効いてきたという実感
朝の領内は、静かだった。
以前なら――
朝という時間帯は、どこか必死さが混じっていた。
仕事に追われる音、怒鳴り声、慌ただしい足音。
だが今は違う。
フィリアは執務室の窓から外を眺め、小さく首を傾げた。
「……あれ?」
「どうされました?」
ミュネが書類を抱えたまま顔を上げる。
「静かすぎない?」
「いつも通りですよ?」
「前は、朝ってもっと“うるさかった”気がするんだけど」
ミュネは一瞬考え、ふふっと笑った。
「それは、多分“余裕”ができたからですにゃ」
「余裕?」
「はい。急がなくても、回るようになった、という意味で」
フィリアはその言葉を反芻する。
(……ああ)
確かに。
■教育の変化
寺子屋――いや、もう“学校”と呼ばれる場所では。
「次は、この計算問題ねー」
子供だけでなく、大人も机に向かっていた。
以前は「学ぶ=特別」だったものが、
今は「生活の一部」になっている。
「これ、前より簡単に感じるな」
「読み書きできると、仕事も楽だぞ」
そんな会話が、自然に交わされている。
フィリアは遠くからその様子を見て、思う。
(教える場所を作っただけなのに……)
でも、それだけじゃない。
“行っていい”
“学んでいい”
“恥ずかしくない”
その空気が、根付いたのだ。
■医療の変化
医療棟では、重苦しい空気が消えていた。
「じゃあ、今日はここまで」
「ありがとうございました!」
以前なら、怪我や病は“運が悪い”で片付けられていた。
だが今は違う。
・軽い怪我は即処置
・熱は記録され、経過観察
・薬草の使用量も管理されている
「死なずに済んだ」ではなく、
「早く戻れる」が基準になりつつあった。
フィリアは、ここが一番変わった場所だと感じている。
(失わなくていい人を、失わなくなった)
それは、数字には出にくい成果だった。
■保管の変化
倉庫では、文官が帳簿をめくっていた。
「……うん。足りてる」
「足りてる、って言葉、久しぶりですね」
「言ってて怖いくらいです」
笑い合う二人。
以前は、
「あるかどうか分からない」
「足りない前提」
だった。
今は――
「どこに、どれだけあるか分かる」
それだけで、判断が早くなる。
無駄な争いも、焦りも減った。
■フィリアの実感
夕方。
フィリアは執務机に突っ伏していた。
「……疲れた」
「今日は特に何も起きてませんにゃ」
「それが一番疲れる……」
ミュネは苦笑する。
「でも、良い疲れですよ」
「うん……」
フィリアは顔を上げ、天井を見つめた。
(問題が起きないってことは……)
(ちゃんと、回ってるってことなんだ)
自分が指示しなくても、
怒鳴らなくても、
慌てなくても。
それぞれの場所で、
それぞれが、やるべきことをやっている。
「……これが、“効いてる”ってことかぁ」
誰に言うでもなく、呟いた。
夜。
灯りの数は、さらに増えていた。
だが、騒がしくはない。
静かで、温かい。
フィリアは、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
(派手じゃなくていい)
(こういうのが、続けばいい)
インフラは、目立たない。
だが――
確実に、人を支えていた。
そしてフィリアは気づいていなかった。
この“静かさ”こそが、
外から見れば――
異常なほど、安定した領地に見え始めていることを。
それが、次の波を呼ぶことを。
まだ、この時は。




