記録されなかった選択
その判断は、
書類にも、議事録にも、
誰の記憶にも――残らなかった。
■ある午後
その日は、特別な予定のない午後だった。
定例報告は午前中に終わり、
緊急連絡もなく、
原種区画からの異常報告もない。
「……今日も、何も起きてない」
フィリアは、執務机の端に置かれた薄い書類束を指で揃えた。
完璧だった。
数字は合っている。
人の配置も正しい。
制度は、想定通りに機能している。
――なのに。
(……少しだけ、引っかかる)
■声にならなかった違和感
午後の巡回。
フィリアは、いつものように医療所の前を通った。
忙しさは落ち着き、
看護担当が雑談をしている。
「最近、ほんと静かですよね」
「ええ、怪我人も少ないですし」
「いいことですよ」
いいことだ。
誰も困っていない。
助けを求める声もない。
――でも。
フィリアは、医療所の裏手に一瞬だけ視線を向けた。
そこには何もない。
通路も、倉庫も、掲示も。
「……?」
気のせいだ、と片付けるには、
ほんの少しだけ、立ち止まる時間が長かった。
■小さな判断
執務室に戻り、
フィリアは原種区画の管理帳を開いた。
規則通り。
例外なし。
申請・許可・監査、すべて問題ない。
(……ここも、完璧)
指が、ページの端で止まった。
「……これ」
小さな項目。
「一時立入不可区画・更新確認済」
更新日は、今日。
確認者の名前欄は――空白だった。
「……あれ?」
本来なら、誰かの署名があるはずだ。
でも、
更新は「済」になっている。
(誰が……?)
フィリアは、少し考えてから、ペンを取った。
――そして。
何も書かなかった。
■理由のない選択
「……後で聞けばいいか」
誰かのミスかもしれない。
手続きの簡略化かもしれない。
そして何より――
今、この瞬間、何の問題も起きていない。
騒ぎにする理由がなかった。
フィリアは帳面を閉じた。
その判断は、
・報告されず
・確認されず
・修正もされず
ただ、静かに流された。
■残らないもの
その日の夕方。
巡回報告は「異常なし」。
原種区画は「安定」。
人の動きにも変化はない。
記録は完璧だ。
だが――
その日のどこかで、
確かに一つ、選択があった。
誰にも見られず、
誰にも覚えられず、
誰にも責められない。
それでも。
「……」
フィリアは、夜の執務室で一度だけ、
帳面を見返した。
何もおかしくない。
だからこそ――
その選択は、記録されなかった。
■静かな終わり
灯りを落とし、フィリアは椅子から降りた。
「今日は……これでいい」
自分に言い聞かせるように、そう呟く。
守る仕組みは、壊れていない。
制度も、判断も、合理的だ。
それでも。
その日、確かにあった“選択”は、
誰の中にも残らなかった。
――それが、
本当に正しかったのかどうかを、
まだ誰も知らないまま。




