1・別の場所(3)
何かを感じたのか、少女が顔を上げた。
やせて、とがった顔。けれど、それはやはり野見山碧の顔だった。
少女の口が丸く開いた。守るように体にひきつけた大きすぎるカーキ色のコートの袖口から、細い指がのびてその口をおおった。
「リョウ……」
おびえたように見開かれた少女の目が、不意に柔らかい光を帯びた。少女は口から手をはなし、まっすぐに涼を見た。
「リョウ。リョウなのね。……幽霊なの? 幽霊でもいいわ。あたし、リョウのことを考えていたんだもの」
幽霊?
涼は首を振る。
これは、いったいなんなんだ?
「僕は、幽霊じゃない」
涼は、わざとはっきり言ってみた。これがもし奇妙な夢なら、声を出すことで目が覚めるはずだ。
けれど、なにも変わらなかった。
「あなたは、シモムラ・リョウでしょう? あたしは、ノミヤマ・ミドリよ。あたしのこと、知ってるよね?」
涼は、うなずくこともできずに、ミドリと名乗る少女を見つめた。
「でも、リョウは今日死んだのよ。あたしは、リョウの唇をぬらしてあげた。リョウはもう処理場に運ばれて行った。ここにはいない。いないのよ」
ミドリは口元にぎゅっと力を入れて瞬きした。泣きはしなかった。
「死んだ?」
涼は聞き返す。
僕じゃない。僕は死んじゃいないもの。……それとも?
「幽霊は、自分のことを覚えてないものなの? リョウは肺炎で死んだのよ。今日の、午前十時二十三分だった」
午前十時二十三分。
そのころ涼は学校にいた。授業は確か体練だった。
……ボールが頭にぶつかったとき。
「幽霊になると、生きてたときより元気に見えるね」
ミドリがまじめに言って、首をかしげた。
「僕は幽霊じゃない」
涼は、もう一度言った。
ドアを開けて来ただけだ。そういえば、ドアは?
涼は、あわてて振り返った。ドアはない。
「ドアがない」
おびえた声が出た。ミドリが怪訝そうな顔をした。
「ドア? ドアって、なんのドア?」
ミドリは、言葉を切って息をのんだ。
「待ってよ!」
待って?
あたりが明るくなった。涼は仮想の街の歩道に立っている。古ぼけたドアも、夜の雨もどこかに消えている。そしてミドリも。
◆
リョウの幽霊に会った。幽霊のリョウは元気そうだった。清潔で、心地よさそうに見えた。
「僕は幽霊じゃない」って言ってたけど、幽霊じゃなければなんなんだろう。
雨は、リョウを貫いて降っていた。立体映像みたいに表情も息づかいも伝わってくるけど、実態はそこにない感じだった。
自分でも意外なことに、あたしはあんまり動揺していない。これって、かなり不思議な体験だと思うんだけどね。
「衝突」からこっち、あたしの心の中では何かが死んでしまって、あまり物事を敏感に感じないようになっているのかもしれない。それとも、普通でないいろんなことに慣れちゃったのかも。ひとつひとつをまともな精神で受け止めていたら、きっと頭がどうかなってしまうもの。
せっかく書いているこのノートだって、あたしはつまらないことしか書いてない。きっと、何の役にも立たないだろう。……ううん、あたしの気持を整理する役には立つ。それも大事なことかもしれない。
ほんというと、このノートにはしばらく何も書き込めないだろうと思っていた。今日の昼、あの一行を書いたら、何も書く気になんかならないと思っていた。
あの「リョウ」があたしのところに来たのは、何か意味があるんだろうか。
リョウは、あたしに何か言いたかったの? 何か伝えたいこと。大事な秘密かなにかあったのかしら。もしそうだとしたら、きっとまた来るだろう。だって今日、あの「幽霊」は、ほとんど何も言わなかったもの。
そういえば、あの「幽霊」、びっくりした顔をしていた。もしかしたら、リョウは自分が幽霊になったのを、あたしと同じくらいびっくりしているのかもしれない。しまいに透き通って消えてしまったけれど、少し時間がたった今考えてみると、あたしはもっとリョウと、あの幽霊と話をしたかった。
今日はおかゆを食べた。バターがひとかけついた。
友だちが死んでも、不思議なことがあっても、相変わらずおなかはすく。なんだか情けないけどしかたない。
◆
◆と◆の間に、ミドリのノートが挟まります。