1・別の場所(7)
「はじめのうち、衛星を通じて地表の様子が送られてきてたの。インドの近海と中国だったと思う。小惑星が落ちたのは」
ミドリは淡々と説明する。あえて、この情報には感情移入するまいとしているように。
「しばらく前から、世界の科学者たちは、地球にぶつかりそうになる小惑星を監視するプロジェクトを組んでたんだって。二月に落ちたのも、宇宙空間で迎撃して破壊しようとか、なんとか軌道をそらせようとかいう試みはあったのよ。それが成功してたら、あたしたちは今でも前と同じように暮らしていられたかもしれない。でも、完全に失敗したわけでもなくて、何もしなかったら問答無用であたしたちは絶滅していたはずだって話も聞いた。小惑星を小さく砕くとか、大気圏に突入してくるときの角度とかね、そういうのを少し変えることはできたらしい。よくわからないけど」
ミドリはため息をついた。
「よくわからないっていうのはね、もちろんあたしの知識じゃ追いつかないからだけど、その間の事情がちゃんと知らされてなかったってこともあるからなの。知る権利はあったと思うけど、あたしたちが知ってたからといって、何ができたかっていうとわからない」
ミドリは、ちょっと眉を上げる。
「元旦に発表があった。小惑星が地球にぶつかるかもしれないってこと。回避するためにできるだけのことをするけど、それでも最悪の事態を覚悟しておくようにって」
元旦。
新しい年の初めに破滅の予告。
「小惑星がぶつかったら、ものすごい地震と大津波が来るだろうってこととか、保存のきく食べ物を蓄えるように、燃料を確保するように、繰り返し言われた。でも、ほとんどの人は、それほど実感がなかったのかもしれない」
ミドリは、寂しそうに笑った。
「『空気がなくなる日』って話があるのよ。読んだことある?」
涼は首を振る。もちろん読んだことはない。
「二十世紀のはじめのころのお話。ハレーすい星の尾が地球をかすめていく間、地球の空気がなくなってしまうっていう噂が広まるのよ。五分くらいの間だけ。みんな、一生懸命五分間息を止める練習をしたり、お金持のうちでは自転車のチューブをいっぱい買って、それに空気をぱんぱんに詰めて五分間を生き延びようとするんだけど、結局そんなのデマだったって話」
ミドリは、ちょっとうつむいた。
「そのときみたいに、みんな、デマだといいと思ったのよね。デマにあわてちゃいけないって」
そして、ちょっと間をおいて続けた。
「デマじゃなかったんだけどね、小惑星のことは。それは、なんとなく伝わってきたと思うんだけどね。落ち着いてる人が多かったように感じるんだけど、なぜだったのかなあ」
本当に「衝突」してからは、誰も落ち着いてなんかいられなかった、とミドリがつぶやいた。
「政府が、パニックになるのを抑えようとして、大丈夫、世界の科学者が回避に全力を尽くしております、なんてキャンペーンをやりすぎたのかもしれない。みんなを安心させようとして。ほんとに必要なのは、安心じゃなくて安全だったのに」
政府は、もうだめだ、とは言えなかったのかもしれない。
「食べ物を買い占めに走りまわってた人もいたけど、うちのお父さんは、今からあわてても遅いって言ってた。それに、地震なんかの災害に備えた備蓄がそれぞれの自治体にあるはずだからって。実際、今はそういう備蓄が配給センターからまわって来てるのよ。それに、食べ物や衣料品やなにかは、できるだけ配給センターに集まるようにしてる。それにね……」
ミドリは、ちょっと顔を上げて涼を見た。
「食料を買い込んだ人たちも、『衝突』のあとで起きた暴動で奪われて、運の悪い人は殺された」
「……殺された?」
ミドリはうなずく。それから、ためらうように口を開いた。
「あのね、こっちの世界のことだから気にしないでほしいのよ……」
口ごもる。
「気にする?」
「あのね、リョウのお父さん。こっちのよ」
「うん」
「暴動で殺されたひとりなの。しまっておいた食料を守ろうとして……」
涼は、ゆっくり瞬きをした。
父親が殺された。いや、僕の父親じゃない。リョウの父親。この世界の……僕……の、父親。
「家族のために食料を守ろうとして亡くなったのよ」
ミドリが慰めるように言う。
そうだろうか、と涼は思う。
父親が守りたいのは、いつだって家族ではなく世間体だ。兄ちゃんが更生キャンプに送られたときだって、心配したのは、兄ちゃんがどうしてそんなことになったのかじゃなくて、勤め先や近所でどう思われるかだった。一番大切なのは自分だった。
もしリョウの父親もそんなだったら、自分の食べるものさえあれば、そして、それを調理する妻さえいれば、ほかのことなんか二の次だっただろう。それより……。
涼は、頭の中に浮かんできた考えに、自分でぞっとした。
それより、立場が替わっていたら、暴動に加わって誰かを殺す側にまわっていたかもしれない……?
「母さんは? ……リョウ……の」
「肺炎で。あたしの両親もそう」
ミドリがすまなそうに言うのがつらかった。両親を亡くしたのは涼ではなく、ミドリなのだ。この世界の、目の前にいるミドリなのだ。
「こんなひどいことだなんて、誰も知らなかったのよ」
「……うん」
「恐竜が滅んだのも、大昔、地球に小惑星が衝突して聞こうが変わったせいじゃないかって言われてる」
ミドリは、頬杖をついて涼を見つめた。
「今度は人類が滅びるのかしら」
涼は首を振りたいと思う。そんなことはない、と言えたらと思う。でも、この暗い雨の世界で、ミドリの親しい人たちは、すでに大勢死んでしまったのだ。
「ううん、大丈夫だ。宇宙ステーションの人たちが生き残るもの。もし地上の人々が死に絶えたって、人類は滅びない」
涼は目を丸くする。
「宇宙ステーション?」
「そうよ。アメリカや、ロシアや、中国や、インドや……とにかく、世界中が協力して宇宙ステーションを造ったのよ。あそこには、いろんな国の男女がいる。食料も自給できるはずだし」
世界中が協力して?
アメリカと……ロシア? 中国? ロシアって、ソ連のことだろうか。
涼は、社会の授業で聞いたことを思い出しながら、ミドリの言葉を反芻する。
アメリカとソ連、このふたつの大国は、それぞれの国を核兵器で脅し合い、相手の技術を盗もうとし、動静を探り合っている。各国はこのどちらかの国に与し、にらみあいを続けることで綱渡りのように世界の平和を保っているのだ、と教師は言った。
一方にほころびが見えたら、他方はそこにつけこんで、たちまち世界は戦火の渦に巻き込まれるだろう。何かを共同開発するなんて、絶対に考えられない。
オーストラリア、ニュージーランドは、どちらの側につくか態度をあいまいにしているが、核兵器を持っていない国なので脅威とはみなされていない。
小惑星のことだけじゃない。ミドリの世界と僕の世界は、何かもっと大きく違うところがある……。
◆
涼は、あたしのことをおしゃべりだと思ってるんじゃないかしら。
いつも、しゃべってるのはほとんどあたし。そりゃ、あたしは前からおしゃべりだったかもしれないけど、涼としているのは「会話」じゃないもの。あたしがしゃべって、涼が聞く。たまに、涼がひと言聞くことに対して、あたしは十も二十も答えてしゃべる。
涼の生きる世界に小惑星は落ちなかった。
とりあえず、あたしが確かに知っているのはそれだけ。ほかにも違うことはあるのかな? 今度涼が来たら、あたしの方からいくつか尋ねてみよう。涼の学校のことや、あっちの野見山碧のこと。何が好きで、何になりたいか。
でも、そんなこと聞いてなんになる?
ああもう。なんにもならなくたっていいじゃない? 「衝突」がなければ、あたしだってそうなってたはずの、高校生の話を聞きたいんだ。無駄なことかもしれないけど、そういう無駄だってしたいんだ。
あたし、「衝突」についての細かい話なんか、もう二度と思い出したくないはずだった。リョウのお父さんの死に方なんか、得にそうだ。
「衝突」さえなかったら、普通に暮らしている一般人が、ほかの一般人を襲って殺すなんてこと、あり得なかった。
あたしは涼に話をしながら、あのころ考えることができなかったいろんなことを、整理しなおしているのかもしれない、と思う。
あたしは、今この生活のまっただ中にいるけど、世界が急転したあのころの「まっただ中」は、もう過ぎたんだから。
涼に話をしていると、あたしは自分の頭の中が少しすっきりするような気がする。見たくもないほど散らかっていた部屋が、少しずつ片付いていく感じ。
でも、毎晩寒いところに出ていくのは、そして、それが少しも苦痛じゃないのは、頭を整理するためだけじゃない。
涼は健康に見える。あたしのまわりには、今、健康な人なんかひとりもいない。
あたしは健康な人と話がしたいのだ。こんなふうに書くと、病気を持っててつらいのに一生懸命頑張ってる人や、一緒に生き延びようとしているここの人たちに申し訳ないけど。
あたしは、彼のことをみんなに言うべきかしら。みんなも健康な涼と話をしたいと思うかしら。それで、みんな元気になれるかしら。
今日もおかゆ。ごま塩つき。乾燥ワカメをもどしたのが少し。緑色の食べ物って、なんてきれいなんだろう。
◆