1・別の場所(6)
ミドリは、いつものカーキ色のコートの上から灰色の毛布を巻きつけている。
降っているのは雨というよりみぞれで、ミドリは寒いに違いない。
「来てくれてよかった」
ミドリがにこっとしてそう言ったとき、涼は考えるより先に口に出していた。
「どうしてこんな寒いところにいるの。公民館の中にいる方が暖かいだろ」
ミドリは、びっくりしたように涼を見た。
「だって、風邪ひくよ、こんな夜に……」
自分が思ったより強い口調でしゃべっていたことに気づいて、涼は口をつぐんだ。
「ここにいるの、好きなのよ」
ミドリが言った。
「この中、たいして広いわけじゃないの。畳のある部屋はふたつしかなくて、片方を男の人、もう片方を女の人が使ってる。いくら布団をひいたって、寒い夜に固いリノリウムの上で寝るのは辛いから。ベッドは場所をとるし、運ぶのもたいへんだしね。みんなで一緒にいると、暖房の節約にもなるし」
ミドリはため息をつく。
「女のほうが人数が多いのよ。生き残ってるのもそうだけど、子どもも女性の部屋に来るし。あたしは、いつも寝る前にちょっとここに出てきていたの。中に入ると、ひとりになる時間がなかなかなくて。昼間は用もないのに外に出ると、何しに行くんだってうるさい人もいるし」
顔を上げて、涼を見た。
「それにね、今は、ここに涼が来るでしょ。それとも、涼のドアは、ここじゃないところにも通じてるの? この建物の中にも来られる?」
ミドリは立ち上がる。
「あたしが今このドアを開けたら、一緒に入って来られる?」
涼はうなずこうとし、それからそっと手を前に出してみた。
これまで、ぬれないとはいえ、自分がなぜこの雨の路地にいるのかわからなかった。それには理由があるんじゃないか……。
なにかある。
柔らかい膜のようなものがある。あるというより、ただ感じる。手はそれ以上伸ばせなかった。一歩近づいて、思い切って体をあててみた。わずかに空気がたわむような気がしたが、進むことはできなかった。
「ここから先へは行けない。何かに押し返されるみたいで」
涼が見えない膜に手のひらを当てると、ミドリは巻きつけていた毛布をとってドアの前に置き、コンクリートの段を下りてきた。
「どこ? ここ?」
ミドリは涼の前に立って、そっと片手を伸ばした。細い腕だ、と涼は思った。
ミドリの手はなにもないかのように、涼の体をつきぬけた。
涼は思わず身を引きそうになり、膜に当てた手に力をこめた。
「あたしの手には、なにもさわらない」
ミドリは、空気の膜を押している涼の手のひらに、自分の手を当てた。手は、文字どおり重なった。
ミドリは魅入られたように、同じ空間を共有して重なっているふたつの手を見ていた。
「どんな感じ?」
「どんな?」
「あたしの手が涼の手の中にあるの、わかる?」
涼は首を振る。何も感じない。感じるのは、手のひらが押している空気の膜だけだ。
急に、まともにみぞれにぬれているミドリが気になった。
「ねえ、もういいよ。びしょぬれになるよ」
ミドリは笑った。
「そういえば、涼は雨にもぬれないんだった。いいなあ」
そして、思い切りよく手をひっこめ、ドアの前に戻る。
「よくわかんないけど、パラレルワールド同士、関われないようになってるのかもしれないね」
それから頭をふってしずくをはらい、もとのように毛布を巻きつけた。
「あたしは、ここでぶつぶつ独り言を言ってるだけなのかもしれない。別の世界の涼なんかいなくて、あたしの頭がついにこの現実に耐えられなくなっただけかもしれない」
「僕はここにいるよ」
涼は言う。
まるで色付きの空気ででもあるかのように、ミドリの手が体をつきぬけたとしても、自分はここにいる。
いるはずなんだ。
「あたし、涼のこと、ほかの人に言ってないの。ここに別の世界の涼がいるって思ったり、あたしの妄想だって思ったり、自分でもわからなくなるの。もし言ったら、笑われるかもしれない……ううん、みんな、きっと笑う気力もない。そういうみんなを見たくない。でもね」
ミドリは、やせた顔の中で大きく見える瞳でしっかりと涼を見た。
「あなたが夢でも幻でもなんでもいいけど、ここで涼に会うと、あたしはなんだかちょっと元気になる」
ミドリは微笑んだ。
「変かな。リョウが死んで、あたしはもう二度と笑うことなんかないと思ってた。リョウが死んだ夜、あたしはここでひとりで泣こうと思ってた。あたしはリョウが好きだったわ……」
はずしたFDを抱えたまま、涼は自分の部屋で椅子に座っている。長い距離を走ってきたかのように、胸の奥で鼓動がはずんでいる。
リョウが好きだった。
バカみたいだ。僕のことじゃないのに。
相変わらず、ときどき目がかすむことがある。これはミドリの世界が関係しているに違いないと思って、涼はそのわずかな不自由を我慢していた。
目がかすんで景色がゆらぐと、空間の彼方で同時進行しているあの世界が、涼の世界にかぶさって見えるのだ。そのとき触れられないのは、向こうの世界だ。
涼の現実に重なって、絶え間なく振る雨。二重写しになった世界がしばらく続く。
涼は何度か、学校から帰ってすぐに仮想英会話を試してみた。そのときは、いつまでたっても明るい街ばかりで、あのドアは現れなかった。最初の日の何かが、ふたつの世界をつなぐ条件を決めたのかもしれない。
夜の仮想英会話は、学習よりもミドリの世界に行くための手段となり、涼の日課にもなりつつあった。
◆
リョウのこと、好きだった、なんて言ったのはまずかったかな。
だって、彼はリョウではないものね。気を悪くしたとは思わないけど、びっくりしていたみたい。
涼って、カノジョいないのかな。そういえば、向こうの野見山碧のこと、まだ一度も聞いたことがない。
リョウとあたしは中学の同級生で、一緒にクラス委員をやっていた。だからといって、特別親しかったわけじゃない。リョウはどっちかっていうと内気な子で、あたしとは反対だ。
一緒に委員をやるのに不安はなかった。黙っていても、やることをやってくれる子だっていうのはわかっていたから。
でも、同時に、あのころのあたしはリョウを少しバカにしていたかもしれない。勉強はできるけど、あんまり賢い子じゃないって。新聞に載ってた社会ニュースのことなんかで話しかけてみても、さあねって感じで逃げられることが多かったし。
それなのに、「衝突」のあとここで出会ったとき、あたしはとてもうれしかった。リョウが「衝突」の前と少しも変わっていなかったから。
あんなことがあって、あたしたちみんな、前と同じではいられなかったと思う。前よりあさましく、意地汚くなって、嫌な人間になっていたと思う。
そうでない人も中にはいたけど、そういう人たちはなんだか不自然に高潔になって、ちょっと無理してるって感じが何か嫌だった。うまく言えないけど、つつましくふるまって、すごく傲慢っていうか。
なのに、リョウは、なんていうかリョウのままだった。保存食みたいに質が変わらなくて、悪くならない子だった。あたしはリョウのおかげでほっとした。
そして今は、別の世界の涼のおかげで、少し元気を取り戻してる。
今夜はおかゆ。今夜も、かな。やっぱり、一番たくさん備蓄があるのはお米なんだろう。
◆