静かな引き継ぎ
朝。
フィリアは、いつもより少しだけ遅く執務室に入った。
机の上には、書類が整然と並んでいる。
報告書、申請書、定例の数字一覧。
どれも問題なく、異常もなく、滞りもない。
「……うん」
それを確認して、フィリアは椅子に座らなかった。
代わりに、横に置かれた小さな机へ向かう。
そこには――「まとめ」とだけ書かれた一冊の帳面があった。
■仕組みの引き継ぎ
「この判断は、もう私じゃなくていい」
フィリアは、帳面を開きながら呟く。
農地配分。
医療所の優先順位。
教育の予算割り。
原種区画への立ち入り管理。
どれもかつては、彼女自身が直接判断してきたものだ。
だが今は――
基準があり、手順があり、確認者がいる。
「……ちゃんと、回ってる」
じいじが、後ろから頷いた。
「人が判断せんでも、壊れんようにしたんじゃろ」
「うん。だから……引き継げる」
引き継ぎとは、人に任せることではない。
仕組みに任せることだ。
フィリアは、帳面に一行、追記した。
『例外は、記録せよ。記録できぬなら、複数で確認せよ』
■視点の引き継ぎ
昼。
フィリアは、見回りに出なかった。
代わりに、報告を受ける側に立つ。
「今日の村は?」
「問題ありません」
「原種区画は?」
「異常なしです」
「学校は?」
「出席率、九割超えです」
どれも、いつも通りの答え。
(……前なら、ここで自分で見に行ってた)
そう思って、少しだけ息を吐いた。
「ありがとう。続けて」
見ることを、任せる。
感じることを、共有する。
それは、“上に立つ”ための視点だった。
■責任の引き継ぎ
夕方。
フィリアは、最後の確認を終えたあと、執務室の窓を開けた。
風が、穏やかに入ってくる。
「……じいじ」
「なんじゃ」
「もし、次に“何か”が起きたら」
「起きたら?」
「私は、全部を直接は見ないと思う」
じいじは、少しだけ目を細めた。
「それでええ」
「……いいの?」
「見えん場所ができるのは、責任を放棄することじゃない」
じいじは、ゆっくりと言った。
「見えんと分かった上で、備える。それが一段上じゃ」
フィリアは、静かに頷いた。
■夜
帳面を閉じる。
そこには、仕組みと視点と責任が、きちんと整理されていた。
完璧ではない。
万能でもない。
それでも――
「私は、ここまでやった」
フィリアは、窓の外を見た。
守られている領地。
壊れていない日常。
静かに回る歯車。
「……次は」
自分が前に出る番ではない。
自分が“支える側”へ移る番だ。
フィリアは、灯りを落とした。
この夜、何も起きなかった。
だがそれは、終わりではない。
静かな引き継ぎが、確かに行われた夜だった。




