1・別の場所(1)
バン!
乾いた塊が後頭部にぶつかった。気がつくと地面に倒れていた。
瞬きするほどの間、気を失ったのかもしれない。ほんの束の間、自分のいる場所がわからなかった。
「大丈夫か?」
誰かの声がする。
霜村涼は、慎重にひじをついて体を起こした。目がかすんで景色がゆらいだ。
ここは校庭だ。今は体練の時間で、頭に何かがぶつかった……。
涼は、もう一度頭を振ってみる。ゆらいだ景色が次第に焦点を結び、後頭部にぶつかった蹴球のボールが、まだはずみながら転がっていくのが見えた。
立ち上がって、体操服についた土ぼこりを払う。
大丈夫だ。もう景色も動かない。目もかすまない。
涼のまわりに集まってきた生徒たちが、不意に口をつぐんだ。体練の教師がボールを拾い上げて歩いて来る。教師は、生徒たちを見まわした。
「誰だ、蹴ったやつ!」
ひとりの生徒がおずおずと進み出たとたん、彼の両頬にビンタがとんだ。
「ちゃんとまわりを見ろ! どこに目をつけている!」
ぶたれた生徒はおびえた目で一礼する。
「優等生は得」
涼のうしろで誰かがささやいた。振り向かなかった。
そうかもしれない。ボールを蹴ったのが涼だったら、不注意を責められるのはそれに当たった生徒になるのかもしれない。
教師に気に入られたくて優等生でいるわけじゃない。優等生なのは僕の罪じゃない。生徒の成績によって判断の公正を欠くとしたら、それは教師の罪だ。
そう思っても、心のどこかに説明のつかないうしろめたさが残った。
教師の視線が涼をとらえる。
「なんともないか」
「はい」
「おまえも気をつけるべきだったな」
「はい」
教師は、他の生徒をぐるりとにらむ。
「こんなところに集まって何をしている! 誰も休んでよしとは言ってないぞ!」
生徒は従順な家畜のように校庭に散らばる。涼も黙ってその群に加わる。
◆
リョウが死んだ。
◆
廊下の先を、野見山碧が歩いている。脇にオレンジ色の紙ばさみを抱えて、伸びやかな足取りで歩いている。
涼と碧は、同級の一年三組だ。碧は自転車通学で、校門を出て帰る方角は涼と同じだが、家の場所は知らない。隣の校区の中学だったらしいから、案外近所なのかもしれない。
高校に入学した最初の学級会で、担任はふたりを級長と副級長に指名した。入学試験の結果や、中学からの書類を見てのことだろう。
「異議はないか?」
そのとき、クラス全体を見わたして、担任は形ばかりの質問をした。もとより教師の決めたことに異議を唱える生徒はいない。この「異議はないか?」を、涼たち一年三組の生徒は、この後くりかえし聞くことになる。
「はい」
けれど、この最初の「異議はないか?」に手を挙げた生徒がいた。野見山碧だった。
担任は意外そうに目をむき、それから鷹揚にうなずいた。
「なんだ、野見山」
「あの、霜村君とわたしを、級長と副級長にってことなんですけど」
自分の名前が、ほとんど初対面の碧の口からさらりと出たとき、涼はなんだか落ち着かない気持になった。
「どっちが級長で、どっちが副級長なんですか?」
担任の目が丸くなった。
「霜村が級長だ。男子だものな。わかりきったことじゃないか」
一瞬間があって、碧が返事をした。
「はい」
「それとも、男子をさしおいて級長をやりたいとでも言うのか? こんなことを聞かなければわからないようじゃ、おまえを副級長に選んだのは間違いだったかな?」
碧の頰に赤みがさした。
「女は女だ。身の程をわきまえろ」
担任はそう言って、扉を閉ざすように碧に背を向けた。碧は顔を上げたまま、前を見つめていた。
二学期になって、涼はまた級長に選ばれたが、副級長は別の女子だった。碧は養護係をやることになった。
前を行く碧の紙ばさみから、プリントが一枚落ちた。碧は気づかない。プリントはからかうように涼の足もとに舞ってくる。
涼は、女の子と話すのが苦手だ。というより、男女問わず親しく話ができるような関係をつくるのが苦手だ。一学期間一緒に学級委員をやりはしたけれど、それで碧と親しく話せるようになったわけではない。
涼はプリントを拾う。息を吸い込んで覚悟を決める。
「野見山!」
不必要な大声が出たような気がした。
碧が振り向く。耳の下で切りそろえた量の多い髪が、タンポポの花のようにふわっと広がった。
「これ」
涼はプリントを差し出す。碧はびっくりしたように紙ばさみを見、それからにっこりして手を伸ばした。
「ありがと。落としたの、気がつかなかった」
プリントを受け取って、碧は涼を待っている。同じ教室へ向かうのだから、当然一緒に行くものと思っている。
歩き出すと、碧はごく自然に肩を並べた。
碧は「健康的」という言葉がよく似合う少女だ。背が高く、太っているわけではないけれど、頰がふっくらしている。
「頭にボールがぶつかったんだって? 災難だったね。大丈夫なの?」
誰に聞いたんだろう。
「うん。大丈夫」
「そんならよかったね。男子が体練やってる間、縫い物なんかさせられてるわたしたちも結構災難だけど」
女子は、週に二時間裁縫の時間がある。男子はその時間に体練をやるが、テスト前などは教師の裁量で自習になることもある。
「ボールを蹴ったやつが一番災難だったかも」
涼が言うと、碧の顔が曇った。
「それも聞いた。ビンタされたって。ひどいわよね。わざとしたわけじゃないのに」
ひどい。
碧はさらりと口にする。
涼は教師にぶたれたことはないし、誰かがぶたれるのを見るのも好きではない。生徒が教師にぶたれるのは災難ではなく、まして当然のことでもなく、碧の言うように「ひどいこと」なのかもしれない。
でも、仕方ない。どの学校にもぶつ教師がいるし、ぶたれる生徒がいる。ここは進学校だからまだましなのだ。いわゆる底辺校や職業訓練が中心の学校では、教師が生徒をぶつことは日常茶飯事であるらしい。
規律を守るためには、体罰は必要なのだ。
涼は唇をかむ。
親からも、教師からも、そんなふうに聞かされてきた。聞くたびに違和感を感じながら、碧のようにあさりと「ひどい」と口に出したことはなかった。
「体罰」という言葉から連想されるのは、兄の洸の顔だ。洸はもうすぐ二十歳のはずだが、涼の記憶の中では十七歳のままだ。
洸は、よく教師にぶたれた。彼は「やっかいな生徒」だった。ぶたれるばかりだった洸が、たった一度他人に手をあげて、更生キャンプ送りになった。それが十七歳、洸が高校二年のときだ。それ以来、涼は兄に会っていない。
教室まで来ると、碧はちょっとうなずいて、前の戸口から中に入っていった。碧の席は、窓際の一番前なのだ。涼はその対角線の端、廊下側の一番後ろだ。
教室の中では、もうすぐ来るはずの教師を待って、生徒たちが教科書を出し、机に両手を載せて座っている。授業の始まる前は、こうしているのが決まりだ。
ここに入って行くことに、涼は不意にためらいを覚えた。望んで入った高校なのに、どうしてだろう。