初めての「任せる」
朝の空気が、少しだけ違っていた。
原種管理地の巡回報告が机に積まれ、フィリアはそれを一枚ずつ確認していたが――
途中で、ふと手が止まった。
「……あれ?」
隣で控えていた文官が顔を上げる。
「どうされましたか、フィリア様」
「青天麦の区画、細かい管理計画が更新されてる」
書類には、播種間隔の微調整案、雨量による区画分け、収穫時期のずらし方まで記されていた。
どれも理にかなっていて、しかも――
「……私、これ指示してないよね?」
「はい。こちらは、現場の研究班が自主的にまとめたものです」
フィリアは、しばらく黙り込んだ。
■「全部、私が決めなくてもいい?」
これまでのフィリアは、
判断を先送りにしなかった。
人が増えれば配置を考え、
問題が出れば自分で噛み砕き、
外圧が来れば前に立った。
それは“できたから”ではない。
他に、任せられる人がいなかったからだ。
(でも……)
もう、この領地には。
・現場を知る研究者がいる
・判断基準を理解している管理班がいる
・ルールの意味を共有している人材がいる
「これ、どう思う?」
フィリアは書類を差し出した。
文官は一読し、頷いた。
「よく考えられています。現場判断としては、上出来ですな」
「修正、いる?」
「不要でしょう」
フィリアは、ゆっくり息を吐いた。
「……じゃあ」
その一言が、少しだけ重かった。
「この計画――そのまま、採用しよう」
文官が一瞬、目を見開く。
「よろしいのですか? 最終判断を、研究班に?」
フィリアは小さく笑った。
「“研究の中身”は、研究者の方が詳しいもん」
■初めての「委ねる」決裁
午後。
フィリアは研究班の代表を執務室に呼んだ。
「この管理案、見たよ」
「は、はい……問題があれば、すぐ修正を――」
「ううん。問題ない」
研究者が息を呑む。
「これ、君たちの判断で進めて」
「……え?」
「私は、結果と安全だけを見る。細かいやり方は、現場に任せるよ」
沈黙。
次の瞬間、研究者は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
その声は、少し震えていた。
「責任は、私が持ちます」
「うん」
フィリアは、はっきりと言った。
「でもね。決める権限は、君たちに渡す」
その言葉は、
命令でも、丸投げでもなかった。
信頼だった。
■領内に広がる、静かな変化
その日を境に、少しずつ空気が変わった。
・現場会議が、自主的に開かれる
・小さな改善案が、即座に試される
・報告は「伺い」ではなく「共有」になる
「フィリア様に聞かなくても、決めていい範囲」が、
はっきりしたのだ。
文官がぽつりと言った。
「……領地が、自分で動き始めてますね」
フィリアは、窓の外を見た。
人が歩き、
畑が動き、
研究区画が静かに呼吸している。
「うん」
それは、少しだけ――
寂しくもあった。
(ああ……)
(私が全部、握らなくてもいいんだ)
■夜、ガルドとの会話
夜。
書類仕事が減った執務室で、フィリアは椅子に深く座り込んだ。
「……なんだか、不思議」
「何がだ?」
「任せたら、楽になると思ってた」
「実際はどうだ?」
「……楽、ではないね」
ガルドは、少し笑った。
「責任の形が変わっただけさ」
フィリアは頷く。
「でも」
小さな声で、続けた。
「一人じゃない、って感じがする」
ガルドは、その言葉を聞いて、静かに目を細めた。
■フィリアの初めて
その夜、日誌にフィリアはこう記した。
――今日は、初めて
――「任せる」と決めた
――少し怖かった
――でも、悪くなかった
守るだけの管理者から、
人を信じる管理者へ。
フィリアは、確かに一歩進んだ。
それは派手な成果ではない。
だが、領地が長く続くために、
どうしても必要な変化だった。
原種管理地は、静かに――
“フィリア一人の場所”ではなくなり始めていた。




