1・別の場所(2)
中流といわれるくらいの家庭なら、どこも子どもに何か習い事をさせている。ほとんどが学習塾に通っているし、男子は剣道、柔道などの武術、女子はピアノやバレエ、琴や日本舞踊を習う子も多い。習い事の掛け持ちをしている子もざらにいる。
涼は、中学を卒業するまで駅前の学習塾に通っていた。そこは、小学四年のときからずっと通い続けている。
今年の春から塾がネットワークサービスを始めて、コンピューターを通じてサテライト授業が受けられるようになった。はじめに機器類をレンタルする費用がかかるが、将来塾の業績に貢献しそうな成績の良い生徒は割引で借りられる。だから、涼の父親はこのシステムに切り替えた。
涼は、塾まで自転車を走らせるのがけっこう好きだった。でも、コンピューターにも興味があったから、父親には結局なにも言わなかった。言っても無駄だとも思っていた。
企業や役所などでは、コンピューターで経理や情報の管理をするのは当たり前だったが、一般の家庭でコンピューターを備えることはほとんどない。涼は、中学の情報の授業で触ったのが初めてだった。
塾からの夜道を帰らずにすむようになって、よかったこともある。青少年育成局の補導員に遭遇することがなくなったのだ。
十八歳未満の青少年は、夜九時以降は子どもだけでの外出が禁じられている。これに違反した場合、最悪更生キャンプに送られることもある。
塾に通っていると、塾から特別パスを発行してもらえる。それを見せれば補導されることはないが、暗がりから不意に現れる補導員は薄気味の悪い存在だったし、彼らに詰問されると、何もしていないのにおどおどしてしまうのも嫌だった。
堂々と一人で出かける時間はなくなったが、塾にアクセスするために夕食後は自室にこもっていられる。できの悪い娘なら、さっさと嫁にやってしまえばいいが、男の子は何よりも勉強が第一だから、親が邪魔しに来ることはない。
ネットワークサービスは、コンピューターのほかにマッチ箱ほどの大きさのカメラとヘッドホンマイクを使って塾の授業に参加できるし、録画しておいてあとから見ることもできる。涼は、いつも塾の時間に合わせてアクセスしていた。
夜遅くなると、涼の部屋の扉を控えめにノックする音が聞こえる。母親が夜食をドアの前に置きに来るのだ。就寝前に涼の夜食を用意するのが母親の日課で、それは、良い母親であるために彼女が自分自身に課した義務であるらしい。
けれど涼は、ひととおりの課題をこなして、必要な部分をプリントアウトするまでドアを開けない。そのころには、温かい夜食はすっかり冷めているが、それを気にしたことはない。いつのころからか、食べ物の味などにはかまわなくなってしまった。栄養がとれるなら、食べ物を楽しむ必要なんてないと思う。そもそも、涼が夜食をほしがったわけではなかった。涼はただ、そこにある食べ物を無駄にしないために処理しているだけなのだ。
いつもなら、夜食を食べたあと予習をして、語学テープを聴くことになる。けれど、今夜は新しく届いた語学教材を使ってみるつもりだった。
仮想英会話といって、英語しか使えない仮想世界で語学学習をするものだ。まだ試作段階で、涼のほか数人の、塾が見込んだ成績上位者には無料で、モニターになりたいと希望した生徒には有料で配られている。「仮想世界へ留学すると思ってくれ」と塾の担当者は言った。
涼はFDをかぶり、操作グラブをはめる。FDは溶接工が使うマスクのような形をしており、マイクとスピーカーが内蔵されていて、シールド部分の内側に仮想世界の画像が映る。実際にそこにいるような臨場感が得られる、というのが謳い文句だ。操作グラブは籠手のような形をしていて、主に指を動かして、仮想世界の中で動き、仮想のものに触れる。
試作品だから、まだ世界の設定はひとつしかない。涼は、そこに留学した高校生という立場で学習する。
涼が仮想英会話を起動すると、FDにまずいくつかの注意書きが現れた。
操作グラブの使い方。進む・止まる・曲がる、そして仮想世界の何かを持つ・動かす動作のやり方。FDの使い方。仮想世界の設定について。
注意書きの通りに手を動かす。操作グラブのセンサーが働いて、涼は仮想世界に入り込む。
明るい街だ。青い空。ちりひとつない道路。赤と白の日よけの出ている店。石造りの建物。
歩いているのは金髪碧眼の人たちだ。たまに茶色の髪や赤毛の人がいる。有色人種はひとりもいない。人物は期待していたほどリアルではないが、まばたきもするし、しゃべるときは唇が動く。
FDに映るそれらの人々は、まっすぐに涼の方を見て話しかける。聞こえてくる英語の内容はだいたいわかる。でも、それに応えるのは難しい。実生活と同じで、仮想世界でも涼は人付き合いが苦手らしい。
不意に視野が暗くなった。思わず目をこすろうとして、涼はFDのプラスチックに手の甲をぶつけた。
今日、ボールが頭にぶつかった後も、こんなふうに目がかすんだ……。
画面の中の街は、フィルムが傷んだ昔の映画のように、雨のような筋が入って見える。
ちょっと頭を振りながら仮想の街を見まわしたとき、妙なものを見つけた。
ドアだ。
そのドアが奇妙なのは、歩道の真ん中にぽつんと立っているからだ。まわりの風景とは無関係に、何の意味もなくドアがある。
涼は、グラブを操作して手をドアに近づけた。何の変哲もない普通のドアだ。どこの家でも部屋の出入り口に使われているような。木目をプリントした合板のすみがはがれかかっている。
バグ?
涼はためらう。バグにしてはなんだか変だ。仮想世界の中で、このドアだけが異質すぎる。周囲の作り物めいた風景とは違って、たったひとつ現実味を帯びている。
涼は、ドアのまわりをひとまわりしてみた。ドアの向こう側も同じだ。ありふれたドアには違いないが、なんだか見覚えがあると思った。でも、どこのドアか思い出せなくて、ちょっとの間、脳みそがむずむずした。
仮想世界のものを持つ・動かす動作。
涼はドアのノブをつかむ。開いたとしても、同じ歩道の向こう側に出るだけだ、と思う。それでも、ちょっと息をつめてそっとドアを押し開けた。
とたんに、全ての光が消えたような気がした。
停電だ、と思ってFDをはずそうとしたとき、まわりの様子が見えはじめた。
雨が降っている。そして、周囲は夜の闇に包まれている。
雨? 夜?
さっきまでの街はどうなったのだろう。
涼はあたりを見まわす。殺風景なコンクリートにはさまれた狭い路地だ。
あの教材に、こんな場面があるだろうか。ありそうもない。明るく健全な白人たちの街の風景とは思えない。
涼は暗がりに目を凝らした。コンクリートの一方は何かの建物の壁のようで、そこにひときわ暗いくぼみがある。
出入り口?
長方形のくぼみの上には、ひさしが突き出ている。路地に向かってコンクリートの段があり、それを上がったところにドアがあるらしい。
そのドアの前に、何かでこぼこした塊が見えた。
誰かいる。
ひさしとくぼみによって、わずかに雨から守られているその場所に、少女が座っていた。
うつむいているので顔ははっきり見えない。それでも、涼はその少女に見覚えがあった。
「野見山……」
つぶやきながら、打ち消す。そんなはずない。野見山が語学教材の中にいるなんて。
……でも、これは本当に教材の一部なのか?