉が秀吉の前で頭を下げる姿を見ながら、
吉継の胸の奥で、何かが静かに動いた。
それは感情ではない。
もっと冷たく、もっと深く、もっと人間離れした“何か”。
佐吉が秀吉の前から下がると、吉継は歩み寄った。
柔らかな笑みを浮かべ、礼儀正しく声をかける。
「見事な献茶でした、佐吉殿。
あなたの判断は、理に適っている」
佐吉は驚き、そして嬉しそうに微笑んだ。
自分の“正しさ”を理解してくれる者がいる――
その事実が胸を熱くした。
「ありがとうございます。
正しいと思ったことを、ただ……」
「ええ。あなたは正しい」
吉継は優しく頷いた。
だがその瞳の奥には、温度がなかった。
(正しい者ほど、導きやすい)
佐吉は気づかない。
吉継の言葉が、彼の“正義”をさらに研ぎ澄ませ、
やがて“狂気”へと変質させる刃になることを。
「石田佐吉……美しい」
吉継は誰にも聞こえぬ声で呟いた。
その呟きは、称賛ではなかった。
欲望でも、憧れでもない。
ただ――
**“壊す価値のある美しさ”**
を見つけた者の声だった。
この日、二人の“友情”が始まった。
だがそれは、佐吉が信じた友情であり、
吉継が仕組んだ“支配”の始まりでもあった。
そしてこの瞬間から、関ヶ原へ向かう運命の歯車は、
静かに、しかし確実に回り始めていた。




