越えなかった者/越えられなかった者
原種管理地指定以降、領内は不思議と――忙しいのに、落ち着いていた。
騒がしい事件は起きない。
大きな衝突もない。
だがその代わり、**小さな「人の差」**が、じわじわと浮き彫りになっていた。
「で?」
フィリアは机に肘をつき、報告書をぱらぱらとめくる。
「今日の“越えなかった者”は?」
「はい」
封緘使が一枚、紙を差し出した。
「青天麦区画の柵を前に、三分悩んで帰った男が一名」
「……悩んだ時間、記録されてるの?」
「秒単位で」
「こわ」
じいじが横でぼやく。
■越えなかった者①:正直すぎる村人
男は、村の端に住む中年農夫だった。
「いや、その……」
事情聴取(という名の雑談)で、男は頭を掻いた。
「中がどうなっとるか、気になってな?」
「ほう」
「でもなぁ……看板読んだらさ」
《無断立入禁止/持ち出し厳禁/違反時処罰》
「……怖くなって帰った」
「それだけ?」
「それだけ」
フィリアは、しばらく男を見つめてから言った。
「えらい」
「え?」
「好奇心より、ルールを選んだ」
男は照れたように笑った。
「怒られるの、嫌だし」
「大事」
■越えられなかった者②:勇気不足な行商
次は、行商人。
門の前で、登録用紙を三回書き直し、結局出さずに帰った。
理由。
「……字、間違えたら怒られそうで」
「怒られないよ?」
「いや、雰囲気がもう……」
行商人は遠くを見る目で言った。
「ここ、空気が“ちゃんとしてる”じゃないですか」
「それ、褒め言葉?」
「はい!」
フィリアは思わず笑った。
■越えられなかった者③:じいじ(未遂)
「……ちなみに」
封緘使が、少し言いづらそうに続ける。
「昨日、じいじ殿が――」
「え?」
「原種区画の柵を越えようとして、封緘札に気づいて止まりました」
「じいじ!!?」
「いや違う!」
じいじは即座に反論する。
「足がもつれただけじゃ!」
「柵に手、かけてたよね?」
「……老化じゃ」
全員、無言で頷いた。
■越えなかった、という評価
フィリアは、報告をまとめながら考える。
(越えなかった)
(越えられなかった)
それは――悪いことじゃない。
むしろ。
「……線が、ちゃんと見えてる」
「はい」
ガルドが頷く。
「見えない線は、越えられやすい。見える線は、迷わせる」
「迷った末に、戻るなら」
「それは“効いている”証拠ですな」
フィリアは、小さく胸を張った。
■一方その頃:越えた者(別件)
「……で、越えた者は?」
その問いに、場の空気が少しだけ変わる。
「処理済みです」
「ですよね」
今日は、軽い話の日だ。
■フィリアの感想
お茶の時間。
ケーキを食べながら、フィリアは言った。
「ねぇ」
「なんでしょうにゃ?」
ミュネが紅茶を注ぐ。
「ルールってさ」
「はいにゃ」
「守られると、ちょっと拍子抜けするね」
「……それは、良いことでは?」
フィリアはフォークをくるくる回した。
「うん。でも」
少しだけ、笑う。
「“越えない”って選択、思ったより難しいんだなって」
じいじが頷いた。
「欲や好奇心を抑えるのは、才能じゃ」
「才能?」
「そう。“我慢できる才能”」
フィリアは、ふむ、と考えてから言った。
「じゃあこの領地、才能持ちが多いんだ」
■静かな結論
この日、処罰はなかった。
叱責もなかった。
あったのは、
・立ち止まった記録
・引き返した判断
・越えなかった事実
それだけ。
だがそれこそが――
原種管理地が、**“正常に機能している証”**だった。
線は、引かれている。
そして多くの者は、
その線を「ちゃんと見る」ことができていた。
フィリアは、紅茶を一口飲む。
「……うん」
今日は、いい日だ。
静かで、
ちょっと可笑しくて、
そして――少し安心できる日だった。




