第9章 関ヶ原:狂気と悪の舞台
関ヶ原の夜明けは、異様な静けさに包まれていた。
霧が低く垂れこめ、兵の息遣いすら吸い込んでしまうような白さだった。
治部は、前線の丘に立っていた。
その眼差しは、もはや戦を指揮する者のものではなかった。
世界を裁く者の眼だった。
「刑部。
この戦は、正しさを取り戻すための戦です」
刑部は治部の横顔を見つめ、静かに頷いた。
「治部。
あなたの正義は、今日、試される」
治部は霧の向こうを見つめた。
「試されるのではありません。
証明されるのです」
その声音には、もはや人間の迷いはなかった。
ただ、純白の狂気だけがあった。
やがて、霧の向こうから鬨の声が響いた。
家康軍が動き始めたのだ。
治部は刀を抜き、叫んだ。
「正しさを欠く者を討て!
この戦は、正義の裁きである!」
その叫びは、戦の号令というより、
世界への宣告だった。
兵たちは震えた。
敵ではなく、治部の“正義”に。
一方、刑部は後方で“善人の仮面”を完璧に演じていた。
「治部を支えよ!
皆、治部の正義のために戦うのだ!」
その声は温かく、優しく、味方を鼓舞するものだった。
だがその奥には、波ひとつ立たぬ静けさがあった。
(治部よ。
お前の正義は、今日ここで壊れる。
だが、その壊れ方こそが――
私の描く“冷たい秩序”の礎となる)
そのとき、刑部のもとに密使が駆け寄った。
「刑部様……例の件、東軍へ伝わりました」
刑部は微笑んだ。
「そうか。
ご苦労だった」
治部は気づかない。
刑部が流した“わずかな情報”が、
西軍崩壊の引き金となることを。
戦が始まった。
霧の中で、槍がぶつかり、叫びが響き、
血の匂いが風に乗った。
治部は前線に立ち、狂気の正義を叫び続けた。
「誤りを正せ!
正しさを貫け!
正しくない者を討て!」
その姿は、もはや武将ではなかった。
正義という名の刃だった。
やがて、戦況は急速に傾き始めた。
小早川の裏切り。
諸将の動揺。
西軍の崩壊。
治部は叫んだ。
「なぜだ……!
正しさは、ここにあるのに!」
その叫びは、誰にも届かなかった。
刑部は治部の背中を見つめながら、
静かに目を閉じた。
(治部。
お前は最後まで正しかった。
だからこそ、壊れた)
霧が晴れたとき、
治部は膝をついていた。
敗北の瞬間、治部はふと振り返った。
刑部の姿を探すように。
そして、静かに微笑んだ。
「……刑部。
あなたは、私を信じてくれている」
その言葉は、祈りではなかった。
絶望でもなかった。
**最後の最後まで、治部は刑部を“唯一の理解者”と信じていた。**
刑部はその微笑みを見つめながら、
胸の奥で静かに呟いた。
(治部。
お前が最後に信じたものは、正義ではない。
“私の仮面”だ)
こうして、石田治部少輔の正義は敗れ、
大谷刑部少輔の悪は、誰にも気づかれぬまま勝利した。
治部はまだ知らない。
この敗北の裏に、刑部の“沈黙の一手”があったことを。




