序章 仮面の男
夜はまだ明けていなかった。
大谷吉継は、灯火を落とした座敷の中央に、ひとり静かに佇んでいた。
障子越しの月光が、彼の顔を白く浮かび上がらせる。
その白さは病の色ではない。
まるで、生まれた時から血の気というものを持たぬ者のような、無垢で、冷たい白だった。
吉継は、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
その呼吸には、苦悶も焦燥もない。
ただ、淡々と世界を観察する者の静けさだけがあった。
――人は、善を信じたがる。
その思考は、彼の中で長く熟成されてきた真理だった。
善は人を安心させ、悪は人を怯えさせる。
ゆえに、善を纏う者は、悪を為す者よりもはるかに自由だ。
善人の言葉は疑われず、善人の行いは称えられ、善人の沈黙すら美徳とされる。
吉継は、その構造を理解した瞬間から、善を“選んだ”。
それは信念ではなく、戦略だった。
病が進み、顔を覆う布を外せなくなった頃、
人々は彼を憐れみ、敬い、寄り添った。
吉継はその視線の温度を、冷静に測り続けた。
憐れみは隙を生み、敬意は盲目を生む。
そして盲目は、支配の始まりとなる。
「……美しいものだ」
吉継は障子に映る自分の影を見つめた。
細く、弱々しく、今にも消えそうな影。
だが、その内側に潜むものは、影とは逆に、濃く、深く、揺らぎがなかった。
彼は立ち上がり、静かに外の闇を見た。
遠くで風が鳴っている。
その風は、まだ誰も知らぬ未来の戦の匂いを運んでいた。
吉継は、ふと微笑んだ。
その微笑みは、善人のそれと寸分違わぬ柔らかさを持ちながら、
どこかで“何か”が欠けていた。
人間の微笑みにあるはずの温度が、そこにはなかった。
「関ヶ原……か」
その名を口にした瞬間、吉継の瞳にだけ、かすかな光が宿った。
それは希望でも、義でも、忠でもない。
もっと冷たく、もっと深く、もっと人間離れした光。
まるで――
そこに“棲む”べき場所を、ようやく見つけた悪魔のように。
吉継は白い仮面を手に取り、そっと顔に当てた。
仮面の裏側には、誰にも見せぬ本心が静かに息づいている。
「さあ、始めよう。
誰もが信じる、美しい物語を。」
その声は、夜明け前の闇に溶けていった。
やがて訪れる関ヶ原の地に、まだ誰も知らぬ“悪魔”が歩み始めることを、
この時、世界の誰一人として気づいてはいなかった。




