平和の裏で小さく動き始めるもの
領内は、久しぶりに“落ち着いていた”。
朝は鐘が鳴り、畑では青天麦の穂が揺れる。
木工場からは一定のリズムで槌の音が響き、学校では子どもたちの声が聞こえる。
医療所も、倉庫も、教育施設も――
第二段階のインフラ整備は、想像以上に順調だった。
「……平和だね」
執務室の窓辺で、フィリアはぽつりと呟いた。
「そうですな」
隣で書類を整理していたガルドも、珍しく穏やかな顔をしている。
「対外的な圧力も、今のところ沈静化しております。研究官も帰り、視察も止まり……」
「みんな、忙しく自分の仕事をしてる」
フィリアは領内を見下ろす。
守るためのルールは根付いた。
任せる判断も、機能している。
歯車は、きちんとかみ合っているように見えた。
――だからこそ。
「……ねぇ、じいじ」
「なんじゃ?」
「こういう時ってさ」
フィリアは、少しだけ声を落とした。
「“何も起きてない”って、本当に何も起きてないのかな?」
ガルドは一瞬、言葉に詰まった。
「……勘?」
「うん。根拠はないんだけど」
フィリアは、自分でも不思議そうに首を傾げる。
「なんか、静かすぎる」
ガルドは、深く息を吸った。
「……実は、少し気になる報告があってな」
「え?」
「大事には至ってないが、だから今まで報告を控えてたが……」
彼は一枚の紙を差し出した。
「“未登録の観察者”」
紙には、短い記録がいくつか並んでいた。
・原種区画周辺を、決まった時間に通る人物
・登録も違反もしていないが、長時間の滞在
・作業者でも研究者でもない
・毎回、別の人物に見えるが、行動パターンが似ている
「……散歩じゃ、ないよね?」
「偶然にしては、規則的すぎ」
だが――
問題は、そこだった。
「ルールは、破られていない」
「そうだ」
「警告する理由も、追い出す理由もない」
「その通り」
フィリアは、じっと紙を見つめた。
ルールは“越えられていない”。
だが、縁をなぞるような動きがある。
「……線の外から、見られてる感じ」
ガルドは静かに頷く。
「越えない者は、罰せられぬ。しかし……」
「越えないからこそ、分かりにくい」
フィリアは、椅子の背にもたれた。
「派手じゃない。騒がない。要求もしない」
「だが、“意図”は感じる」
しばし、沈黙。
外では、子どもたちが笑って走っている。
誰も、この会話を知らない。
「……今は、動かなくていい」
フィリアは、そう判断した。
「監視は続ける。でも、こちらから手は出さない」
「了解!」
「ルールは守られてる。なら、こちらも守る」
その言葉は、管理者としてのものだった。
夜。
フィリアは、ベッドに入ってもすぐには眠れなかった。
(平和、だと思ってた)
(でも――)
人は、何もないところには集まらない。
価値のある場所に、必ず視線は集まる。
しかも今回は、
力ではなく、知恵で触れようとしている気配。
「……静かなのが、一番怖いよね」
小さく呟いて、フィリアは目を閉じた。
この夜、領地は何も壊れていない。
誰も傷ついていない。
ルールも、守られている。
それでも――
“何かが動き始めている”という感覚だけが、
確かに、そこにあった。
それはまだ、種にもならない。
ただの、風の向きの変化。
だが、フィリアは知っている。
一番最初に変わるのは、いつも静かな場所だということを。
平和の裏で。
小さく、確かに――
次の波は、準備を始めていた。




