1・別の場所(4)
翌日登校して、野見山碧のパチンと切った髪と、顔色のいいふっくらした頬を見ると、涼の頭は混乱した。
僕はこの野見山碧しか知らないんだ。なのに、ゆうべミドリと名乗った少女は、やつれた細い顔をして、つやのない髪は肩まで伸びて、それでいて、あの眼差しも、おもしろがっているような声も、碧そのものだった。
今朝目を覚ましたときは、もう少しであれが夢だと信じられるところだったのに。
碧は、隣の席の女生徒と何か話している。うなずくと、髪が耳元でゆれる。笑う。白い歯がこぼれる。
涼は、なんだかきまりが悪くなって目をそらした。
あそこにいる碧は本物だ。僕だって本物のはずなんだ。でも、あの雨の中にいたもうひとりのミドリが、僕は昨日死んだと言った……。
目がかすむ。
涼は、目をつむって首を振る。ボールが頭にぶつかってから、ときどきこんなふうに目がかすんで視野が暗くなる。でも、どこかが痛むわけではないし、すぐに治るからほうっておく。母親にこんなことを知られたら、医者だのなんだのと騒いでたまらないだろう。
下校途中だ。涼の家は学校から二キロ以内で、ぎりぎり徒歩通学圏にある。もう少し遠ければ自転車通学の許可がもらえるのだが、片道二キロまでは、生徒は歩かなくてはならない。
涼の通う高校は、駅にほど近い城跡の中にある。正門から出て東西に延びる道は「本丸通り」という名で、片側に堀と石垣が続き、総合庁舎や公会堂などもこの区域にある。歩道ぎわにはずっと銀杏が植わっていて、普段ならこの道を歩くのは好きだ。
けれど、今は頭上に広がる乾いた秋の空が妙に暗く見える。雨の膜を一枚はさんでいるかのように、無彩色の筋が周囲をかすませている。
ひとりの男が涼に近づいて、すれ違いざま一枚のビラを手に押し込んだ。
「モグラ」だ。
今の社会に不満を持つ人、政府のやり方に反対する人々のグループをそう呼ぶ。
「不満分子」という人もいる。「モグラ」たちは、ときどきこうして、自分たちの主張を書いたビラを街頭で撒くのだ。
もちろん、当局に見つかれば即座に逮捕される。無駄なビラを作る余裕もない彼らは、無言で通行人にビラを渡して、さっといなくなる。穴にひっこむモグラのように。
ときどき、ビラをもらっただけなのに、それだけでとがめられることもある。だから、涼は普段は受け取らないようにしていた。なのに、今は現実の世界にかぶさって見える雨に気をとられていた。
ビラには、太字で「原発事故」と書かれていた。何の話かわからない。涼はそのまま学生服のポケットにビラを押し込んで、目をぎゅっと押さえた。
雨が降っている。
ちがう。ちょっと目の具合がおかしいだけだ。すぐもとに戻る。
それでも、晴れた街の風景をちらつかせて、視界の中では容赦なく雨が降っている。
涼は、並木の銀杏にもたれて息をついた。
その日の夜食は、パスタの入ったミネストローネだった。涼が食べるころには、例によってすっかり冷めて、パスタの歯ごたえはなくなっている。
母親は、どうしても夜食にこだわるなら、パンでも買って置いておけばいいのに、と涼は思う。夜遅くに別にものを食べたいとも思わないし、夜食を手作りしてくれても感謝する気持にはなれない。母親は自分の満足のために作っているだけなのだから。
涼は、夜食の器を置き、FDを見る。
どうしよう。
できるだけ試してみてくれ、と塾の担当教官は言った。
バグのあるなし、教材の難易など、試すことで塾の役に立ってもらえるし、君たち自身の英語力もつくはずだ、と。
教材そのものよりも、ゆうべ見たものが気にかかっていた。あのドアはなんだったのか。あのとき見たミドリはなんだったのか。あの雨の街はどこなのか。
仮想英会話を起動すると、あの明るい街があっけらかんと広がった。涼は、ほっとしたような、はぐらかされたような気持で街の中に入り込む。
すると、ドアがあった。
昨日と同じドアだ。まわりの景色とはあきらかに異質な存在感を持って、周囲とは無関係にぽつりと立っている。
涼はつばを飲み込む。
少しためらって、それからドアを開けた。
あの路地だ。相変わらず雨が降っている。そして、ミドリはゆうべ見たドアの前にすわっている。
「幽霊君」
ミドリは微笑んだ。
「やっぱり来た。来ると思ってた」
「僕は幽霊じゃないよ」
昨日から同じことばかり言ってる、と思いながら、涼はミドリの前に立つ。もっと近づこうとしたが、見えない壁に押し返されるような、わずかな抵抗を感じて、それ以上近づけなかった。
ミドリはうなずいた。
「昨日もそう言ってたわね。でも……リョウなんでしょ? リョウに違いないでしょ?」
「うん」
「幽霊じゃないなら、どこから来たの
「どこからって……僕はどこにも……そうだ、ドアを開けて……」
言葉に詰まる。物理的に考えれば、どこからどこに移動したというわけではない。自分の部屋の、机の前にいるだけだ。
「ドアを開けて?」
ミドリは、おもしろそうな目をした。
「ドアって、どこのドア? 昨日、消える前に探してたの、そのドアなの?」
「消えた?」
「そうよ。バッテリーのなくなりかけたホログラムみたいに、薄くなって消えたのよ」
ホログラム?
涼は、とまどったように自分の体を見下ろした。
本来なら自分の姿は見えないはずなのに、普通にそこにある自分の足が見えた。仮想空間で使われるはずのアバターではなく、いつも通りの自分の足だった。
立っている。机の前にすわっているはずなのに。そして、両手もそのままある。アバターの手ではなく自分の手。甲虫の背のようにも見える、あの操作グラブもない。
「あたしの知ってるリョウは、髪も服装もそんなにきちんとしてなかった。もちろん、今じゃみんなそんなにきちんとしてはいないけど」
ミドリは、しげしげと涼をながめた。
「幽霊じゃない……ってことは、あなたは過去から来たの? 『衝突』の前から?」
「衝突?」
聞き返すと、ミドリはちょっと間を置いた。
「『衝突』を知らない?」
涼はうなずく。ミドリは、ひざの上で頬杖をついた。
「そうか。過去のリョウなら、知ってるはずない」
そして、背筋をまっすぐに伸ばした。
「今年の二月、小惑星が地球に衝突したの。あれから半年以上たつけど、地球は冬のまま。寒いままで暖かくならなかった。雨か雪ばかりで、太陽なんか見えない。たくさんの人が死んだ」
ミドリは、感情のこもらない声で淡々と言った。
「……今年?」
涼が聞く。
「二〇XX年」
「今年だ」
口に出すと、間の抜けたやりとりに聞こえた。
「そんなら、過去から来たんじゃないの?」
ミドリがまた頬杖をつく。
「そして、幽霊じゃないんだっていう。そうよね。リョウの幽霊なら『衝突』のことなんか、もう聞きたくないってくらい知ってる。でも……それでも、あなたはリョウなのよね?」
ミドリは、考え込むように眉間にしわを寄せた。
「だったら、別の世界から来たの? 小惑星が衝突しなかった世界があるの? パラレルワールド?」
ミドリは、涼に質問するというより、声に出して考えているらしかった。どっちみち、涼にはなんと答えたらいいのかわからない。
「幽霊」程度の言葉ならついていけたのだけれど、「別の世界」とか「パラレルワールド」とか、そんなもののことを想像したことは、これまでなかった。
「あなたのとこでは、前と同じように日常が続いてるの?」
前と同じように。
涼は、自分の毎日を思った。起きて、学校へ行って、勉強して、寝て、起きて、学校へ行って……。
どの一日も、別のいつかのコピーのような毎日。
「何も起きてない」
涼は答えた。
「それじゃ、別の世界の、別の『リョウ』なのね……」
ミドリの口調には、変わらない毎日をうらやむような響きがあった。
「別の世界から、ドアを開けてここに来たのね? そういうファンタジーがある。四人の子どもたちが、衣装だんすの扉を通って別の世界へ行ってしまうの。そこは悪い魔女のせいで永遠の冬なんだけど、子どもたちは力を合わせて冬を打ち砕く……」
ミドリは、一瞬夢見るようなまなざしになって、冷たい雨の向こうを見つめた。
「その話、読んだことない? 映画にもなったのよ」
涼は首を振る。
その話だけでなく、涼は小説をほとんど読んだことがない。学校で薦められるのは、偉人伝やノンフィクション、科学や社会の本などで、童話や小説は非論理的な絵空事を書いた、格の下がる本とされている。
「そうね。こっちのリョウだって読んでなかったかもしれない。リョウは、SF小説は好きだったけど……」
「リョウ……と、仲がよかったんだね」
涼は、口ごもりながら、自分とは違う自分の、同じ名前を口にした。
ミドリは微笑んだ。
「仲が良かったっていうか、あたしたち、ここでみんな一緒に暮らしてるから」
自分が腰をおろしている後ろのドアを振り返る。
「ここ、公民館だったのよ。最初のころの混乱が収まってから、生き残った人たちはなるべく集まって暮らすことにしたの。そのほうが無駄が少ないから。リョウもあたしも、家族をなくしてたし……」
生き残る? なくした? 家族を?
たしかに、「たくさんの人が死んだ」とミドリは言った……。
光が射す。暗い路地は消え、ミドリもいなくなっている。明るい仮想の街は、やたらと空っぽに見える。