プロローグ
雲ひとつもないそんな晴れ渡る空だ。春風が心地よく、香澄の頬を撫でていく。優しい花の香りが鼻腔をくすぐり、上空を楽しげに燕が飛び回った。
香澄は、そんな春の空気を吸い込んでひとつ伸びをして会社に向かう。毎日歩く道に、毎日見える光景。見慣れた景色を横目に、まっすぐ歩いていく。少し田舎な街並みにのんびりとした空気感が流れている。
――突如として、あたり一帯が暗闇に包まれた。
先ほどまでの青い空はウソのように消え、雷雲が上空を占拠する。普段の雲よりも分厚く暗さを増した地上。香澄の周りもざわつき、慌てているようだ。あまりも突然のことで、香澄も空を見上げてしまう。
大きな振動とともに雷鳴が轟いた。激しい揺れとともに、大きな人の形の影が、雲間から姿を現した。
漆黒の髪から大きなツノがふたつ覗かせており、彼がこちらの人でないのは明らかだ。光のない黒の瞳に、射抜かれ全ての動きが停止する。その人は黒のマントを羽ばたかせて、ゆっくりと地面に足を下ろした。
笑みひとつないその表情は、どこか冷え切った印象を与えるのに香澄は妙に胸がふわついた。皆がその人から逃げていくのにも関わらず、無意識のうちに一歩一歩と近づいていく。
「おい、人間」
「……私?」
香澄を指さし、大柄の男が香澄を見下ろした。背の高さ肩幅の広さが、人に恐怖心を与える。そんな恐怖心など知らないとでも言うかの如く、香澄はじっと真っ直ぐな視線を男に向けた。