ヨシオカアツシVS宇宙人:黎明の胎動
学生時代最後の力を振り絞って書いた中編小説です。御一読いただければ身に余る光栄です。
【前回までのあらすじ】
かつて昭和初期に存在した奇才と呼ばれた小説家である善岡敦志。彼は人類の始祖たる宇宙人ネオン星人の単一統合生命体であるミューズと共に世界の破滅を救って以来、彼女の務めるBARで客としてミューズと哲学論議をするのが趣味だった。しかし、昭和初期の混乱の中で時代に翻弄された善岡は世界と人類が一体化することを望み、自殺する。
それから数十年の月日が過ぎ、ミューズは世界を陰から見つめ、人類の自滅を抑止する防波堤として機能していた。そんな世界でとある大学生が小説家になることを目指していた。彼は尊敬する小説家の名前からペンネームを取り、ヨシオカアツシと名乗っていた。そんなある日、ふとヨシオカは世界の矛盾に気付き、それを感知したミューズによって家に押しかけられる。ヨシオカを一目見て、かつての善岡を思い返したミューズはヨシオカと自我を同化させようと試みるが、ヨシオカはかつての大作家と同様に哲学論議を繰り広げ、自分のような人間に善岡の面影を見出して役割を放棄した時点でミューズは人類にとってもう不必要な存在であると指摘する。ミューズはヨシオカの指摘を聞き入れ、多元宇宙へと旅立ち、去り際、ヨシオカに世界の矛盾を変えるのではなく自分自身が変わることが大切だと説いた。
それを受け入れたヨシオカは小さなことからこつこつと自分らしさを確立することで夢であった人気小説家の地位を得ることに成功する(本編はここの続きである)
しかし、ミューズを失った人類は科学技術と資本主義システムの暴走から自滅への道を止められなくなり、2045年に技術的特異点が到来した際に、人間の知性を超えたミューズを模したAIによって人類補完計画を発動され、個々の自我と文明がAIの作った仮想空間に吸収され滅亡することになった。ヨシオカは最後まで無駄な抵抗を試みるも最終的には仮想空間に吸収され、人間としての人生を終えることになった。
【本編】
紅い星が妖しく輝いている。その様はまるで俺のことを嘲笑っているようだ。もしや、未確認飛行物体……? いや、そんなはずはあるもんか。あってたまるもんか。嫌な思い出を思い出してしまいそうだからそう信じこむことにしよう。
そんなことより、ついさっきまで友達だった女子が俺の傍らで、裸で気持ちよさそうに寝ているこの状況は一体どういうことなのだろうか? 記憶がない。そして、頭が割れるように痛い。これは間違いなく二日酔いだ。しかも、おまけ付きという最悪の二日酔いだ。思わず、自分のぼさぼさした金髪頭をかきむしった。
取り敢えず気を紛らわすためにアレを吸うことにしよう。ラッキーストライク。ライターを灯すと薄暗い部屋の内観がぼんやりと浮かんでくる。黒色の空間の中に紫や赤など様々な色の無数の星が描かれている奇抜でギラギラとした模様の壁。宇宙ステーションを模したかのようなシャンデリラ。そうか、そういう仕様のホテルか。正気の沙汰ではまず来ることなどあり得ない。煙草に火をつけると、至福が自分の中に注入され、少し頭痛を和らげて気をほぐしてくれる。
口からこぼれる煙がこの宇宙空間に充満して、この手のホテル特有の甘ったるい香りをかき消した。俺が一服を嗜んでいると、流石にその臭いが効いたのか、つい先ほどまで友人だった女子が気怠そうに目を覚ました。俺は、瞬時にこの後の展開を予想する。自分が小説家であるが故、このような形でスキルが効するとは。最悪のシナリオが頭の中で出来上がった時、それは現実のものとなった。
「ヨシオカ!? ちょっ、これ、どういうこと!? ってか、頭痛が超痛いんだけど。ガンガンくる」
彼女もまた二日酔いで記憶がないようだ。しかし、自分が裸でありしかも俺の隣にいるという状況は理解し、それをどう捉えて良いか混乱している。
「イヤァァァ!! バカバカバカ!」
そして、彼女は布団で体を隠すと全力を振り絞って俺をベッドから押し出した。
地面に落とされた俺は自分の服がそこに脱ぎ捨てられているのを見つけ、それを着ながら口を開いた。
「俺もどのようなプロセスでこうなったのか覚えていない。最後に覚えているのは――」
「バカ! 引退記念だっていつものBARで文芸会のみんなと一緒にわいわい騒いで、死ぬほど酒飲んでたよね? で、気付いたらこれ! そういや、ヨシオカ、こりんの隣に座ってたよね? まさか……」
田中小凛は俺の言葉を遮って俺の下心を疑う。疑われても仕方がないが、正常な思考があれば小凛は俺の対象外だ。第一、俺の経験上、自分の名前が一人称になっているような奴は大体がバカだ。人にバカと言う奴も大抵バカ。そんな奴とここに来ようなんて気が起きるもんか。
「紛いなりにも小説家を自称するようなら少しは想像してみたらどうだ? 俺も来たくてここに来たわけじゃない」
それを聞いて小凛は枕を俺の頭めがけて全力で投げて来た。頭痛にその衝撃が加わって頭の中がグルグルと回りだす。
「あんた、こりんに何かしたんじゃないでしょうね?」
彼女はむっとしながら聞いてきた。
「安心しろ。変な性癖は持ってないから」
それを聞くなり小凛はもう一発、枕を投げて来た。
「バカ! したのね?」
「記憶がなくても、それくらいは予想できるんじゃないのか?」
その時、ベッドの傍らの電話が電子音をかき鳴らし、水を差した。小凛がはぁとため息をついて受話器を取る。
「あのー、そろそろお時間ですが延長されますでしょうか?延長料金の方は――」
「いいですっ!」
彼女はガチャンと電話を切った。
終電を逃していたが一刻も早くこの場を去りたい小凛はタクシーを呼んだ。
「家までの運賃ちょうだい」
「ここの料金払ってすっからかんだ……」
バカとだけ呟き、小凛はタクシーに乗り込んだ。走っていく車を見送った後、俺は振り返りホテルの外観を眺めた。
まるでディズニーランドにあるシンデレラ城の拙いミニチュアのような派手なものだ。しかし、地震でも来たらすぐに崩れ落ちてしまいそうな張りぼて感がある。
そんなことを思いながら看板に書かれた名称を思わず俺は読み上げた。
「Yes we can……」
どっかの国の大統領の名言だ。まさか言葉を発した大統領もこのような不名誉な使われ方をされるとは夢にも思わないだろう。もし、自分が大統領であれば、与謝野晶子でも君死にたまへと言うレベルで怒り狂うだろう。
しかし、そのネーミングセンスが小説家である自分に、インスピレーションの一端を与えたことだけが今回の取柄だろう。俺は暗い道をとぼとぼと歩き出した。頭痛と戦いながら。スマホを取り出し、家までの距離を調べると3キロメートルと表示された。
「マジかよ」
思ったよりも遠い。この調子なら一時間以上はかかるだろう。空を見上げると、俺を嘲笑うかのように妖しく輝いていた星は消えていた。俺は目線を地面へと落とし、独り呟いた。
「二回戦でもお願いすりゃよかったな」
この時、俺は後にやってくる壮絶な悲劇をまったく知る由も無かった。
*
「ヨシオカアツシ先生! 入賞おめでとうございます!」
自分の髪色と対照的に鮮やかな金屏風を背景にまぶしいカメラのフラッシュと向き合ったあの瞬間は人生で最高の時だった。何故なら、小説家を自称するただの大学生が本物の小説家になった歴史的快挙だったからだ。
かつて自分は、昭和初期に文壇の奇才と呼ばれつつも不遇な人生を送った文豪である善岡敦志に憧れ、彼の真似をして小説を我流で書き続けていた。この名前も本名ではない。善岡へのリスペクトを込めたペンネームだ。執筆に取り憑かれ、周りの他者との関係も希薄で、所属している小説執筆サークル文芸会でもいわば浮いた存在であり恐らく仲間たちも「大学生にもなってまだ中二病をひきずっている変な奴」と認識していたのだろう。
だが、この日から全てが変わった。俺も、人間関係も、周りの目も、世間の目も。
若干二十歳にして大手出版社が企画した倍率1000倍と呼ばれる新人賞を勝ち獲ったその日からマスメディアや学校の広報がこぞってインタビューに来て、サークルでも超新星だと持て囃され仲間の輪の中心となり、俺のことを見下していた奴らが「あいつは昔から凄かったと思ってた」などと手のひらを返した。
それだけじゃない、ツイッターのフォロワー数も今まで100人程度だったのがその何百倍にまで膨れ上がり、呟きを一つ投稿するだけで大量のいいねと返信が来るようになった。ファンレターもあれば、上げ足を取るようなアンチコメントやインターネットミームになっている画像を送りつけてくる輩も山ほど湧いたものだ。言葉の暴力は聞くよりも、文字にして見る方が辛いものである。今までも罵詈雑言を浴びて来たが、流石に応えるものだった。通知や催促でも、電話より文書の方が怖いという人の気持ちがよく分かった。しかし、一か月ほどでそれらもすぐに慣れてしまった。俺自身もその日から変わったということだろう。
善岡敦志の偽物である自称小説家のヨシオカアツシは本物を超えて、晴れて偉大なる小説家として地に足を立った。
賞獲得後に出版社が、かつて俺が書いた小説を二作目として出版してくれたのだが、これが飛ぶ鳥を落とす勢いで売れて新人賞の賞金を遥か何十倍も上回る印税が手に入った。だが、親にローンや借金の返済やらで使わせてくれだの車を買ったり、文芸会のみんなに御馳走を振舞ったりなどで今では手元に数十万円しかない。たった一年でこんなになくなるものだと、金というものの恐ろしさを身に染みて感じた。
しかし、この一年が短い二十一年の人生の中で一番輝いていたのだろう。これからは、今まで通り社会のレールに沿って歩いていく人生プランを考えなければならない。
小説を出して有名になったことでマウントを取ってホワイトな一流企業に内定を貰って入社し、会社員をしながら細々と小説を書き続け、三十代で管理職になり誰かの紹介で良家のお嬢様と結婚して子供を作って家を持つ。小説の人気が途絶えないなら60歳で定年退職して文壇の大物(老害)として偉そうにドンと構えて、私生活では孫の顔を見ることだけを生き甲斐に毎日、公園でゲートボールに勤しむ。そんな生活が20年くらい続いたらお迎えが来るのだろう。
そんなモブキャラのような人生を幸福だと思い込むようにこの国の社会システムはなっているのだ。いくら俺が一瞬、輝いた程度ではシステムから外れて生きていくことは不可能なのだ。
もう俺も大学三年生の冬に差し掛かった。文芸会はもう後輩たちのものだ。最後に飲み明かしてあとはモブキャラに戻ろうと決めたあの日だった。
*
「えー、先輩方。今までありがとうございました。というわけで引退してこれからは就活生になられるということで、これまでの感謝とともにその門出を祝いこの会を開催するというわけで――」
「「はい! な~んで持ってんの? な~んで持ってんの?飲み足りないから持ってんの! は~! 飲んで! 飲んで! 飲んで飲んで~!」」
厳粛なスピーチに割り込んでバカどもが飲み会特有のコールを始めた。俺は酒を飲むのは好きだが、こういうノリが大嫌いでしょうがない。しかし、いざ会が始まったら理性が飛んで飲みまくってしまう。
「店員さん! ヘネシーのVSOPをロックで!」
「度数40度のブランデー、私にはムリかな~。それにしてもヨシオカってホント飲む時は沢山飲むね~」
「酔うとインスピレーションが降って来るんだ! だから、坂口安吾も中原中也もヘミングウェイも飲みまくったんだ!」
「そんで死んじまったと」
場が笑い声で充満した。だが、俺は怯まない。
「命は手段に過ぎない! その限りある命を賭けて、何を為したかで人生の価値は決まるんだー!」
顔が赤みを帯びて何が何だか分からない状態のまま、喧騒の中で度数の強い酒を浴びるように飲み続けた。そろそろ、ダメか。頭の中を芸大生の卒業制作みたいなものがグルグルし始めた時、隣にいた小凛が喋りかけて来た。
「そういや、ヨシオカって好きな人いないの?」
「いないから探してるんだ。宇宙人以外だったら何でもいいさ」
「へ~、昔まだ有名になる前におとなしめの女の子と付き合ってなかった?」
「あー! 黒歴史を掘り返すな―! お前だって元カレと別れた時、メンヘラになってただろ」
「ちょっ! あれはあのバカが悪いのっ! 私が、だ、だ、だ、大統領になったらこの世から浮気を消滅させるからっ!」
そんな調子で盛り上がってるのが最後の記憶だ。
*
「それで小凛は飲みすぎて疲れて帰るって言って、俺が「酔った女子が一人だと危険だ。ボディーガードが必要だろう」とかほざいて二人で出て行ったと」
記憶が曖昧だった後のこと、つまり店から出たタイミングについて友人から聞いた。
「お前、あの後なんかあったのか?」
友人の言葉にギクッとしたが平静を装う。
「いや、気付いたら家にいてな。どうやって帰ったか分からんかったんだ」
「もしかしてお前がボディーガードされる側だったんじゃねえの」
彼からは笑われたが、そうかもしれんとだけ返した。しかし、変な噂が立ってなくて良かった。俺にとっても小凛にとってもその方が都合良い。
それより、小凛とはもう関わるのは辞めよう。そう決めて、LINEの友達から小凛のアカウントを探し出しブロックボタンを押した。後期の授業もあと1か月あるが、学部は違う。俺は文学部のロシア文学専攻で、奴は政治学部で地方創世のゼミにいる。キャンパスが広いから会う確率は低いだろう。そう決めたが、まさか思わぬ形で再開するとはこの時は夢にも思っていなかった。
*
「はい、私が学生時代に最も力を入れたこととしては文芸サークルでの経験です。精力的に活動と運営に携わり絆を通して人と人の関わりを紡ぐ、その中での調整能力ということに関して自身の手腕を磨きました。また、私は一昨年前、大手出版メーカー主催の小説新人賞を獲得し、現在に至るまで人々に笑顔を届けるという使命のもと多くの小説を出版しております。恐らくそれら自身のスキルや経験から得たことは必ずや御社での活躍に役立てることが出来ると考えております」
「なるほど~、ヨシオカアツシさんの小説は私も読みましたよ。いや~、凄かったね。あの怒涛の展開、やっぱヨシオカさんの人生観が出てると思いましたね。あの主人公みたいに弊社でもやってくれますか?」
「はい、勿論でございます」
「何かこれまでの件から得た教訓などがあればご教授願いたいです」
「はい、それは命は手段に過ぎないということです。その限りある命を賭けて何を為したかで人生の価値は決まるとそう確信しております」
「ありがとうございます」
こんな感じで最終面接は無難に終了した。この調子だと恐らく内定獲得は確実だ。俺は意気揚々と本社を後にした。日が沈んでいく。もう夕方だ。せっかくだから、祝い酒を飲むことにした。
3月の寒い中、コンビニで買ったストロングゼロを片手に公園で夜空の星を眺めていた。酔いが回ってネクタイを緩め、完全に無防備な状態だ。しかし、この辺りは治安が良いから安心だろう。
しかし、そう思っていたのは死亡フラグだった。俺は思わぬ奇襲を食らった。鳴り響くスマホ。企業からの連絡だと思い発信者名を見ずに応答する。
「はい、ヨシオカでございます」
「電話番号合ってて良かった」
電話の主の声を聞いて戦慄する。
「小凛……」
「あんたLINEブロックしたよね。でも、文芸会の事務所のパソコンで名簿見たらメアドも電話番号も載ってたよ。そんくらい分かるでしょ。バカじゃない? それにしてもやってくれたよね」
その声は怒りを帯びており、背筋に冷たいものが走った。
「で、そこまでして俺の連絡先を探して何の用事?」
「あれから生理が来なくなって放っておいたんだけど、今、吐き気とか頭痛とかでしんどくてね……。あの時の二日酔いよりひどいわ」
俺の脳内には今まで想定もしていなかった最悪のシナリオが出来上がる。
「まさか……」
「分かるでしょ、バカでも。妊娠したの」
その単語を聞いて言葉を失った。「妊娠」これ以上に重い単語はない。どうする? 考えるよりも先に言い訳が先行した。
「俺の子どもかどうかなんて分からないだろ……。お前、他に心当たりがないのか――」
「ないっ! それにこのつわりの発生から逆算して計算すると、できたのはヨシオカとあった時期よ」
酔っていたとはいえ何故、当時の俺はゴムをつけなかった? いや、つけていても破れていた可能性は大いに考えられる。どうする?
「取り敢えず今は時間がないから切る」
「ちょっ、待ってよ。このバ――」
小凛が何やら言おうとしていたが、俺の手は一方的に通話を切った。そして、電話番号をブロックした。こんなことをしても何の解決にもならないことくらい分かっていた。小凛の電話をブロックしても、他の電話番号でかけてくることくらいは予想できるし何よりこっちが交渉をしないと通告するようなもんだ。
しかし、どうしようか。未曾有の事態に頭を抱えるもふと強い衝動に襲われ、俺はコンビニへと足を運んだ。二缶目のストロングゼロを買う為に。
*
内定は貰えなかった。しかし、そんなことで傷ついている場合ではない。この話が大きくなれば内定取り消しどころじゃ済まなくなる。文芸会からの追放を免れることは不可能。それに、かつてあれほど自分を持て囃したマスメディアに手のひらを返されて集中砲火を受けてワイドショーを騒がせることになるだろう。SNSも話題で持ちきりになって大炎上して誹謗中傷の嵐が来るはずだ。
それだけ考えてなお、自分には何をすればよいのか、どのようにやれば正解なのか全くわからなかった。だから、最近の検索履歴は「大学生 妊娠」「中絶」「妊娠 どうすればいい」などといったキーワードで埋め尽くされていた。
あれから小凛は電話番号を変え、俺に二度ほどかけて来たが即座に通話を切りブロックし続けている。だが、それはやはり悪手だったのだろう。
それからしばらくしてメールが届き、その内容に驚愕した。
「これ以上、真剣に話をしようとしないなら、ユーチューバーのカレカノさんに相談して大ごとにしようと思うから。気が向いたらこりんに電話を頂戴、このバカ」
カレカノとは最近、若者に人気のユーチューバーで著名人の不祥事などを、証拠を集めて暴露することで定評がある。この前も、100万人の登録者がいて人気アイドルと結婚した有名ユーチューバーが、中学生の女子と性交渉したことを恥ずかしいLINEの文面と共に暴露されて逮捕されたことで話題になった。
こいつが介入してきたらこちらにとっては分が悪い。
こういう時にどうすればいいか?
現実逃避。俺は最悪の選択肢を今日、取ることにした。
善岡敦志ゆかりのBARに行って死ぬほど飲もう。酒を飲むといつもインスピレーションが降って来る。もしかしたら打開策を見つけることができるかもしれないと一沫の希望を賭けることにした。
「いらっしゃい」
人気のない薄暗い店内に、亜麻色の髪に大きな瞳のカウンターレディ。俺はいつぞやの変な思い出が脳裏を過ったが、まさかそのようなことはあるはずがないだろう。ドビュッシー作曲『グラドゥス・アド・パルナッスム博士』の自作自演を自動ピアノがかき鳴らしていた。そのピアノの上に置かれた古い写真には、セミロングの鮮やかな金髪に黒い山高帽を被りにやりと笑った口にはパイプタバコを咥えている善岡敦志と、カウンターを隔てたその先には自分とは因縁が深い美しき宇宙人ミューズが妖しい笑みを浮かべてツーショットで写っていた。
「ヨシオカ先生。あなたの尊敬されるお方はご存命の頃、足しげくここに通っておられたんですよ」
カウンターレディが説明する。どこかミューズを思わせる彼女だが、俺は話しかけた。
「そうだな。ここは善岡みたいにヘネシーVSOPをロックで」
「かしこまりました」
「それと聞きたいことがある。この善岡と一緒に写っている女はその後どうなった?」
「彼女は善岡敦志にとっては友人以上恋人未満の人だったんでしょうね。確か善岡の死後に数少ない遺産を相続してどこかへ旅に出かけたようです。このお店で働いていたらしいんですけど、ふらっと現れてふらっと消えて行ったとか……。まるで宇宙人みたいな人だったようです」
あぁ、その通り宇宙人だ。俺はラッキーストライクを口に突っ込み、ライターを灯した。口から勢いよく煙を吐くとBARにその臭いが充満する。
「どうぞヘネシーVSOPのロックです」
眼前に出されたグラスに波々と注がれた液体を勢いよく飲み干す。
「流石の飲みっぷりですね。ヨシオカ先生」
「あぁ、飲まなきゃやってられないことがあってな」
そのままカウンターレディに勧められるがままに飲みまくった。わいわい騒ぐ飲み会もいいが、こんな感じで独り飲む方が性に合っている。
「ところでヨシオカ先生。かつて善岡が使っていたパイプが残っているんですけど吸ってみます?」
彼女が眼前に差し出してきたのはどこか懐かしさを感じるパイプタバコであった。昔は善岡の真似をしてよく使ったもんだ。慣れた手つきで煙草の葉を詰め込み、マッチでゆっくりと全体に渡るように火をつける。そして、腹式呼吸で吸ったり吐いたりを繰り返すと、まるで昔に戻ったかのような気分だ。
「ところでもう一杯いいかな?」
ふと顔を上げ呼ぼうとしたが、そこに立っていたのは、
「ミューズ……」
「久しぶりね」
人類に辟易して別宇宙に渡ったはずの宇宙人だった。
「何故、ここにいる?」
俺の問いかけにミューズは妖しい笑みを浮かべて答える。
「向こうからたまに郷愁にかられた時、地球人たちの様子を見て楽しんでるのよ。それにしてもあれから偉くなっちゃってね。善岡先生の偽物が今や本物を超えたってのは凄いわ。そう思いませんか? 善岡先生」
ピアノの方を向き直ると、そこで美しい調べを奏でていたのは山高帽にセミロングの金髪と紛れもないあの男だった。
「あぁ、バカな親というのは子に自分を超えて欲しいと思うものだが、俺はバカなんでね。嬉しいよ」
振り返ってにやりと笑う善岡。何故二人がここにいるのか分からないが、彼らは俺のことを認めてくれている。だが、自分はそんな彼らの期待に応えることは出来ないだろう。
「栄光なんて一瞬。ほんの些細なことで全てが失われ、否定される今の時代を生きる俺なんかは、あなたたちのような偉人に成り得ない」
俺の目からは涙が出ている。しかし、ミューズがカウンター越しに指を伸ばしそれを拭き取った。
「大丈夫。あなたには世界や社会システム、周りの人々を敵に回しても勝てる力があるわ」
「そうだぞ。それに、きっとお前はいい父親になれる。俺なんか子どもいないんだから羨ましいよ。それと……」
善岡が大切なことを言おうとしてごほんと咳をする。そして、喉の調子を整えた彼は俺に指を向けて言い放った。
「ファンは大切にしな」
二人はふっと消えた。
*
「ヨシオカ先生起きてください。もう閉店です」
体を揺さぶられて夢の世界から戻ってきた。俺は何をするべきか踏ん切りがついた。スマートフォンを取り出し電話をかける。
「流石にカレカノの名前を出したらビビッて電話かけて来ると思ってたわ」
「いや、今までは忙しかったから出なかったの。お前が勝手に盛り上がっただけだ。お前が出るとこ出るなら、こっちは全てを敵に回してでも戦う準備は出来ている」
「電話越しだと強気ね」
ふんと鼻で笑う小凛。
「なら直接会って確かめてみろ。せっかくの快感を二日酔いで覚えていないってのにツケだけ払えときて、ただで済ませるもんか」
「流石は大作家の言葉。いいよ。今度、産婦人科行くからこりんについてきて」
それだけ言うと小凛はブチっと電話を切った。
あいつは思ったよりバカじゃなかったな。そう思いながら店を後にした。
*
「はーい、大きく息を吸って下さーい」
医師の指示に従う小凛。たった三か月ほどではまだ小さいが、腹が出たというのははっきり見える。
「あー、形が出来上がりつつありますよー」
医師が指さしたエコー映像を見ると、勾玉のような形で丸まっているが、手足がはっきり見える。明らかに人の形をした胎児だ。
「今日は彼氏さんも一緒ということらしいですが、どうです?」
唐突に医師から振られたが、それ以上に「彼氏さん」という単語の後に疑問符が付いたイントネーションが気になり、言おうとした言葉が出てこなかった。
「中絶はいつできる?」
結果的に最悪の言葉を吐いてしまった。それを聞いて平然としている医師、唖然とする小凛。俺は思わず俯いてしまった。
「6週を過ぎたら行うことは可能です。小凛さんは妊娠3か月ですので今ここでお二人が同意書にサインすれば近日中に行うことができます。あと、母胎保護法という法律により妊娠22週未満が中絶手術可能となっています。それを過ぎたらもうダメです。出産は一般的に十日十月と呼ばれていまして280日前後となります」
小凛に優しく語り掛ける口調とは違い、淡々とした説明だった。
「手術は難しいのか?」
医師の目を見れないまま俺は問いかけた。
「中絶手術の時間は10~20分位で終了いたします。その後麻酔から完全に覚醒して帰宅するまで2~3時間位で腹痛などの余韻は個人差があります。原則として日帰りにて中絶手術は可能です。当院では掻爬法という手法を用いて、スプーンのような器具で子宮内容物つまり胎児を掻き出します」
つまりこのエコー映像に映っている「それ」をバラバラにして取り出すということか。思わずその手術光景を想像して、俺は胃の内容物を吐き出しそうになり、口を押える。
「大丈夫ですか?」
医師の淡々とした問いかけに俺は無言で応えた。小凛は腹を擦りながら俺を蔑むような眼差しで眺めていた。
「まぁ、まだこの子が育つまで時間がありますので、ゆっくり考えてください。もしかしたら心境の変化もあるかもしれませんので。あと、言い遅れましたが、中絶手術後に後遺症が残る可能性もあります。主に、手術のストレスや感情を抑圧してしまうことで、肉体や精神・行動面に影響を及ぼし、過剰反応や侵害行為、抑圧などといった症状が出ることもたまにあります」
医師の難しい話を俺は即座に理解した。
「それ、PTSDってやつだろ……」
しばしの沈黙の後、医師は口を開く。
「そうです」
*
「いや、ほんとヨシオカってバカだよね」
産婦人科を出た俺たちは近くにある大ホテルのメインラウンジで面等向かって話をした。禁煙席に座り好物の酒も控え、二人でオレンジジュースとサラダを頼んだ。
「あぁ、そうだな」
今回ばかりは否定しようがなく、ただ同意した。
「ねぇ、中絶費用っていくらか知ってる?」
「あそこでやると20万だったな」
「それくらいはバカでも調べるんだ。もし、あそこでお金の話なんかし出したりしたら、流石のこりんもキレて、ビンタしてたと思うわ」
どのような話から切り出せばいいか分からないが、小凛が待っているであろう言葉だけは絶対に言うつもりはない。
それは謝罪だ。俺にいくら落ち度があるとしても、ついてきた小凛にも非があるだろう。酔って判断力を失ってもそれはお互いさまで同意を得て行ったはずだ。下半身の交渉は一瞬に過ぎない、それが現実の持続的な交渉に繋がってしまった以上、こちらが一方的に非を認めれば全面的に負けてしまう。最悪の想定をしなければならない。
そんなことはどうでもいい。くどいようだが、全く記憶がない快楽の為に払うツケはせめて最小にしたい。
「あれを体の中に入れているのはお前だ。だから、お前がどうしたいかに従う。その為なら何でもできる限りのことはする」
俺は目線を逸らしてボソボソと言った。
「なにそれ……」
小凛の顔には怒りが浮かび上がっている。何が逆鱗に触れたのかは全くもって分からない。バカの考えることなど俺には到底理解できない。
「そんなの分からないよ! このバカ!」
こいつも俺と同じことを考えていたのか。
「そりゃそうだよな。だが、現実にそろそろ腹も隠し通せないくらいに大きくなるだろう。それまでに結論は出さなければならない」
「で、どうするの?」
思わず口をつぐむ。だが、
「正直な話、お前は俺同様に中絶を選ぶと思った。お前はバカだから先のことなど全く考えずに今を考えると。でも、今こうして大好きな酒や肉を断って、美味しくもない野菜ばかり食べている。望まれずに作られたあれの為を思って――」
「この子のことを、「あれ」って言うな!!」
小凛の怒りに思わず怯んだ。俺は我慢もせず酒も煙草も止められないのに、小凛は一夜の迷いで出来た胎児の為に日々一生懸命にやっているんだ。
父親になるのは簡単なのに、父親としてあることは難しい。そう思って話題を変えることにした。
「俺の身の回りで何も起こっていないことから察するに、お前はまだ誰にもこのことを言ってないだろう。それは恐らく……」
一瞬言葉が詰まった。
「両親にも」
小凛は黙っていた。図星だろう。何か言いたげだったが、俺は先に口にすることにした。
「会いに行こう」
そう言って小凛の手を掴んだその時、
「こりんのママはもういない……。パパは……」
*
日曜日。俺と小凛は6回ほど電車を乗り継ぎ、彼女の実家へと向かった。電車の途中の緑が広がる田んぼの光景にどこか郷愁をかられた。とはいっても、俺は錆びれた港町で育った。基幹産業の漁業は衰退し、港湾工場が立ち並ぶ辺鄙な田舎だ。そこで、俺の父は公共事業の下請けで事業を回していた。
思い出す。俺の両親は、いつも俺と姉を比べた。
昔から姉は論破厨で頭が良く勉強せずにテストでいつも平均90点くらい取っていた、でも俺はいくらやっても成績が伸びず頭が悪いくせに空想の世界に耽っているという格差。姉は優秀で現役で一流大学の経営学部に受かり卒業後は一部上場企業の内定を蹴って田舎に戻り父の会社で成績ナンバーワンの営業ウーマンになってるが、俺は二流大学の文学部にしか受からない始末で浪人させてくれと親に頼んでも金がどうのこうのと言ってさせてくれなかった。金銭的な問題なんて本当はどうでもよくて、浪人しても無駄だと悟っていたのだろう。
ただ、この大学に受かって良かったのは家族から離れることが出来たからだ。父はいつも酔う度に冗談で母に「お前、浮気してこいつ生んだんだろ」などと話し、姉も交えて三人で笑っていた。そういうのが嫌で一度も家に帰っていなかったのに、新人賞を取って出版した小説が売れたと聞いたら、家に帰っておいでと猫なで声で親戚一同に介して懐石料理で出迎えてくれた。まるで姉が受験に合格した時のように。
それで俺も認めてもらえたと思い感極まり、思う存分に酔って、次の日だった。姉が俺を起こすなり、こう言った。
「偉いね。この家のローンと色々な借金を払って車も新しいのに変えてくれるなんて」
何を言ってるんだと思った。
「子ども二人を都会で一人暮らしさせれるだけの財力がある親父がやってくれる」
ぶっきらぼうに答えると、
「はぁ? お父さんやお母さんが「今までの恩返しをしろ」って言ったら昨日言ってたじゃん。自分の言葉に責任を持ってよ」
「酔ってて覚えていない。ってか、俺が責任持つような奴だと思うか? 都合の悪い約束はなぁ、破る為にあるんだよ!」
何が恩返しだ。ふざけるな。慰謝料を請求したい気持ちを昨日の歓迎で相殺したはずだった。
「まったく……。あんたってのは、そういう社会をナメたとこが昔からあるから。空想家だから、自分中心に世界や社会が回っているとか思ってんでしょうけど、所詮どれだけ有名になろうと社会の駒でしかなくてそのシステムやルールに歯向かうことは出来ないのよ」
そう言って大量の書類を出した。それらには全て俺のサインと捺印が為されていた。やられた。そう思って思わず呟いた。
「姉さんは酒が飲めない体質だったっけ」
「酔ってそんなことまで忘れちゃうなんて。あんたやっぱりお父さんの子よ。酔うとハメ外してしまうとことか本当にそっくり」
クソッタレにもほどがある。あんなのと一緒にするな。姉はまだ続ける。
「今、あんたが尊敬している善岡敦志っていう偉大な小説家。もとは私が紹介したのよ。あなたが彼のように賢くなってくれることを願って。善岡は宇宙人と戦っても勝てるくらいの凄い才能があった。でも、彼は酒を飲むとダメだったみたいね。あなたはそんなところまで真似して欲しいとは思わなかった」
そう言い残して、姉は書類をその場に置いて立ち去ろうとした。しかし、最後の反撃とばかりにその背中に言葉を投げかける。
「ところでさ、姉さん。彼氏できた?」
姉の背中から聞くなというオーラが発せられたが、彼女はそのまま部屋を後にした。
姉弟で圧倒的な優劣があっても、一つだけ逆転ポイントがあった。外見だ。姉さんは100人いれば101人が「彼女にふさわしくない」と認める顔だ。何故、一人増えてるか? それは姉自身をカウントしている。中学・高校の時も、イケメンにフラれた話をどっかで聞いて笑いものにした時、初めて勝てたと思った。しかし、「あんた彼女いるの?」とムッとして言われた時、返せなかったわけだが。
とはいえ、俺の顔は100人いれば半分は「彼氏としてまぁ恥ずかしくない」というレベルには位置していると自負している。姉とは対象外にこっちは紛いなりにも恋愛経験が何度もあって、家を出てすぐに童貞を卒業した。
いかがわしいお店でしたとかではない。それは童貞の退学だ。卒業と退学には大きな差がある。一流大学に入ったけど中退してベンチャー企業で成功した奴が受験や人生論で色々と語るのをテレビで見て思う、いくら偉くても卒業もしていない奴が偉そうに喋るな。
今の俺にかつての姉の返しは無効だ。姉は大学生になって社会のルッキズムに対していかなる論戦も無効ということに気付いたようだ。
部屋をしばらくして出て居間に行くと、気持ちよさそうにいびきをかいて寝ている父がいた。それを揺さぶって起こす。
「おはよう。昨日は久しぶりに飲みすぎてしまったよ。こっちゃ覚えてないけど、楽しかったか?」
笑顔で迎えてくれる父。かつては威厳があり、悪い成績を取って帰るなり、机で手を組んで怒りを身にまとった雰囲気でどういうことだとド正論で問い詰めてきた男。今まで褒めてもらったためしがない。しかし、何年か見ない内にだいぶ変わった。
「あぁ、楽しかったよ。お礼にこれ」
姉さんから渡された書類を差し出す。
「お前、これ……」
「実は自転車操業なんだろ? 昔から気付いていたよ。だから、少しばかり今までの恩返しのつもり」
姉さんに嵌められたなんて言ってビリビリに破るようなクズではない。俺も何にしろ生んで育ててもらった恩を感じるくらいの人情はある。
「お前は間違いなく俺の子だ」
よく言うわ。そう思っている俺におかまいなしに、まだ話を続ける。
「かつてな。俺の婆さん。つまりお前のひい婆さんは、女学校時代にバカな大学生にたぶらかされて私生児を生んだんだ」
あっ、そう。
自分の遺伝子的なルーツについてはこの時、初めて聞いた。
「その私生児はこのド田舎の孤児院に捨てられてな。そこを出てから数多の戦いを繰り返して、ここに地に足を立った一大ビジネスを作った。でも、家庭でも頑固者の調子で昔っから毎日あれが悪いこれが悪いと怒鳴って俺のことを殴る蹴る。褒められた試しなんて一度もない。尊敬はしたが大嫌いだった。で、バブル崩壊で景気が最悪な最中に借金まみれのまま責任も取らず、逝っちまった」
「そうだったんだ」
「俺はどれほどあいつを恨んだことか。でも、生んで育ててもらった恩だと思って当時大学を出るか出ないかの俺は、親父が大切にしたもんを恩返しのつもりで継ぐことにした。まぁ、借金は可能な限り減らしたが永遠に消えんもんだと思っていたんだがな。これで俺も一安心だ。そうそう、俺はお前が昔から俺のことを嫌いなことに気付いてた。でも、それでも恩返しをすると思っていたんだ。子育てってのは未来への投資だな」
随分と美談めいた風に言っているが、何が投資だ。見返りを求めて今まで俺を育ててたのか? それと、親父が社会人経験もなくノウハウがある実家の事業を継いだのは、何社回っても不採用になる時代背景があったんじゃないか? 誰も跡を継ぎたくなかった中で貧乏くじを引かされたんじゃないのか?
やっぱりあんたは俺の父親だ。そう思って見ると笑顔の親父の顔は俺とよく似ている。
その時、母がやってきた。
「おはよう、母さん。そろそろお暇しようと思う」
学歴のコンプレックスを抱え、それを晴らすかのようにいつも教育熱心だった母。優秀な姉はほったらかしにして、バカな俺の為にいつも必死で教えてくれた。勉強をさぼる度、成績が悪い度にヒステリックに怒鳴られ、ビンタされ、親父が爺さんを思うのと同じだ。こんな俺に飽きずに18年間教育したのだから凄いと思う。ただ、道徳というのをまるで教えてくれなかったことは大学生になって色々あったから、そこは罪だ。
「もう帰るの? 田舎は嫌だもんね」
「あぁ」
荷物を揃えて玄関に向かうと親父と姉を含めた3人が見送りに来た。さよならの後、母さんは言った。
「次に帰って来る時は将来のお嫁さんも連れてきて」
姉はムッとしていたが知ったことではない。
「考えとく」
そう捨て台詞を残して俺は駅へと向かった。
そんな回想や小凛との談笑の末、そこに辿り着いた。小さな家だが、塀には与党政党やそこを地盤とする政治家のポスターが大量に張り付けてある。その中で小凛と同じ田中と言う苗字の老人がひと際目立っている。
「久しぶりだな、小凛」
出迎えた小凛の父親はポスターの男だった。どことなく顔は小凛と似ているも脂ぎっており、髪は染めたような白髪で目つきはまるで獰猛なハゲタカのように鋭い。
「どうした? その胡散臭い男は。どっかで見たような……。あぁ、あのマスゴミどもに持ち上げられた若造の小説家か。まぁ、いい。中に上がれ」
こいつにだけは胡散臭いとは言われたくないが、話をしてみないことには始まらない。
*
「彼氏か?」
彼が取った様々な賞や記念品、大臣や与党幹部、知事、元総理などと並んだ写真がどこかしこに配置されている客間で、足を組んで偉そうな態度で俺たちに尋ねた。
俺が返答に困ると小凛が肘で小突いてきた。どういう意図かは知らないが答えることにした。
「察する通りでございます。田中仙三郎先生」
小凛から少し聞いていたから知っているフリは出来る。しかし、相手は俺を品定めするように見つめている。
「ところで、この町が、我らが自明党の幹事長である皿木先生の地盤であるということは知っていたか?」
皿木幹事長。国政与党第一党である自明党のナンバー2であり、総理大臣も頭を下げるという男だ。汚い金集めが得意で国のありとあらゆる利権を牛耳っており、マスコミから批判されまくっているが業界団体の取りまとめや財務官僚の取り扱い、選挙における手腕は随一でありこの国を動かしているといっても過言ではない男だ。かつて新人賞を取った際に、何やらこいつからの手紙も届いたがテキトーなことが書いてあったので、紙飛行機にしてゴミ箱に投げ入れた。そういや、あいつはこんな田舎を選挙区にしていたのか。
「存じております。皿木先生からは賞獲得の際に励ましのお手紙をいただき――」
「そうか。偉い偉い。それなら何故、あれだけお前を持ち上げるマスゴミが猛バッシングする皿木先生が潰されないかもう分かるよな。それらの大元を辿れば何だと思う?」
俺の話を遮って唐突に俺に質問を投げかけて来た。ここは俺を試しているのだろう。俺は金を意味するOKサインを右手で作ると仙三郎はニヤリと笑った。
「お見事。その通りだ。そして、それがあるから皆がへこへこする。社会における様々な利害が蠢く政治という場でそれらを調整するお薬は金なのだ。薬には副作用があるが、この場合は依存性だ。金という麻薬で社会のシステムを構築し、それで支配する。この町も、この県も、この国も。おこぼれを頂く為にこの町は必死で皿木先生を応援する。だから、絶対に選挙で負けないのだ。いくらお前みたいな青二才が全うで理想的なことを叫んで立っても、勝てるわけがない。逆に言うと、皿木先生はこの町で勝ち続けることが強さの源泉である以上、負けてしまえば皆からそっぽを向かれ金も利権も名誉も全部失ってしまうのだ。だから普段、東京でふんぞり返っている先生方は何年かに一度行われる選挙の時は、何の楽しみもない地元に帰って、街頭演説を行い嘘八百の理想や公約を叫び、自分の汚い顔を町中に貼り付け、派手な選挙カーで走り回りひたすら自分の名前を連呼するという羞恥プレーを行う。そして、普段は見下している田舎の老人たちにペコペコペコペコ頭を下げて、笑顔で握手する。そして、事務所で縮こまって地元の企業の重役どもから入札とかの陳情を聞く。そして、選挙で勝てば態度を翻してまたふんぞり返る。その選挙戦というのは皿木先生という脳みそを筆頭に、俺たち自明党の県議会議員・市議会議員どもが神経として秘書やこの町の住民のお偉いさんの言うことを何でも聞く輩らを細胞として展開されるのだ。それが勝ち続ける構造であるのだ。脳みそがおかしくなっても神経がまともに働いてたら、人間は動き続けることが出来る。お前ら、都会で電車に乗ってると訳の分からないことを叫びまくっている中年のおっさんおばさんをよく見るだろ? あれと同じだ。時々、ここで皿木先生を倒すとか言って立つ奴と同じだよ。逆に言うとな、神経が狂ったらどれだけまともな脳みそを持っていても体が言うことを聞かなくなって動けなくなるんだ。そして、それは県政・市政に対しても言える。県でそして町で一番偉いのは誰か? 知事や市長だと思うだろう。それは、裏で支えてくれる神経がきちんと機能している場合だ。神経が反乱を起こせば、細胞である公務員どもや業界団体さま、財務省に陳情を届けてくれる皿木先生を動かせなくなって、この県もこの町も財政が破綻し、金回りが回らなくなって長期的には、基幹産業の衰退と過疎化を招く。首長たちはそれだけは勘弁願いたいから、与党の県議団・市議団に頭が上がらない。その議員団の中で最も強いのは、当然金と利権と人脈を金揃えて何十年も居座っているような奴だ。それらを踏まえて、国政選挙や地方政治で何が大切かつまり何が言いたいか分かるか? 若造小説家」
長々と話した末に仙三郎は善岡に問いかけた。
「有力な政治家の背景は、選挙地盤の地方議員が生命線であり、仙三郎先生のような立派に長年勤めておられる方の一存はこの地方のみならずマクロには国へも影響力を行使するということですね」
「そうだ。ちなみに俺は、皿木先生の選挙で7戦、対策本部長を務めており、県政を思いのままに運営して知事や市長に命令できる。君の目の前にいる男は、この国のドンが頭を下げにくる男だよ。かつて自明党がボロ負けして政権交代した選挙の時、皿木先生は土下座まで晒したもんだ。改めて俺の自己紹介を説明しよう。この町選出の県議会議員にして自明党県連幹事長、県議会議院運営委員会委員長、県民発展推進同盟顧問、県事業連合組合相談役、県交通振興会事務局長にして、小凛の父。田中仙三郎だ」
そして、仙三郎はまるで選挙の時のように深々とお辞儀をした。それに合わせて俺も頭を下げる。
「あらためまして私は――」
「それより、小凛。なんか太ったか? いや、顔はほっそりしているのに腹だけ出てるぞ。どんな食生活をしたらそうなるんだ?」
俺の自己紹介を遮って笑顔で優しい口調で小凛に尋ねるのを聞いて、背筋を冷たいものが走った。そうだ、この男は最初から気付いていたのだ。威圧する空気、試すような態度、くどくどとした説明。全部、演技だったのだ。恐怖心を与えて影響力を見せつける。流石は皿木をひれ伏せるだけの男である。
「パパ……。あのね――」
「ゴムをつけなかったのか? それともピルが効かなかったか。まぁ、いい。ところで若造」
「はい」
仙三郎の目つきが鋭くなる。
「いくら払う?」
こいつは本当に金のことしか考えていない。その為には家族でさえも、コマとして考えている。俺の両親や姉もクズだと思っていたが、あいつらはその自覚がなくこいつは確信犯だ。そう思って彼の鋭い睨みに向き直った時、再び奴は口を開いた。
「誰の娘を傷物にしたか。しかも、おまけ付きで。それに見合う代償を提示してみろ。もし、タダって言うなら、この町のチンピラどもを今すぐここに呼んでから改めて返答を聞こう」
座っていなければ後ずさりしていただろう。それだけこいつには気迫があった。駆け引きで勝てるか否か。ここは試しだ。
「父さん。そろそろ孫の顔を見たくないんですか?」
その瞬間、間髪言わずに俺の顔面に鉄拳が飛んできた。
「どんな孫が見たいかは俺が決める。社会のゴミみたいな小説家如きの遺伝子はいらん」
そして、仙三郎は娘に向き直った。
「お前は母さんに似て昔からバカだ。その年になっても一人称が自分の名前で、俺のことをパパと呼ぶ。中学の時も、好きな人にフラれたとか言って一週間くらい寝込んだこともあったっけ。そのくせ、人のことをバカ呼ばわりしまくる。そんなお前なんかには俺の地盤を継がせることができるわけないだろ。だから、お前が大学を卒業すれば即刻、この県と町を良くしてくれる情熱を持った若くて骨のある奴を見つけてお前に与え、俺の持つ全ての富と権力を与えようと思っていたのに……。親の心、子知らずとはまさにだな」
父親も小凛に対する見方は俺と同じだった。小凛は何か言いたげだが、仙三郎は話を続ける。
「どうせ、俺がどんな思いで必死にここまで来たかも分からないだろう。俺が何故、母さんと結婚したか。当時、勤めていた会社を辞めて生まれ育ったこの町で全ての貯金を投げ打って、かつての同級生たちがボランティアになってくれてなけなしの支援をしてくれたおかげで市議会選挙に出て、ギリギリのところで勝利して晴れて市議会議員になった。全てはこの町を良くしようと思っていたからだ。でも、この町を良くするためにはコネもカネもなかった俺如きでは何も出来ないとすぐに悟った。そんな失意の時、手を差し伸べてくれたのは、県議会のドン、お前の偉大なる祖父だった。俺は最初、恐ろしい人だと思っていたが箱入り娘がいて溺愛していると知って人間味のある人だと知った。だから、爺さんに近づく為にまず、母さんに一か八か近付いてみた。一歩間違えばヤクザどもに簀巻きにされて埋められるかもしれないのに。だが、母さんは驚くほど純粋な人で、俺の熱意をあっさりと理解してくれた。爺さんと初めて会った時、最初は今のこいつみたいにバカにされて殴られて、出ていけと言われた。でも、母さんが、仙三郎さん以外と一緒になるなら自殺するなんて騒いで、爺さんも認めざるを得なくなった。そして、爺さんの後を継いで県議会議員として全ての力、そして育ち盛りのお前を支える力を手に入れたのだ」
そして小凛に手を伸ばすも彼女はそれを振り払った。
「パパのバカ!」
「何を言い出すか、このバカ娘!」
「ママが死んだ時、葬式にも1日しか出なかったよね? それも選挙と被ってたっけ。一瞬来たと思ったら、弔辞で必死に看病したアピールとママがこの町を県を良くしようとしていたとか泣きながらそんなことばっかり。どうせ、あれって選挙の為のパフォーマンスなんでしょ。看病もロクにせずに偉い人たちとキャバクラで悪い金儲けの話ばっかり。知ってるでしょ? 父さんはこの町の若い人たちからは老害のラスボスみたいに思われてるんだよ。皿木幹事長と何も変わらないって。ママはずっとそれを気にかけていたのよ。中学の時にフラれたって話したけど、相手の人のお父さんはパパに要求されたお金を渡さなかったからとかいう理由で公共事業から締め出されたのよ。もし、パパがそんなふざけたことをしなかったらこりんは付き合えてたかもしれないのに。あの時からパパは尊敬できる人じゃなくなった。だから私がまともな議員になってまともな社会を作りたいって思ってたの!」
小凛が思いの丈を叫んだ。しかし、
「そんな下らない理由で議員になりたいとほざくようだからお前に地盤をやれんと言ってるのだ。政治家になれる人間はより良いことの為に小さな悪事を働かねばならない。母さんはその点を理解していたからこそ、我慢してくれてたんだ。お前の好きだった奴の父親ってのは、遠方から来た地縁のない業者でな。そんな奴がこの町の風土や土地勘・ルールも分からないまま仕事できるわけがないだろ? だから俺は老婆心から市役所の上役や地元業者との人脈や安定した収支を支えてやるプランを提示してやった。なのに、向こうから断って逆恨みしただけのことだ。お前はバカだから何も分かっておらん」
娘を否定し、自分を頑なに信じる父。彼は小凛に言った。
「だから世の中をナメた小説家如きと寝て、身籠ったりするんだ!」
仙三郎は変わらない。その様子を見て諦めた小凛は、
「そんなことばっかり言う時点でパパはもう退場するべき人なのよ。未来は、お腹の中のこの子が地に足を立って歩く社会が来てくれるはず」
「まさかバカ娘……!」
小凛が仙三郎に言い放つ。
「この子を世に放って、パパの名声も無理やり落とす。娘が有名小説家と反対を押し切って結婚。そして、皿木幹事長の悪口をマスメディアで言いまくる。そうすると、立場を失ったパパは県議会議員としての、この町のラスボスとしての立場を、そしてコネや名声とか力を失って隠居老人になるしかないよね。娘を認めず利権あさりばかりする悪徳政治家の父親には良い復讐でしょ、これって」
それを聞いて仙三郎が沈黙する。しばらく静寂が客間を支配した後、彼が立ち上がった。
「そうか。これまで手塩にかけて育ててやったが、もう許せん。お前がそのつもりなら、腹を蹴ってガキを流産させてやる!!」
彼が足を振り上げた時、小凛は体を屈めて腹を、そしてその中にいる胎児を守る体勢になった。それを見て俺は立ち上がり叫んだ。
「ま、待ってくれ! 望むだけ払うから……」
仙三郎は足を下げ、俺に向き直る。もう俺は怖くなかった。それは向こうも感じたのだろう。ふっと笑う。
「いいだろう。その代わり、吐いた唾を飲み込むなよ」
*
あの修羅場の後、再び三人で落ち着いて話をした。
「お前ら、子どもが大学を出るまでの金はどれだけかかるか知ってるのか?」
仙三郎が俺たちに尋ねた。
「確か平均で約三千万円だったような――」
「そうだ。ちょっと待っていろ」
そう言うと仙三郎は客間を出た。そして、しばらくするとジュラルミンケースを3つ持ってきた。
「これが三千万だ。今度の衆院選の為に預かっていてな。せっかくだ、持ってみろ」
俺は持ち上げてみた。ずっしりとした重みを感じた後、小凛にもそれを渡すと驚いた表情を見せた。
「こりんを育てる為にパパはこんなに使ったの?」
彼女が思わず父親に尋ねる。
「いや、もうちょっとかかったぞ。しかし、まぁ、それくらいだ。ちなみにこの重さはあるものと同じだ。分かるか?」
俺と小凛は首を傾げる。しばらくして仙三郎が口を開いた。
「赤ちゃんの平均体重だ。まったく……。で、若造。中絶するならこれだけ払え。しかし、なかなか酷だから慈悲をやろう。俺が生きているうちに、小説家として稼いだ分から何割かを少しずつ払えば期間は問わない。もし返済が滞ればその時はヤクザを使って貴様を拉致して、この手で性器を切り落としてやる」
そのセリフに小凛はドン引きし、俺も一瞬恐怖が背筋を走ったが、彼はそんな俺たちに続ける。
「そして、産む場合だ。お前は小説家としてそれなりに顔は知れているだろうから選挙には有利だ。結婚するなら、大学卒業後しばらく俺のツテで皿木先生の派閥で腰巾着の県選出の参院議員の先生のもとで秘書として働け。奴は官僚あがりで図に乗ってるからなぁ、秘書は大変だぞ。パワハラも残業もキツいし、お茶くみや車の運転といった雑務から表で出来ない取引や交渉、裏帳簿作りも何でも我慢してやらなければならない。そして、お前が一人前になったと俺が認めたら地盤を受け継ぎ、この町を県を、そして産まれてくる我が子を命を賭けて人生を投げ打って守り抜け。その頃には俺ももう先が長くないだろう」
それを聞いて俺は二言なく頷いた。
「命は手段に過ぎないです。その限りある命を賭けて何を為したかで人生の価値は決まる。私は為すべきことを為すつもりです」
仙三郎はそれに対して返答せず、小凛の方を向く。
「さっきの腹を蹴るぞなんてのはただの演技だ。若造にまともな心があれば要求を呑むと思ったからな、試してみただけだ。それに政治家になりたいってのだが、子育てしてる主婦ってのは一定の支持層を集める。こいつがもし議員になってしばらくして我が子が大きくなったら、市議会選でも出ても俺は別に止めんぞ。自明党の看板があればこのへんの町内会はみんなお前に入れるだろう。後はお前が選挙戦でどれくらい持ちこたえるかだ」
「さっきはちょっとびっくりしたけど、よくよく考えて見れば、パパは昔からこりんに暴力を振るったことはないよね。議員になりたいってのも、やっぱもう少し考えてみるよ」
親子二人、笑顔を取り戻した。それを見て俺は、
「なんか俺がバカで騙されたみたいになってますけど、演技だとは分かった上で乗っかったんですよ。俺を殴った時とあの時でなんとなく違う気がしてましたよ。親父さんとこうして話をしてみたかったら、要求を呑むしかないって分かってましたから」
「ヨシオカはバカでしょ? どうせそんなの後付けのはったりに決まってるよ」
そうしてしばらく話をして、夜が近づいてきた。
「返答は中絶可能期間の最後まで待ってやる。それまで二人でよく考えろ。子どもの未来だけではない。お前たちそれぞれの人生の未来もかかっている」
「えぇ」
「こりんもよく考えるよ」
そして仙三郎は俺に言う。
「それと若造、俺との約束は口約束で構わん」
「もしもの心配はしてないんですか?」
俺の言葉を聞いて、彼はまたも「分かってないな」とでも言いたげな顔をして、
「賄賂とかって証拠になるから領収書が出ないだろ? でもそれだけが理由ではない。お互いにつけいりどころを作って深い信頼関係を築く為に敢えて形にしないんだ」
「大人は深いですね」
玄関先での短い挨拶の後、駅で1時間ほど待った後、単線の鈍行列車で次の乗換駅まで向かった。帰りの列車で小凛と俺は会話をせず、お互いにただスマホをいじって沈黙していた。その気まずい空気がしばらく続いた後、耐えきれなくなって俺はぼそっと呟いた。
「お前、お父さんにそっくりだよ」
それを聞いて小凛はスマホから目を離さず、
「バカ」
そう言うところが似てるんだ。そう思いながら空を見上げると、もう暗くなっていた。
「そうだ。そういえば、ニコライ・フュードロフっていう思想家が昔、いてな。人間の進化と死者との科学的再会、つまり意思疎通ってのを考えていたんだが、次の小説のネタになるかもしれない。どう思う?」
「分からない」
さて、次はこちらの家族に会わなければならないところだが、あの両親に手のひら返しで罵倒されるのが怖い。昔の嫌なことを思い出したくない。もう会わない方がいいだろうか。あいつらだったら、そんなことの為にわざわざ金をかけてこんなド田舎まで帰ってきたのか? などと言いかねない。
せめて、両親がダメなら――自分を知り尽くした敵に相談をする方がマシだ。
*
「わざわざ健康食のレストランなんかに田舎から呼び出してねぇ……。あんた、何の用事? 横に可愛い女の子がいるあたり大方の予想はつくんだけど」
俺にしかめ面でそういった後、姉さんは不細工な顔で作り笑いを浮かべ小凛にぺこりと頭を下げる。それを見て、緊張気味に小凛も会釈した。
「いや、姉さん。思っている以上に大した用はない。顔が見たかっただけだよ」
「弟に彼女ができて嫉妬している顔を?」
姉は冗談のつもりだろうが、こちらは笑うに笑えない。
「いや、違う。用件は――」
一瞬、口ごもるが、俺が発した言葉は俺自身も予想していなかったものだった。
「借金の申し入れだ」
小凛はそれを聞いて唖然としているが、姉さんは眉一つ動かさない。
「いくら?」
その問いに思わずぎくっとする。答えまでは、何故金が必要なのかという説明まで頭が回らなかった。しかし、俺には姉さんに貸しがある。大きく出ても罰は当たるまい。
「三千万円」
それを聞いて、姉さんはふーんと言って、興味がなさそうだ。
「もしかして、貸してくれると本気で思ったわけ? 紛いなりにも十数年一つ屋根の下で暮らした相手を分かって言ってるの?」
俺があぁと呟くなり、
「本当に昔からバカね。どんな理由があろうと感情論が通じない、何があろうと合理性で全てを判断する人間だってこと、あれだけやられても分からないって。もう帰っていい?」
ふんと鼻で笑って立ち上がろうとしたが、俺は長年の恨みを返すことにした。
「いやぁ、本当に正論だよ。じゃあ、こちらも正論を言わせてもらおうか。姉弟・家族云々に関係なくビジネスの前提として、借りは形を変えてでも返すもんだろ。そんなことも分からねえのか? 田舎の三流ビジネスマン」
俺は睨みつける。金の恨みは恐ろしい。印税を大部分を恨み骨髄な家族の、借金返済の為に否応なしに使ってしまったことは、殺しても殺したりないくらい恨めしい。
しかし、姉さんは、
「何か勘違いしていると思うんだけど、こっちはあなたと何かビジネスをしたわけではないと認識しているし、第一あれはあなたが善意で勝手にくれるといったものをこちらは必死で遠慮したけどあなたの熱意に負けて渋々ながら受け取ったものとして捉えているの。借金でもなんでもなく贈呈、プレゼントでしょ。借金は頼み込んで貸してもらうものだから返さなければならないけど、プレゼントは受け取った側の意思で返礼は自由。例えば、小説家として好きでもない相手から勝手に願っても無いのに手紙が来たら返す? 返さないでしょ」
やはりこう来ると思ってた。どうしようもない理屈をこねて返そうとはしないはずだ。というか、こちらは相手に三千万円を返せる能力がないと踏んでいる。あんなド田舎の工場でいくら潤ってもそんなの無理だ。だが、大人になった俺は絶対に引き下がるつもりはない。
「俺はまごころをもって返す。どんな相手でもファンを大切にするのが偉大なる小説家というものだからな」
俺は続ける。
「それが俺だ。あんたの正論も常識も通じない相手だということを踏まえて考えてみろ。俺があの時はそのつもりでも、後から言いがかりをつけてわーわー喚くことくらい予想・対処できないのか? それにこちらは知名度ってのがあるからSNSやマスメディアで一つくらい炎上ネタを作ることは簡単なんだ。田舎の三流ビジネスマンを潰せるくらい大したことないんだよ。世の中のバカってのは自分とはなんも関係ない奴がなんかいらんことしたって聞いたら、正義の味方面して匿名でみんなやってくるから悪くないの精神で、お祭り感覚で不満の吐け口にするもんなんだ。姉さんはビジネスマンにしては、先見の明が無くて相手を読むことができないな」
「あんたバカね。予測できなくても対処する必要がないもん自分本位に喚く奴ってのは、世の中のルールってのに従いたくないからから喚いたりするんでしょ。駄々っ子と同じ。だってそいつに勝てる可能性があれば裁判に訴えるなり警察に言うなりすればいいだけで、訴えて勝てないと最初から分かってたら、重箱の隅をつつくようないちゃもんをつけてゴネてゴネてゴネまくって無理を押し通そうとする。例えば、隣国と領土関連でもめることが時々あるよね。そういう時って絶対に歴史認識問題とかがセットになって出てくるでしょ。ある次元で勝てないなら、絶対に勝てる次元を持ち出して相手に「ごめんなさい」を無理やり言わす。その言葉尻を捉えて、自分の都合のいいように拡大解釈して国際社会や世論にアピールすると。あんたは、あれと同じことをしているわけ。だからその手のやつへの対処法ってのは、何もしない・無視・だんまり・逃走を決め込むことだけしかないの。火事やウイルスの大発生とかは行くとこまでいったら後は自然に引くから、それと分かって我慢勝負をすればいいだけ。出るとこ出てみなよ。こっちは何も怖くないもん」
やはり敵はさるもの。しかし、俺はふっと笑う。
「なに正論言ってるつもりになっちゃってるの? それに自分で酔っているようだったら、大人ぶってる中学二年生と変わりないな。俺の話を馬に念仏みたいな説教にすり替えんな。大作家さまが田舎の三流ビジネスマンに儲け話を持ってきたんだ、こっちは。三千万円が倍のリターンになるとしたらどうすんだ? 第一、何故わざわざあんなド田舎から今日、俺に会いに来たんだよ。なんか見返りがあると思って来たんだろ?」
「倍にできる根拠は?」
「借金返済だけじゃ足りないのか? まぁ、いい。賢い姉さんの文学的才能なら次の小説も売れることくらい分かると思うんだが」
姉さんはなかなか言うなとでも言いたげな表情である。昔は一方的にやられてばかりだったから大人になるとそのリターンが来るもんだ。姉さんは小凛の方を見る。すると、彼女は思わずびくっとする。いくら小凛でも姉さんよりははるかに外見的には目映えがいい。しかし、腐ってもビジネスマンの姉さんの貫禄に比べて、バカな女子大生の小凛はオーラで見劣りする。思わず腹を両手で押さえた小凛を姉さんは見逃さず、口を開いた。
「三千万って、そもそも何に使うつもりかしら? 酒に酔って美人局にでもあってヤクザ紛いの奴に弱みを握られて要求されたか、それとも――子ども一人育てるつもりかしら?」
バレた。もう詰みかもしれない。そう思った時、
「ゆっくり話でもしながら美味しいご飯を食べましょ。これ以上、平行線の言い合いをし続けたら妊婦さんの体とお腹の中の赤ちゃんに悪いから」
姉は予想外の返答をして俺たち二人と向き合った。
「姉さん――」
「やっぱりあんたのようなバカはお父さんの事業を継ごうとしなくて正解だった。昔っからお父さんは男が継げ、女は金持ちにあてがうって言ってたのを必死で説得した甲斐があったわ。大体、どういうことがあったのかは人としていや女として十二分に想像できるわ。その上で、子供の頃十数年間一緒に育った姉として私がしなければいけないことはただ一つ」
その瞬間、平手打ちが飛んできた。痛みよりも先に驚きを感じた。何故なら、初めてだったからだ、姉さんに暴力的手段を取らせたのは。今までなら言い返せないくらい説教をしてきたはずだ。
「反省しなさい」
そう言うと、小凛の方を向く。
「これで勘弁してもらおうかしら。今のあなたには同情するわ。でも、酷かもしれないけど、一つ言わしてもらうよ」
小凛は姉さんの目を見れないでいる。
「こんな奴と後先何も考えずにしたあなたにも非がある。環境のせいだとかバカのせいとか、運や他人のせいにだけできるもんじゃないわ。残念だけど、あなたはあまり賢くないようね」
小凛は黙っていた。
「でも、二人ともそれなりには責任ってのを感じてるのね。それは私には真似できないこと、よくやるよ。あんたからはいつもの臭いタバコのにおいがしないし、大好きなお酒も今日は頼んでない。小凛さん、あなたはお腹の子の為にカロリーの低い健康食を毎日、食べていることくらいすぐ分かるよ。頬が少しこけてるもん」
姉は目の前のサラダに手をつけた。
「嬉しいよ」
俺は呟いた。
「初めて姉さんから認められたから」
姉はバカにしたように笑う。
「なに、昔から認めてるよ。そのバカみたいな発想力とか善岡敦志に憧れるとか普通じゃ考えられない。いつか私とは違う次元で自分らしさを発揮するんじゃないかって思ってたらこれだから。私は私、あんたはあんたでも、自分にないものがお互いにある。それを認めれてこそそこに期待を賭けれてこそ大人ってもの。今までなんで厳しく言ってきたかっていうのは、将来への投資よ。あんたは最高の優良物件だったわ」
投資……。父さんみたいなことを言う。
「にしては、その投資はえげつなかったな、それに回収の仕方も。俺は生まれた時に、投資してくれなんて頼んでもいないぞ」
「もしかして今の自分があるのは自分ひとりの力だと思っているのかしら? あなたの実力は支えてくれる周囲と奇跡的な確率の運があったからこそ実ったもので、世の中には如何に才能があろうと不運な実情に潰される人なんてごまんといる。あなたが要求してる三千万はもう既にこっちは先払い済みなのよ。所詮、義務だから払ったに過ぎないんだろうけど、父さんや母さんは。あの人らは少なくとも感謝や返済を要求したことはないとはいえ、あんたにバカみたいな独り善がりにはなって欲しくないとは思ってたんじゃないかな」
その時、小凛が口を開いた。
「ねぇ、ヨシオカ。家族の為に使わされたお金をお姉さんに返せって言ってるの? それともこの子の為を思って言ってるの?」
唐突に何を言いやがる。
「どっちでもいいだろ」
俺は特に考えず言うと、
「ヨシオカもお姉さんどっちも本音で喋ったら負けとでも思ってるんじゃない? こりんには何となく分かるの」
何を言い出すのだこいつはと思ってたら、姉さんもまさかとでも言いたげな顔をしている。
「お金をかすめ取られたって話はヨシオカから何度も聞かされていたけど、今日お姉さんと初めてあってその裏に気付いた。お姉さん、あなたはヨシオカが家族を、自分を、田舎を嫌っていたっていうのをずっと分かっていたんですよね? それなのにヨシオカはバカだからそれらへの情を捨てきれない。そんなのが突然ちやほやされ出して自分の実力だけで来れたと勘違いして社会に出て、本当に大丈夫なのかって心配してた。だから、わざと汚い手を使って自分たちから離れさせようとしていたんじゃないですか?」
「はぁ? 小凛、意味が分からんぞ――」
しかし、俺を遮ってまだ話を続ける。
「そして、わざと手のひら返しと金のかすめ取りをやって最後の社会勉強をさせたと。地に足を立って本当の意味で自分の力で強くなれる人間にさせるために。それに加えて、ヨシオカに縁を切るよう仕向けて田舎の事業の負債がかからないようにってとこまで考えてた。その為の必要経費として、彼から妥当な分の費用をいただいたって論理ですよね? 所詮、印税程度で簡単に借金なんて消えないでしょう」
こいつはバカか? そう思って必死で喋る小凛を睨んだが、一方の姉さんは黙りこくっていた。
しばらくの沈黙の後に、はぁとため息をついて姉さんが口を開く。
「あなたは少なくとも弟よりかは賢いわね。ちょっとくらいは当たってるよ。でもね、それを弟がいないところで言って欲しかったわ」
強がってるだけだ。そう思ったが、どこか遠い目をしている。
「子どもの頃だったかな。私は漢字とか一瞬見たらすぐに覚えれたのに、あんたは青空、青空、青空……。ずっと書き続けて次の日になると全く忘れて母さんから雷を食らってたっけ? それで諦めて次の漢字に移って人間、人間、人間……」
そんなこともあったような気がしてきた。
「それでも弟は何かよく分からない凄い才能がある。芸術家肌だろうといつ頃からか気付いた。私よりも外見はいいから将来はモテるんだろうなっての思い始めた。そんなことは思ってても言うことじゃない。可愛い子どもには旅をさせるものよ。だから、父さんや母さんに不憫にされているあなたを私は優しくしようなんて思ったことはないの。それに――」
姉さんは自嘲気味に笑って続ける。
「もし、優しくしてシスコンにでもなったら、将来、私みたいな可愛くない女の子を好きになってお嫁さんを連れて来た時、私は見るに堪えないしあなたを紛いなりにもここまで育てた両親に顔向けできないわ」
俺は思わずふっと笑った。
「ありがとう。今まで厳しくしてくれて」
「どういたしましてと言うつもりはないよ。小凛ちゃんの指摘も全部が全部真に受けないでね。なんかいい人だって勘違いしてもらったら、これから話す商談でつけ込んでくるでしょ」
まぁ、いい。姉さんは人格が合理主義で出来た、論破厨で、理屈をこねまくる腹立たしい不細工だ。それは十数年の認識としてそう簡単には変わらない。
それを踏まえて、本来の本題へと話を切り替えることにした。
*
仙三郎とのやり取りや小凛や俺の近況や親父の事業の状況などについて話し合った末、姉は俺たちに言い放った。
「結論から言うと、三千万円は出そうと思えば出せる」
姉はそう切り出した。俺にははったりと見抜けたが、小凛の方は真剣に話を聞いている。
「どうしたら出していただけますか?」
彼女が姉さんに尋ねる。すると、
「私にその倍のリターンがあると確証を得たら出すわ。ところであなたのお父さんは自明党の皿木の有力な支援者だったって言ってたわね?」
小凛は頷く。
「ちなみに私と彼の実家がある港町は民共党の元財務大臣、岡野桂衆議院議員の地盤よ。この二人の利害対立を利用するの」
岡野桂。久しぶりに聞いた名前だ。自明党と共に日本の二大政党の一翼を担っている民共党の大物議員だ。
農家や水産業者、それらの組合などを主な票田とする保守的な自明党に対して、民共党は工場労働者、労働組合を票田とする左派政党だ。
岡野は日本の港街に次々と格安スーパーやショッピングモールを作り、安価な外国産鮮魚を流通させ、日本の漁業産業を壊滅させた天才経営者だ。それ故、彼の作った企業グループは日本のインフラストラクチャーとも言える状態となり、それに伴いそれを支える労働組合は日本最強とも呼ばれる存在となり、岡野はそれを背景に民共党で強い立ち位置を占めている。
思えば、町中にフランケンシュタインみたいな顔をした岡野のポスターが至る所に貼ってあって、父の会社も選挙の度にあいつに入れるよう社員に呼び掛けていた。
そうか、あいつから公共事業を回してもらっていたのか。
岡野は国会質問ではいつも、ことあるごとに大臣に罵詈雑言を浴びせ何に対しても批判ばかりし、選挙の時、地元に帰ってきても人の悪口しか言わず、なんの政策提案もしなかった。しかし、盤石な労組票により絶対に選挙に落ちることはない。
そんな奴も一度は総理大臣になりかけたことがあった。民共党が自明党から政権を奪取し、彼は資金力を活かして財務大臣になった。しかし、官僚の言いなりのまま不景気なのに増税を敢行し、本来国民に還元されるべき税金を自身のグループ企業の商品の輸入先となる周辺諸国に独断で国際支援金として献上し続けた為、民共党の首相候補選挙でボロ負けして、民共党は自明党へと政権を返上するに至った。しかし、当の岡野は自身の非を認めず、現政権の批判を繰り返し民共党の大御所として党首や幹事長にも顎で支持する始末だ。SNSで彼の名を検索すると、誹謗中傷の嵐ばかりだ。当の本人は逐一、それに反応して削除要請をするが、それと反比例するように誹謗中傷は増え続け、「売国奴」「民共党のガン」「自明党を最も助けている男」「お前が言うな」「労働貴族」などと酷い有様である。
それを思い返した時、小凛の街の皿木幹事長と思わず対比した。
「あの人たちは金のことしか頭にないバカです」
小凛は本音を口にした。
「当たり前よ。だって、あの人たちが何故議員になれたか? 勿論、お金の力。でも、それだけじゃなくて皿木は親も衆院議員でただ一つ息子と違うのは国の構造改革を主張して党内で干されていたことくらい、一方の岡野の親は労働組合の専従でストライキを盾に腐った経営陣を追放して会社を乗っ取って発展させた町の有力者だったから、二人ともそのノウハウと鉄壁の後援会、地盤を受け継いだから負けるはずがないの。しかし、それを維持するためには膨大なお金が必要。だから、金という麻薬を利用する一方でその毒に侵されて、親の目指したようないい政治なんかしようとも思ってもないしそうする為の脳もなく、国民のことなんか頭の片隅にもない。ただ、政治という社会における価値の権威的配分を利用して無限に私腹を肥やして自分が偉いんだという立場を維持することだけを生き甲斐にしている」
やはり姉さんは賢い。
「だから、俺たちの育った錆びれた港町も、小凛の田んぼだらけの街も、あの二人が政界でどれだけ偉い立場になっても発展することはないわけだ。その方が都合いいからな、連中にとっては。街が発展してしまうとムダな公共事業を減らさざるを得なくなるし、発展した街に無党派層の学のある若い奴が転勤で次々とやって来てしまうと盤石の選挙区は脆くなる。それに主要な票田は街の発展など望んでいない。既得権益がなくなることを恐れてな」
俺が田舎を嫌ったのはそうした風土からだった。
小凛のように変えてやろうと思ったことも、姉さんのようにそこで生き抜いてやろうという気概も一切ない。どれだけ故郷が、日本が衰退しようと俺だけが加速し続けたかった。
「で、そのクズどもを利用して三千万をどう稼ぐか? 私の名義になっている不労所得のアパートと港湾地帯の駐車場と町中の自動販売機。これら全ての月収益は百万円前後ほど。これの名義を二人に移したら、税抜きで3000万なんか大体6・7年で分割払いできる。贅沢さえしなければね。でも、私は喫緊の課題に直面する為にはこの金製造機を皿木幹事長に近いあなたの地元の企業に高値で売却することですぐに何千万の金は用意できる」
思い切った姉の提案に俺は驚いた。
「あのアパートも父さんの会社の社員が住んでいるし、駐車場も社員が使うもんだろ。それに収入だって会社の補填費や岡野への裏献金に使っているはずだ。父さんに大目玉を食らうぞ……」
俺の懸念を聞いてもバカねぇとでも言いたげな顔をする姉さん。
「私はね、父さんが大切にしてる事業ももうそろそろ終わりが来るって公算を大分前に出したの。あんたがくれたお金は所詮、暫しの延命の為に過ぎない。だから最悪の結末が来る前に、私がどうなろうと最善の終わりを向かわせようと思うの。その為には道連れが必要。岡野元大臣ももう終わりが近づいている。小凛ちゃんのお父さんのツテで向こうの業界からこの錆びれた港町に若者でも大量植民してくれば。この町の労働者たちは排斥しようと考えはするだろうけどもう年取ってきていかんせん元気がない。それに、皿木幹事長の盾があるとならば簡単に手を出す覚悟ができないでしょう。それをきっかけに次々と誘致企業やUターン・Iターンがやってくれば鉄壁の労組票を上回って岡野は選挙に落ちて引退、そして地方議員も新参の自明党員が増えれば岡野王国は崩壊、少しは街の発展に向かうよう機運が変わるわ。DXできていない奴のショッピングモール帝国は衰退の時を迎えるでしょう。大きなビジネスチャンスよ。そして、岡野を倒した皿木幹事長は自明党で鬼の首を取ったとばかりに持ち上げられて党内で総理候補になるはず。全てが上手くいく算段よ」
なかなかよく考えたものだ。それを聞いて小凛はふむふむと頷いて、
「お姉さんの才覚には平伏するばかりです」
それを聞いて、
「私たちの使命は、いずれ生まれてくる命が健全にすくすくと育てる未来へ繋ぐこと。私は二人が今後、どのような決断を下すかについては強要しない。ただ忠告する義務があるわ」
真剣なまなざしで俺たち二人を見る姉さん。
「小凛さん、あなたはお体を大切にして。他ならぬ自分自身を犠牲にするようなことは絶対にやってはいけないよ。だって、自分を守れない人間にその身に宿る命を守ることはできないから。そして、あんた」
俺に指をさす姉さん。
「あんたは小凛さんを支える義務がある。父親というのは一瞬の交渉で簡単になれる。でも、父親であるには永続的な心と心の通い合いしかない。その責任と自らの行為への代償を自覚しなさい」
昔と同じように言い返せなくなり、口をつむごうとなる。だが、
「あぁ、けどよ、俺は無責任に酔っぱらった勢いで友達を孕ますような最悪のクズだ。そういう姉さんの正論も常識も通じない相手なんだよ。そのような命令口調で押し通せると思うな」
そして、思わず立ち上がり、机をバンと叩く。
「そんな俺が、あんたの忠告を契約として聞き入れてやるんだ。だから、まず前金をくれ!」
店中に静寂が包まれる。周りがこちらに注目している。
そんな中、小凛が思わず立ち上がり手洗いに向かおうとするが、ストレスを受けたのだろう。少し顔色が悪く思わずよろめく。それを見て俺は思わず彼女の肩を両手で優しく包んだ。
「バカ。必要ないよ」
小凛は振りほどいて席を後にした。残されたのは俺と姉さんだけだ。
「なに熱くなっちゃってるの?」
姉さんが言う。
「ずっと私より優位に立ちたいと思ってたんでしょ」
「あぁ、そうだ。俺は自分の個性の一面でそれを成し遂げたと思ってるから少しは満足しているさ――」
だが、俺がペラペラ喋ろうとするのを遮り、
「でも! その一方で対等に扱って欲しいっていうアンビバレントな思いもあったんでしょ。ずっとそれを言って欲しかった」
何だ、分かってるたのか。俺だけがただ無理解だと思っていただけだった。
「そうだよ。でも、優位性はもしかして叶えれる次元があっても、そんなことでは人の心は変えられないと思ってた。ましてや姉さんのような人は。だからずっと面等向かっては言えなかった」
「人に変わることを期待するだけムダよ。そう思うなら自分から変わらないと」
またそんな話かと思った時、
「でも、今日、あなたと小凛ちゃんと話してみて、私はあなたとその契約を結んでみたいと思った。偉大なる小説家ヨシオカアツシの未来とその紡ぐ物語を信じてみる」
小凛が戻ってきた。
「目に涙が浮かんでるけど何かあったの?」
「ゴミが入っただけ」
「バカねぇ。もうそろそろ意地っ張りを止めなよ」
三人で笑みを浮かべた。
*
「騙されたと思って例の件は頼むよ」
「前金は有効に使うことね。取り合えず、今のアパートを解約して、2LDKの部屋を探してみること。そしたら連絡頂戴。名義人くらいにはなってあげるよ。契約だからね」
あの錆びれた港町に帰る為に列車に乗り込んだ姉さんの背中にそう投げかけて1か月半。あれからは大変な日々だった。慣れない同棲生活、家事の住み分け、プライベートスペースを巡る諍い、些細なことからくる体調不良、互いにストレスを感じることも多く、ここのところの俺の執筆の進捗状況はあまり良いものとは言えなかった。
そんな中、小凛の腹はどんどん膨らんできた。でも、時々、仙三郎や姉さんと電話で話をしたり、姉さんが提供してくれている資金のおかげでなんとか日々を生きている。
日当たりの良いリビング。俺はスマホで検索エンジンを出した。「妊娠5か月」、「妊娠 ストレス」、「妊婦 食事 作り方」、「妊娠 彼氏 家事」、過去の検索履歴が出てくるがどれも似たようなものだ。
「おはよう……」
眠たげな小凛が起きて来た。
「取り敢えず和え物とふりかけご飯、味噌汁を用意したぞ」
リビングのテレビをつけて、机で二人面等向かい合う。いただきますと二人して呟き、美味しくもない自炊料理を口にする。普段は笑顔なのだが、今日ばかりはそうはいかない。
何故なら、
「ついにこの日を迎えてしまったな」
「私の決断は変わらない」
「あぁ、俺もだ。奇しくも俺の22歳の誕生日にやらねばならんとはな」
産婦人科と市役所に行く手筈は早起きして整いておいてある。もう俺は一生をかけた重い決断に妥協はない。小凛からもその意志をくみ取った。
しばらくしてご飯を食べ終わり、俺が二人の食器を洗っている間に小凛の方はでかける準備が出来たようだ。
「行こう」
「うん。あ、ちょっと待って」
小凛が何やらごそごそして何かを取り出した。
「これ誕生日プレゼント」
*
「では、ご出産をされるという方向で間違いありませんね」
「はい」
「もうすぐ妊娠22週ということで決断の変更ができないことも理解されましたか」
「あぁ」
医師とのやり取りは淡々としていたが、どこか最後は祝福を孕んだ笑みのように感じた。一連の診断を終え、病室を出ようとした時、
「彼氏様も初めてお会いしたころより大人になったようにお見受けします。これから出産まで、そしてその後の子育ても大変かと思いますが若い活力を活かして頑張っていただくけることを祈ってします」
バカにされていると思ってあまりこの医師と顔を合わせたくなかったけど、次からは小凛と一緒に診察に行って面等向かって話をしようという気になった。
医師の語りに対して俺は反応することなく、問いを投げかけた。
「そろそろ性別が分かる頃合いだろう。どっちだ?」
するとエコー写真を複数枚取り出し、暫らく沈黙した後、
「複数枚拝見したところ、男性器が見受けられないので女児である可能性が高いかと」
小凛はそれを聞いてふふっと笑った。
「ヨシオカみたいな女の子が出てくるってパパに言ったら大笑いされるだろうね」
「また、バカから始まる説教だろう。そんなことより前に、用事はさっさと済ませてしまおう」
会計を終えて病院を出るなり、俺たちは市役所を目指して足を踏み出した。どことなく緊張からか足早になっていることは実感できる。
市役所についたが、手際が悪く市民課は混雑している。その待ち時間、小凛とちょっと前に話したことを思い出していた。
「ねぇ、男の子か女の子どっちがよかった?」
「女の子でよかった。男の子で俺のクローンコピーみたいな奴が生まれてきたら嫌だ」
「どんな子どもが生まれてきても親は育てるもんでしょ」
「そうだな。ところでそういう小凛はどっちがいいんだよ?」
そう尋ねるなり、クスっと笑い、
「男の子。ヨシオカに似たちょっとおバカさんな子だと、こりんはお母さんとして育て甲斐があるもん」
よく分からん。ただ、その時にお互いの意向は確認し合った。その時、ピンポーンという電子音が鳴り、俺たちは呼び出された。
「婚姻届の御提出ということでお伺いしました」
「あぁ、これを」
俺たちの住所とお互いの署名と捺印がされたそれをすっと差し出した。しばらく窓口の役人は書類を確認すると、コピーと取りに行って戻って来るなり、
「受理いたしました。お二人はこの瞬間より正式な婚姻関係となります。おめでとうございます。また、奥様は妊娠されていると言うこともあり、市の妊産婦育児相談など公的サービスを存分にご活用されることをお勧めします」
俺たちは晴れて夫婦になり、一生をかけて将来自分たちが紡いだ命を育てていくと決めた。これからどうなるかは分からないが、人生で最も重い決断を二人でした末だった。
「なぁ、小凛」
市役所からの帰り道、思わず俺は上機嫌な妻に尋ねる。
「なぁに? バカ旦那」
いちいち語彙の頭にバカをつけるのは、腹立たしいが、それも含めて受け入れなくてはならないだろう、一生。
「お前は怖くないのか? これからのこととか」
それを聞いてフンと鼻で笑う小凛。
「世の中に怖くないものなんてない」
そうかと呟いて巨大なビルディングの前で立ち止まる。
「そういや、妊娠してから初めてあなたと面等向かせて喋ったのってこのホテルの喫茶店だったよね」
忘れもしない。田舎からこっちに越してきた時、街のシンボルだったこのホテルで一回くらい食事をしたいと思いながら4年生にもなってあのような形で来るとは夢にも思っていなかった。
「そうだったな。一度目は悲劇として訪れたが、次は喜劇として訪れよう」
それを聞いてまたバカと呟く。
「まどろっこしく言っちゃって。ここで結婚式したいんでしょ」
「あぁ、小凛はどう思う?」
するとどこかの大統領を意識して左手薬指を立てる。そこには小凛の誕生日に買ってあげた指輪がきらりと開く。
「イエス、ウィー、キャン!」
不覚にも黒歴史を思い出してしまい、思わず笑いをこらえられなくなったが、俺はその薬指に先ほど小凛からもらった指輪をはめた自身の左手薬指を絡めた。
「決まりだ」
*
「偉大なる新郎新婦のお二人を祝してカンパーイ!」
部長の挨拶に続き、会への参加者たちは一斉にカンパーイと叫んだ。
昼間にチャペルで親族とサークルの部員で式を行った。文芸サークルの友人にピアノが得意な奴がいたから、オルガニストを雇う金が浮いたのと、讃美歌隊も部員たちがサクラをやってくれたおかげでこの面も費用が浮いた。
ハゲ頭の外国人牧師の式の開会の宣言と共に、メンデルスゾーンの結婚行進曲が流れ、参列者が一斉起立する。そして、白い燕尾服を着た俺が式場に堂々と入ってゆき祭壇の右側で止まるとそこで新婦を待った。しばらく間を置いた後、同じく白色のドレスで身重の体を包んだ小凛が仙三郎と共に歩いてきた。仙三郎は娘から離れ際、俺に向かってふっと笑った。残念ながら、俺にはそれがどういう意図かは分かりかねたが。
そして、牧師に促される形で「Komm, SUSSER Tod」を一斉に参列者たちが歌った。
この曲は、新世紀エヴァンゲリオンの旧劇場版「AIR・まごころをこめて」において、主人公と共にロボットに乗って戦い、彼と共に傷つけ合いながらも共に生きていくことになるツンデレ少女が残酷な戦いにおいて無残な姿に成り果て、主人公が世界の破滅を望むシーンにおいて流れていたものであり、思わずそのシーンを反芻した。その「主よ、人の望みの喜びよ」の斉唱が終了するや、牧師が聖書の一節のそれらしき祝詞を述べ、それが終わるや片言の日本語で俺たち二人に問うた。
「アツシ、汝は小凛を妻とし、健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、妻を愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
「誓います」
「小凛、汝はアツシを夫とし、健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、夫を愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
「誓います」
俺たち二人は間髪を入れずに答えた。その後、改めて互いの指輪を好感した後、運命の刻がやってきた。
「アツシ、小凛のベールを上げて誓いのキスを。さすれば結婚は成立し、神は二人を認めて下さる」
俺は促されるままに、小凛のベールを挙げるとそこには緊張の色が浮かんでいた。それは俺も変わらない。
だが、注射を打つのと同じだ。面倒事はさっさと終わらせる。
そっと0.1秒間、俺と小凛はまぶたを閉じて唇を重ね合わせた。まったくもって熱も冷たさも感じない味気ないものだったが、その瞬間にスタンディングオベーションが起こった。
思わず、賛美隊の部員たちを見ると皆が笑顔で手を叩いている。仙三郎に目を向けるとやはりというかバカめと言いたげな調子でにやりと笑みを浮かべている。そして、姉さんはというと周りの熱狂など興味がないかのようにただ居眠りをしていた。
*
その後、新郎新婦とその家族だけで披露宴を行った。
「ただいまご紹介にあずかりました、新婦の父、田中仙三郎でございます。皆様、本日はお忙しい中、お越しいただき、誠にありがとうございます。かくも盛大にご臨席いただきましたおかげで、アツシくん、小凛の結婚披露宴を、ここにつつがなくとり行うことができました。また、本日のご媒酌の労をおとりいただきました文芸会の部員の皆様には、格別のご芳志を賜りしたこと。この場をお借りして、衷心より感謝申し上げます。母を早くに喪った小凛の幼き頃から、愛すべき我が娘として慈しんで参りました私の目には、真っ白なウエディングドレス姿が非常に眩しく映ります。我が家にはこの小凛しかおりませんのと、田舎暮らしに加えて、我が家には女の子の遊び道具しかございません。たまに東京に出て男の子の好きそうな玩具を見て買って買ってと駄々をこねられた際には思わず買ってあげてしまったものです。今になって思い返してみれば、娘はあたりが暗くなるまで元気に学び遊び回っておりました。そして朝になると、決まって飛びつく遊びがありました。小さい頃は、お姫様ごっこをよくしたもので、あの時からドレスで着飾った小凛は変わりません。今日という素晴らしい日を迎え、白いウェディングドレスに身を包んだ小凛は正真正銘のお姫様でございます。アツシくんという立派な王子様に手を引かれた様子は、幸せそのものと言えるでしょう。お伽噺であれば、ここで幕が下がりハッピーエンドとなりますが、現実の物語は、ここから始まります。毎日が順風満帆であることを祈らずにはおられませんが、そう甘くはありません。しっかり手と手を携えて、どんな難関も乗り越えていただきたい。これが年を取った父として義父として若い二人に強く願うことです。責任感が強く、しっかりした信念をお持ちのアツシくんであれば、安心して小凛をお任せできます。アツシくん、そしてアツシくんのご家族の皆様、小凛をどうぞよろしくお願いいたします。至らぬ点がございましたらご遠慮なく教えお導きください。また、皆様にも、今までと変わらぬお引き立てをいただけますよう、よろしくお願いいたします。ご臨席のみなさま、本日はまことにありがとうございました。ご高配に改めて感謝申し上げて、私のご挨拶とさせていただきます」
紋付き袴姿の田中仙三郎が普段の傲慢なイメージを捨て、縮こまってまるで選挙の演説かのようにこれでもかというくらいのスピーチを長々と行った。会場からは感動の涙を流す者も現れ、盛大な拍手が起こり、仙三郎は頭を深々と下げた。
そして、次は姉さんの番だ。俺の両親は出来ちゃった婚ということを恥ずべきことだと考えているようで、姉さんが説得してくれたおかげで今回の結婚も小凛のことも認めてくれた。それと、民共党の岡野元大臣と関係がある以上、自明党の皿木幹事長の選挙参謀である仙三郎とは微妙な関係を取ると本人に対しても言い切った。仙三郎は姉さんとコネがあるから、笑顔で父の宣言をかわして場の雰囲気を壊さないように推し量った。先の演説といい、流石は地方のドンとしての度量のある政治家だ。
そんなこんなで、今回は俺から姉さんにスピーチをお願いした。すんなりと受けてくれたもんだから、どんなことを喋るか見ものだ。
「ご紹介預かりました新郎の姉でございます。この度は十数年の付き合いの弟からスピーチを依頼された次第ですので、この場を借りて僭越ながら我が家を代表して姉として祝意を述べさせていただこうかと考えています。愛すべき弟、新郎ヨシオカアツシと新婦小凛さん、そして新たに生まれてくる命、えっと名前は何て言うんだっけ?」
覚えとけよ、それくらい。わざとだろ、これ。出来ちゃった婚を茶化す為の。俺はもう既に娘の名前は小凛と話し合って決めていた。
「淳詩だ」
姉ははっと思い出したかのような表情をするが、わざとだろう。
「そして、淳詩ちゃんがめでたい日を無事に迎えれたこと、誠におめでとうございます。結婚式という場は、新郎新婦を誉め上げるものだと聞いておりますので、私も慣例に従い、私から見た弟と小凛さんの素晴らしい点をお伝えしたいと思います」
おや、どのようなことを述べるのだろうか。そう思った時、
「弟はたとえ相手が神であっても渡り合えるだけの素晴らしい想像力・信じるものの為に戦う覚悟を持っております。その根拠に、彼は昔から宇宙人の存在を確信しております」
会場からどっと笑いが起こる。それに関しては否定しないが、笑いを取る目的で言ったのは間違いないだろう。
「よく子どもの頃に言い合いをしたものです。私が宇宙人はいないと言えば、絶対にいると言って聞かなかったものです。そして、大学生になり宇宙人と遭遇したと言い、その体験をもとにした小説を発表するや、新人賞を取り今や世間を賑わす大作家となりました。彼にとって神すらも敵ではないという姿勢が今の自己形成に役立ったのでしょう。恐らくこれからも、色んなことがある中でそれらは彼の助けになるはずです。この私は今ではほんの少しだけ宇宙人はいるんじゃないかと思ったりしていますが、それは弟の影響によるものです」
やはり経営者というだけあってまるでプレゼンを聞かされている感覚だ。
「では、次に小凛さんの素晴らしい点について話させていただこうかと思います」
小凛と仙三郎を始めとする田中家の視線が姉さんに注がれる。
「それは、とても賢いことです。何故なら、今申し上げましたような弟という神すらも敵に回せる人間と恋に落ちるなど並みの頭の人間ではできません。私では絶対に成し遂げられない偉業です。私は弟が小凛さんと恋に落ちてくれたことを、小凛さんが弟と恋に落ちてくれたことを大変誇らしく思います」
いや、バカだろ。こうやってロジックをひっくり返すのも姉さんらしい。
「拙い話になってしまいましたが、これで私の挨拶とさせていただきます。お二人の末永い幸せを、我家一同を代表してお祈りいたします」
姉さんがぺこりと浅く頭を下げると再び拍手の渦が起こった。
それからしばらく相手側の家族や長らく話をしていなかった親族と話をしながら、時間を潰していた。姉さんと仙三郎は悪そうな笑みを浮かべながら「商談」をしていた。そして、プレゼントと称してアタッシュケースを手渡す瞬間を見た時、それが何であるか悟った。
「本当に汚い人たちね」
小凛がぼそっと呟いた。だが、
「俺たちと違う常識で動いて、異なる正義感を持っているだけだ」
相手を認め合うことの大切さは必要だと俺は思った。
そろそろ太陽が沈み、夜が来る。こんな連中の披露宴は切り上げることにした。
「小凛、二次会に行くぞ」
「うん」
酔っぱらってふらふらしている一同と常に冷静な姉さんの隙を付き、外へと出た俺たちはエスカレーターに乗った。どんどん上昇すると共に階下を見下ろす景色の壮大さは素晴らしいものだ。
チンと音がすると共に、エスカレーターが開く。そして、その薄暗い廊下の先にある扉を二人で開く。
「「「ヨシオカ! 小凛! 結婚おめでとー! コノヤロー!」」」
クラッカーが勢いよく弾け飛び、歓喜の声で俺たち二人をみんなが迎えてくれた。
「偉大なる新郎新婦のお二人を祝してカンパーイ!」
部長の挨拶に続き、会への参加者たちは一斉にカンパーイと叫んだ。
やっぱりこれでなくっちゃ。そう思って二人で特等席に座った。
*
「それにしてもヨシオカと小凛ちゃんが付き合ってたって」
「お腹も大きくなったし生活大変でしょう」
「大丈夫、アツシが支えてくれるから」
「新郎、ちゃんとしろよ」
「あぁ、ちゃんとやってるさ。今日だけはゆっくり飲ませてもらうぞ」
「そういや、話変わるけど、あいつ海様商事から内定貰ったらしいぜ」
「へー、凄いな。まぁ、三年くらい務めてOL紹介されて結婚する時は、また招いてくれ」
「いやいや、そこまでは考えていないよ。もしかしたらヨシオカみたいに唐突に結婚するかもしれないし」
「俺から言えるアドバイスは、酔ってゴムなしでやるなということくらいだ」
皆でワイワイやってると昔が戻ってきたようだ。ふと喧騒から離れて、星を見つめる。あの初めて小凛とことをやらかした時のあの星に言ってやりたい。俺は神をも敵に回して戦うことも厭わない天才小説家、このようにして幸せを手に入れたのだと。しかし、どれだけ探してもあの紅い星は見つからなかった。
ふと小凛の方を見ると、妊婦ということもあり酒ではなくオレンジジュースをゆったりと飲んでいる。また、仲間も気を使って喫煙をしていない。あいつとの例の件以前に一緒に話したことって何かあったか? 思わずふと疑問が過る。いや、記憶にないな。いや、飲んで忘れているだけかもしれない。取り敢えず思い出してみたくなって、ヘネシーVSOPを注いだロックグラスを口元へと運んだ。しかし、段々と意識が薄れていく……。
*
「ちょwwwお前www有名人じゃんwww もともと有名人だけどwwww」
教授と卒論指導で面等向かった時、ちょうど週刊誌に結婚のことをすっぱ抜かれた時期だった。隠し通せないと思った俺は「一般人女性と結婚したのは事実である」旨を説明したら瞬く間にツイッターはトレンド入りし、祝福と憎悪の声が大量に湧き出て来た。そのような有様で、自身のアカウントも阿鼻叫喚の祭り状態である。
「えぇ、先生。ネットでは賛否両論ではありますが、私たち夫婦は子供も授かっていますし、私たち自身のことは私たち自身で決めるべきことと考えています。妻もネットで叩かれているのを見て心を痛めています」
俺の言葉を聞いてふむふむと教授は頷いていた。
「そうだ、言ってなかったけど、俺もカミさんと結婚したのできちゃったからなんだわ。まぁ、年はお前よりもう少し上だったんだけどよぉ。最初の方は仕事も見つからんし、世間体は悪いし、せがれの世話もしなければならん。一瞬、自殺も考えたことあるんだぞ。でもな、この子供を世に送り出す為に俺は生きて来たんだって思ったら将来、せがれとも酒が飲みたいって思うようになったんだわ。んで今こうして生きてるわけだ」
フランクな口調で身振り手振りを交えて言う教授だが、話の内容は重い。
「はぁ、なるほど大変だったことでしょう」
「まぁ、人生は山あり谷あり、色々なことがあってそれを経験して人間は人間として自己のアイデンティティを形成するんだ。今、卒論大変だろうって思って身構えてたかもしれんが、少しは甘くしてやる。所詮4年間ドストエフスキーの研究をしてたって、俺らには敵わんのだから2万文字書いて基本設定さえ守ってたら卒論なんかその程度でいい。ガチでやる先生はそれが生き甲斐なんだよ、俺にはそんな趣味はない。あーゆー卒論指導は俺にいわせりゃマスターベーションと同じだ。こっちとしては卒論に関してできたらメールで送って来い、添削したとこだけ直しゃ通してやるから。その代わり約束しろ。なんか本書け」
ふざけたような口調だったが、最後だけは何か鬼気迫るものを感じた。すかさず、
「承知しました、必ず上梓致します」
この点について配慮がきく教授でゼミ選びを間違えないことは大切だ。さて、学校を出て小凛が待っている部屋に帰るか。
鍵を開けると彼女は電話していた。
「はい、お察しの通りこのような状況でして。また、妊娠の為、過度な通学や精神的負担は流産に繋がると医師の先生からもお聞きしまして、どうかご配慮と先生に実情をお伝えいただければ幸いに存じます。では、失礼いたします」
話しぶりを聞く限り学校の事務員で何でも相談室的なやつだろう。
「そっちはどうだ?」
小凛ははぁと呟き、
「先生は融通が利かないから、取り敢えずカウンセラーの人を通して行ってもらうことにしたの。それだと多分、いけるんじゃないかって思う。一応、こっちの要望としてはオンライン形式での参加にしてもらうつもりっていう風には伝えたわ」
気付いたら夏が明け、学生生活最後の学期が幕を開けていた。恐らく妊娠から出産までの平均日数を換算してみたがあと1か月あるかないかだろうと踏んでいた。正直な話、俺たちの心の中は期待と焦り・不安が交互に渦巻いている。
そう思いながらも今日もいつもと変わらず、大して上手くもない自炊の健康食をリビングで二人面等向かって頬張った。
「そうだ」
「何?」
「あの娘の胎動を聞かせてくれ」
いいよと手招きした彼女に導かれ、俺は小凛の大きな腹に右耳を当てる。どくんどくんと耳に響くその音を俺はしっかりと焼き付けた。
「俺たちは何があってもこの娘の為には絶対になにものにも負けない。人生にも……」
*
遂に、その時が来た。小凛が深夜、唐突に陣痛に襲われ、強烈な生理痛に苦しんだ。俺が急いでタクシーを手配し、病院に駆け込むとその場で分娩が決まった。俺は無痛分娩を勧めたが、小凛はそれを拒否した。子どもを産む痛みを体に刻み込んで、母になることの重みを知ると語った。俺も止めないことにした。
立ち合い室に俺は入らなかった。何故なら、苦しむ小凛の姿を見ていられなかったからだ。取り敢えず、家族である姉さんと仙三郎に電話をかけると、即刻向かうと言っていた。
恐らくお産はまだ終わらないだろう。第一分娩で分娩開始から子宮口全開大まで平均で10時間かかる。しかし、小凛は細身で背が比較華奢なので2日以上かかる可能性がある。俺はただ病院のロビーのソファに腰かけてただ俯いて姉さんと仙三郎が来るのを待ち続けた。
家で見た小凛の陣痛で苦しむ姿を何時間も直視できるもんじゃなかった。本当は、自分は父親になる資格などないんじゃないのか――そんなことを思って目から涙が出そうになったその時、
「こんなところで何をしてるの?」
姉さんの声だった。見下ろす姉さんの横には仙三郎が立っていた。
「立ち合い室で見守れ。何時間かかるかは分からないが、若造、痛みと戦う小凛から逃げるな。貴様は一人の命を授かる父なのだ」
二人に促されるままに重い腰を上げ、分娩室に入った。緊張しながら入ったが、必死に痛みと戦いながらも余裕感を演出し、気丈に振舞う小凛の姿が目に入ってきた。その姿を見て、俺は思わず目を瞑り祈る。神よ、どうか今から母になる小凛と産まれてくる我が娘淳詩の為に力を貸してくれ、と。
しかし、俺の祈りも虚しく、その後第一分娩は2日目に突入した。途中、姉さんや仙三郎は飯を食べに行くと言って何度か途中抜けたりしたが、恐らく商談だろう。俺は水一滴飲む気にすらなれなかった。膠着する第一分娩の最中、分娩台から血が飛び散っているのを見て仙三郎が口を開いた。
「医師は何をやっておる!」
まぁまぁ、と俺は宥めようとしたが、明らかに状況は尋常ならざると感じ、姉さんもそれを認めた。
「ナースを呼びましょ」
姉さんがボタンを押した。
すぐに立ち合い室にやってきたナースは、淡々と我々に話をしている。
「現在、見ての通り、難産という状態でして私どもも出産に向け、必死に取り組んでいる次第です――」
「それならば何故最初から帝王切開でやらなかった? 貴様ら、娘と孫娘にもしものことがあればただで済むと思うなよ。おい、分かったか」
「この通り全力で取り組んで――」
「おい! 必ず二人とも生きて帰せよ。はいも言えないのか、お前ら」
「私どもは……」
気迫全開の仙三郎相手にナースもたじたじである。仙三郎はもしものことの為に言質を取ろうとしているのではないか? そう思い、これ以上、ナースに負担を強いないためにも俺が割って入った。
「取り敢えず、何か事態の急変があれば産婦人科医の先生から私たちへ相談事を持ってきていただけますか?」
「かしこまりました」
引き続き、小凛の様子を眺めるが、明らかに気力を消耗している。神に抗った俺の罪なのか? だが小凛と淳詩には罪はない。
それからしばらくしても小凛の苦しみが引く様子が無い。どうしたものかと思ったその時、医師が立ち合い室に入ってきた。その瞬間、俺は尋ねる。
「先生! 小凛とお腹の中の娘は助かるんでしょうか?」
しかし、返答はあまりに残酷なものだった。
「現在、産科危機的出血の状態にあります。要するに出血多量の状態にありまして、必死で輸血を行い第二分娩へと段階を移らせていただきましたが、このままでは母体の危機があります。お子さまを優先されるかお母様の安全を保障するかの二択にありまして――」
この時、かの英雄ナポレオン・ボナパルトがマリア・ルイーズ妃の難産の際に、叫んだ言葉を咄嗟に思い出した。
「小凛の安全が優先だ! 母を救ってくれ! 子どもなんていつでも作れるんだ」
だが、医師は、
「現行の母胎保護法におきましてお母様と配偶者さまの同意の下、出産を注視することが出来ます。配偶者様の意見は把握致しましたが、お母様は分娩の続行を望まれております」
小凛は命を賭けて、淳詩を生もうとしているのか。この状況下では、どちらかの命を選択せねばならない。この決断は出産と結婚を決意した時よりも重いものだ。
俺は医師に要望した。
「小凛と話がしたいです」
*
「聞こえるか、小凛……。俺はお前に生きて欲しい、頼む。無責任だった俺の自戒を込めた、未来を望む願いだ」
立ち合い室で俺はマイク越しに苦しむ小凛へと語り掛けた。しかし、彼女は首を横に振る。すると、姉さんがマイクを俺から奪う。
「初めて会った時に言ったこと覚えてる? 自分の体を大切にしてって望んだはず。だって、あなたはこんなところで終わる人間ではないもの。アツシと未来を紡いでいけば可能性は無限大に広がっているのよ」
そう言い終えると姉さんは仙三郎にマイクを渡した。
「小凛。生まれてくる淳詩のことを考えてくれてるはずだ。だが、母無き子として育つ彼女の心痛はお前にも痛く分かるだろう。父として、母無くして娘を育てるというのはとても辛いことだった。それを若造に押し付けるのか? 今ならまだ替えがきく。子に替えがあっても、お前に替えはないのだ」
小凛は二人の問いに対して無反応だった。立ち合い室のナースから、暫らく安静が必要ですと言われ俺たち3人は沈黙を過ごすこととなった。
ガラスの向こう、命を救う為に必死になってる分娩室を隔てた立ち合い室で静寂を破ったのは俺だった。
「ここで小凛を、淳詩を殺すのであれば俺は神と運命を憎み、呪う。永遠に赦されなくてもいい。俺が許さない」
中学二年生の時に何気なく呟いた独り言を思い出したのだが、今は心からの本心だ。
「突然、何を――」
俺の隣の二人はもとより神を存在から信じない。もう、ここから先は俺の独壇場だ。
「お前たちは金が社会の全てを解決する特効薬だと言った。だが、その特効薬は今、何の役にも立っていないじゃないか!」
二人は何か言おうとしたが、俺は続ける。
「お前たちはその麻薬に取り憑かれただけに過ぎない。自らの欲望に忠実で無責任で、大切なものを失っても口先で誤魔化してなんとも思わないのだろう」
もう二人などでは止められない。
「与えるなら何故奪う? 奪うなら何故与える? それは人間こそが欲求を原動力として生きる悪魔というものであり神の対義概念を代弁する存在であるからだ。けど、俺はもとより生まれ落ちた時から悪魔になりたいともなろうとも願ったわけでもない。今は、ただ一人の人間として、一つの命を守り続けた小凛を救いたいだけだ。人間の可能性を信じて今、俺は神に宣戦を布告する! だから小凛。お前も今際の時に俺のわがままを聞いてくれ!」
自分でも何を言ってるか分からないが、この世の全てを司る見えざる大いなる存在と小凛に必死に訴えかけた。その狂気じみた様子に横の二人はもうかける言葉もないと言わんばかりにあきれ顔を浮かべてた。
「ついに壊れたのね」
「流石は人生経験の少ない若造小説家といったところか」
姉さんと仙三郎の嫌味を右耳から左耳へと聞き流し、ガラス越しに小凛を見つめ続けた。そして、願ってからしばらくして小凛が目を開けた。
「バカね……。全部聞こえてたよ」
苦し紛れに放った彼女の言葉を俺は聞き逃さなかった。
「おい、小凛――」
「こりんは……。淳詩を世に生み出す為に生まれてきたんだよ、きっと。そうだ、ここでパパがいるから遺言を一つ残そうと思う……。こりんは……今まで幸せだったことなんか一度もなかった。そして、自分にはそれを変えれる力なんて最初から無かった……」
そして、はぁはぁと息が荒くなる。
「このバカ娘……」
仙三郎は小さく呟く。
「でも、こんな私を……この世界に送り出してくれて、短い間だけど世話をしてくれて……。本当に感謝しているの。そして、アツシ」
「なんだ?」
「命は手段に過ぎない。その限りある命を賭けて何を為したかで人生の価値は決まる……。いつか、あなたが言った言葉よね?」
それを聞いて思い出した。ことあるごとに俺が口にする、有言不実行だった信念だ。小凛とのことがあった前夜の飲み会、最終面接、仙三郎との駆け引き――。様々な場面で言い放った言葉だ。
「お前はバカなんかじゃない。そんなこと俺が守るつもりで言ったとでも思ってるのか?」
「えぇ、でも今、その信念は人として、娘を想う母として貫き通すべきものだと思ってるの……。あなたがお腹を通して淳詩に触った時に伝わったあの感触。こりんには、結構ダイレクトにきてね。「生きたい」って思いが……。だから私が生まれてきた理由はこの娘を世に送り出す為だって気付いたの。それでこそ、こりんの人生は無価値なんかじゃないって信じたいの……」
そうだ。あの胎動は生まれたいという意思表示だ。母が最期に叶えられる娘の願いがそのようなものなど……。共に笑い、共に泣き、共に歩む人生を信じて疑わなかった俺は最初から天に見放されていたのだ。そんな俺を信じた小凛もまた、気丈に振舞いながらも自身の無価値観とも戦っていたのだ。
「小凛、すまなかったな……。俺のようなクズではお前の心の穴を埋めることが出来なかった。ただ不当に苦しみを与え、最後は死に追いやっただけだったな」
そして、小凛がお得意のバカねを言おうとする前に言い放つ。
「だが、これが俺からの最後の言葉だ。そんな俺はお前を愛していた。だから、その愛の証が生まれてくれることを心より祈る。そして、これからもこの娘を愛していくと約束しよう」
それに小凛は頷き、
「このバ……。お父さん、頼んだよ、淳詩を。母さんの犠牲と引き換えに未来を築いて……」
そして、聞き終えた俺はマイクを置き、ナースコールを呼ぶ。
「お呼びでしょうか?」
「妊婦と配偶者としての意思は合意した。第三分娩に移ってもらって構わない」
ナースが去ったその部屋で俺はガラス越しの小凛を見下ろした。どこか安心したような顔に俺は涙を流しながら無理やり笑顔を作り応えた。
そんな中、仙三郎はすっと立ち上がり部屋を後にする。それを見て、姉さんも立ち上がる。
「十字架を背負う覚悟は?」
姉さんの問いかけを俺は無視した。すると、ふっと笑い姉さんを身を翻して部屋を出て行った。
かくして、この立ち合い室はただ俺一人だけとなった。
*
それから難産は終わり、淳詩はこの世に生を受けた。だが、産道から彼女の頭が出て来たもうその頃に母は旅立ってしまっていた。
かくして父となった俺は医師の案内で霊安室へと赴くこととなり、その安らかな寝顔と相まみえることとなった。もう思い残すことはない。やつれた彼女の顔はそう言いたげだった。
「まだ一緒にやりたいことがあったのにな。最初はお前のことなど好きでもなんでもなかったのに、いつしか淳詩がすくすくと大きくなって腹が大きくなってくるうち、俺には2人守り抜かねばならぬものができたと思えた。だから、最期の約束は、命を賭けて守る。それで俺の人生を価値あるものにする」
まだ死後硬直は始まっていない。彼女の左薬指と自身の左薬指を重ね合わせ、命の抜け殻となった小凛にすがった。冷たく反応はないものだったが、それでも俺はお構いなしだ。もう彼女は戻ってこないし、この命の抜け殻もじきに灰になる。
だが、ふっと我に返り、くるりと身を翻し、霊安室を後にするとこにした。
それからナースの案内で新生児室へと向かっている。その足取りは緊張故か重いものでどことなく震えていた。そして、部屋のドアが開く。
こうも少子化の時代になんだかんだ言いながら子どもたちは生まれてきているじゃないか。そう思い、ベッドに乗せられ並べられた赤ちゃんたちを見て思う。
「こちらです」
そこには、毛布にくるまり、すやすやと気持ちのよさそうな顔をして寝ている我が娘の姿があった。
「淳詩……」
「元気な女の子ですよ」
その時、淳詩は起き出し、眠気眼を開いて俺を見据えるときゃっきゃと騒ぎだした。
「あの手術でお母様がご臨終されたことに御冥福をお祈りします、私どもといたしてもアツシさまの心中お察しいたします。あの……」
案内のナースが何か言いたげにしている。
「なんだ?」
「それと、あの分娩終了の際、私どもとしては最後にお母様と娘さんのお顔合わせをさせていただきました。娘さんが、自分の命に代えて生んでくれた母のお顔を忘れないようにと」
「そうか、こちらは頼んだ覚えがないがありがとう。いつかそれが何かの役に立つ日がくればいいな。ところで娘をだっこしたいんだけどいいか?」
「いえ、それは数日程しばしお待ちを。ただ指先でそっと触れるくらいならして頂いて構わないです」
「いや、写真くらいは?」
「フラッシュがなければ」
俺は淳詩の笑顔をカメラに何枚かおさめ、新生児室を後にした。そういえば、最後の最後まで小凛に黙っていた疑問が一つありふと思い出したが、それに関していつか問いが出るだろう。
果たして本当に俺の子なのか?
でも、そんなことはどうだっていいことだ。遺伝子上、どうであれ俺が大切に思った小凛の子どもであることには変わりない。
そんな中、ふと顔を挙げると姉さんが立っていた。
「今から忙しくなるよ」
*
それから、姉さんと仙三郎はやはりというべきか遺憾なく手腕を発揮し、素早く小凛の通夜を段取り良く用意した。
「ねぇ、今は寂しいでしょうけど、久しぶりに手をつけたら?」
姉さんが自分の眼前の空グラスにビールを注いできた。小凛と一緒に我慢してたから本当に何か月ぶりだろうか? 結婚式以来となる。
「では、少しいただこう」
口の奥を苦みと発泡感が突き抜ける。ぷはぁーと息をついて、姉さんに言う。
「こんな時に二人がいてくれて良かった。精神的なサポートもオプション付きなら、尚更良かったけど」
そして、煙草に火をつける。久しぶりのこの香り。やはりこれがなくては。
「贅沢は言いすぎるもんじゃないわ。私は少し手伝っただけ。仙三郎先生が全て手配してくれた。色々と電話しているのを聞いてると、どうやら小凛ちゃんのお葬式と告別式を生まれ育った田舎町でやる算段らしいね」
流石はあいつを男手一つで育てた父親だな。
「だから、葬式も運送がかかって3日後ってことか」
ふと仙三郎の方を見ると涙を流しながら電話をかけていた。そして、一しきり喋り終わり電話を切ると、先程までの泣き顔が嘘のようにふと真顔に戻り、再び電話を手に取り俺たちに喋りかけるような威圧的な口調へと戻った。
「なぁ、姉さんなら分かるだろ。何故あいつが、生きてる孫娘の顔を見守るよりも死んだ小凛の葬式にこれだけ勤しんでいるのか」
姉さんはやっぱりとでも言いたげな顔で、
「だってそういう人たちの一人なんだから。だから、良くも悪くもあなたは淳詩ちゃんの見守りとその他の整理だけしてくれたら後はどうにかしてくれるわ」
その時、葬儀会社のスタッフと思しき人物が姉さんに耳打ちをしてきた。それを聞いて姉さんはふと笑みを浮かべ、立ち上がる。
「じゃあ、忙しいからまたお葬式でね。あと、くれぐれも今日は飲み過ぎないように。いい?」
姉さんの心配は的中するだろう。俺は返答しなかった。ふと周囲を眺めまわすと、集まった良家の人々は俺たちをちらちらと伺いながら、何やらひそひそ話をしている。俺はため息をつき、ウイスキーの瓶を手に取り、空グラスに注ぐと勢いよく飲み干した。その瞬間に酔いの感触がやってくる。
「俺が……小凛が……一体、何をしたってんだ。ただ産まれてくる娘の為に頑張っただけなのに」
目に涙が浮かんでくる。だが、その姿を見られたくないのと、朧月を見ようと涼し気な外へと俺はふらふらと出た。だが、通夜会場を出た瞬間に何をしようとしていたかを忘れて思わず再び煙草を一服した。ラッキーストライクは悲しみの味である。
*
女子大生一人にしては与党幹事長である皿木が来賓で来るほどの贅沢すぎる田舎の葬儀・告別式を終えてしばらくし、仙三郎が改めて小凛の送別会を開くと言うので、取り敢えず孫娘の顔を見せる為にも嫌々参加した。
やはりと言うか、贅沢すぎる上に、小凛の同級生や友人といった関わりの深い人よりも年寄りの顔が目立った。仙三郎と俺がありきたりで辛気臭いスピーチをした後で、立食のパーティーがあり安物の寿司を食べる為に夫である俺も3万円を払った。入り口に置いてある豪勢な花輪や供花には与党の有名政治家やこの地域に浸食しているのであろう大手企業の名が刻まれているのが目立っていたが気にすることじゃないだろう。パーティーの最中、やはり来賓で来ていた皿木は寡男である俺とは軽く会釈をしただけで、地元の有力者や老人たちと神妙な面持ちをして何やら話をしていた。仙三郎もずっとその場に入っており、俺は彼と喋る間がなく、仕方なく彼の家で待つことにした。
酔っぱらって帰ってきた仙三郎に俺は彼の酔いを醒ます一言を浴びせることにした。ずっと思っていたことだ。
「お疲れ様です。小凛が亡くなってからずっと思っていたことなのですが、もう例の約束はなしにしませんか?」
かつて小凛と3人で修羅場を起こしたあの居間。
仙三郎は俺の宣言を聞き、静かな怒りを放っている。そんな彼を横目に俺は、膝に淳詩を寝かせ頭を撫でてやる。しばらくして仙三郎は沈黙を破る。
「なんだと……本気か? 若造、お前は――」
彼は食って掛かろうとするも、俺は先手を打つ。
「えぇ、もうあなたの地盤を継ぐことやその為に秘書をやる必要などもうないと考えています。この町を良くしたい。それは生前の小凛の思いでもありました。彼女にできないことを私はこの子を作った代償としてやろうと思っていましたが、小凛が亡くなった今。私は彼女の最後の望みをかなえてあげることに専念しようと考えています」
そう言って、仏壇に飾られた笑顔の小凛の写真を眺めた。その様子を見て仙三郎は分かったと呟く。
「それなら用意するもんがあるだろ? もう分かるよな」
あぁ、やはり。そうくると思った俺は、
「どれだけ欲しいのですか?」
「中絶した時に出せと言った分を用意しろ」
それを聞いて呆れた俺の答えは決まっていた。
「残念ながらお支払するつもりはありません。もうあなたの金の汚さには呆れました。そちらが何か不平不満があって仕掛けて来るなら、こちらも出るとこ出ましょう」
すると仙三郎は机に脚を乗せ、茶碗を叩きつけた。
「おい! 人の娘を勝手に孕まして結婚までして、そしてガキと引き換えに殺しておいて、その上約束まで破ろうって自分が言ってること分かってんのか? その代償としてこっちは我慢した金額を提示してるんだ。出るとこ出て見る? 上等だ――」
「お義父さん、小凛の生命保険って全部あなたに入ったんですよね。その金額3千万。僕の印税を管理する公認会計士経由で照会してこっちは確認したんですよ」
仙三郎の眼前に、彼のサインと捺印がされた書類をポンと出した。
「この保険金って本来、残された家族の生活の為にあるものでしょう。何故、日々子育て・家事と仕事で手一杯な僕ではなく、これだけ立派な家に住んで、選挙の度にポンとジュラルミンケースを出せるあなたに入ったんでしょう? そして、そのお金はどこに行ったんですか? そういえば話変わりますが、この前の衆院選で自明党は大勝利で皿木幹事長も続投が決まりましたっけ」
仙三郎の顔から気迫が一気に引く。それを契機と見た俺はさらに畳みかける。
「そんなことより、この前の小凛の葬式・告別式の時、何故彼女と関わりが深い小凛の同級生や友達よりも、一度くらいしか挨拶をしたかしないか分からないような地元のご老人や有力者の方々が大量に来ておられたんですか。それだけじゃない、日本を動かすので忙しい皿木幹事長が何故、お越しになってスピーチまでされたんでしょう? その為にわざわざ1千人近く入る公共の体育館まで使って」
それを聞いて彼は、
「政治ってのはなぁ。単純な感情だけではない、仁義だ。その為には小凛もその母も死してなお我々に貢献して当然だ。 若造、お前に何が分かる?」
もはや言い逃れができない仙三郎はお前が言うなというようなことをかましてきたので言ってやる。
「そうですか、なるほど。まったくもって分かりません。小凛の葬儀を利用して、事実上の政治資金パーティーをやって荒稼ぎする為だったんでしょう。香典という名目で政治資金を集め、その金を生命保険と一緒に自明党の県連に渡して濾過して皿木幹事長以下、彼の派閥の陣笠議員の後援会に支援金にして渡したってくらいならすぐに分かりますよ」
俺は仙三郎を睨む。だが、彼は、
「言いたいことはそれだけか? そんな下らねえことでこのガキの爺さんの顔を潰すつもりか。それにお前が言った話なんぞマスゴミやSNSで流したところで、こんなちっぽけな話は「適切ではないが違法ではない」ってわけで深いとこまで切り込めなくて、たった数か月の話題になって終わりだ。それに俺に非があろうともな、こっちには無能な秘書が何人かいるんだが、そいつらをテキトーな理由つけてクビにして「あいつらがやった」で幕引きにすりゃいいだけのこと。この手の追求はいつもそれで逃げ切れるようになってんだよ。俺はそういうの慣れてんだ」
何を言い出すかと思えばありきたりな政治家の弁明だ。そして、彼はすごむように続けた。
「金の恨みは怖いが、俺はお前に娘の命の仇があるってのは覚えとけ」
すやすやと寝ている淳詩を起こしたくないから、こっちは怒鳴るつもりはない。だが、言うだけのことは言ってやる。
「お義父さん。あなたは俺に結婚と出産を許して、駆け引きの末に地盤を継げって言ったのは、僕が小説家としてそこそこ話題性があることを見越して利用してやろうってことでしたよね? 色々お見守りいただいたことは感謝してます。それでも、娘の死すら人の感情を逆手に取って金儲けや政治に利用する奴に小凛を殺した仇などと言われる筋合いなんかない!」
それを聞き、ふっと笑う。
「ほざけ、若造。俺に文句があるならお前の不細工な姉にも同じことを言ってみろ。あいつと俺は、後先考えずゴムなしでやるようなバカなお前らが最低限度の文化的な生活を営めるようにと色々な裏取引もしたし、黒い商売の話もした。お前は、何も知らねえだろうけどよ。あいつも俺と同じことをやってんだ。たとえどんなことをしてでも生き残るんだ。それが人間ってもんの性だ」
「それを仏壇の前で小凛にも言ってやってくれませんか? 僕は彼女同様にどんな手段を使ってでもこの子を未来に生かします。その為なら世界を敵に回すことも厭わない」
そして淳詩を抱きしめすっと立ち上がる。
「それでは失礼させていただきます。最後にですが、娘も失いその忘れ形見の孫娘にも会えずただこれから天涯孤独の日々を死ぬまで過ごすことになるあなたには心より同情します」
バンとドアを開け、玄関に向かおうとしたその時だった。
「ちょっと待て。俺はお前との間に約束を証拠として残さないって言ったの覚えてないのか?」
そう言えばなんか言ってたな。
「賄賂とかって証拠になるから領収書が出ないだろ? でもそれだけが理由ではない。お互いにつけいりどころを作って深い信頼関係を築く為に敢えて形にしないんだ。約束は破られる為にある。それくらいのことを分かった上で、破られた時のこと、破る時のことを考えて行動するんだ。ヨシオカアツシ、小凛の形見であるそのガキの父となったお前に約束を破られたからと言って何かするつもりはない」
そう言って何枚かの写真を手に取ってこっちに歩み寄って来る。
「これを見ろ」
そこにはまだ若く中年になりたてくらいで髪が黒く、いつもの悪者感が伺えない屈託のない笑顔を浮かべた仙三郎と小凛とどことなく似た雰囲気を漂わせた女性。そして、二人が抱いているのは赤ん坊だった。
「小凛も淳詩のような時期があったんですね」
「当たり前だろ」
そしてドレス姿の幼い小凛と仙三郎が二人して笑顔で写っている写真。母の葬式で涙ぐむ仙三郎とその隣で涙一つ流さない小凛。そして、最後は家の前で二人とも真顔で写っている写真だった。
「この写真を撮ってあいつを大学に送り出した。奴には未練のかけらも感じられなくて、正直寂しかったもんだ」
そう言って、仙三郎は淳詩の頭を撫でた。
「見てると本当に思い出すな、色んなことを。頭を撫でると賢くなるとか言うからよくこうしてやったもんだ。だからあんなバカ娘になったのかもしれん」
その彼の顔は悪代官のものではなく一人の祖父だった。それを見て、俺ははっと気付く。かつて父さんや姉さんが言ったことも同時に反芻する。
そうだ、彼は愛する娘の形見である淳詩が未来を歩ける為に、汚い手ではあったが最後の投資をやったのだ。例え、俺から何と言われようと自分の為すべきことを為し通した。
姉さんと同じだと彼はさっき言った。そういうことだったのか。
「お義父さん……」
「なんだ?」
うっと思いがこみ上げるが頑張って口を開く。
「せっかく、幸せへのレールを引いて下さったのに勝手に脱線してすいません……」
それを聞きながら淳詩の顔を望みこむ彼であったが、
「別にいいだろ。人生は自由だ。幸せにならなくたっていいじゃないか。別にやりたいことやりゃいいだけだし」
俺はこんな人にはなれないなと思った。でも、
「そうですね。お義父さんの言う通りですよ」
妙に納得するものがあった。
*
それから月日が経ち、小凛から妊娠の報告を受け取ってから1年以上が過ぎた。今日はスーツを身にまとって学校に行く。そう、卒業式だ。学長や来賓の長ったらしい話を聞くのが嫌で卒業証書・学位記だけ受け取りに行くことにした。
あのどうしようもないドストエフスキーの卒論を通してくれた教授に礼を言いに行った。
「おぉ、よく来たね。ヨシオカアツシ先生。はい、これ」
手渡されたのは証書も含めた卒業記念品諸々が入った紙袋だ。
「色々とご配慮いただきありがとうございます。この1年は
精神的にも身体的にも辛い時期でしたが、なんとかこうして卒業の日を迎えることが出来て良かったです」
深々と頭を下げると、
「俺は何もしてないって。君が頑張っただけだから。それより約束の品は?」
あぁ、そうだった。カバンから取り出し、教授に渡す。
「なるほど『ニコライ・フョードロフの現代的論考』か。自然哲学による人間の能動的進化、科学による死の克服さしずめトランスヒューマニズムと言ったところか、それとキリスト教的な復活による死んだ精神生命も含めた全人類の物理的不死ってテーマは面白そうだね。ロシア宇宙主義は俺、よく分からねえからこれ読んで研究するわ。なんか善岡敦志みたいな作品かな? これって」
「いや、特には意識してないですね、でも無意識に善岡が現代に生きてたら書いてたかもなって部分は多々あります。死んだ人を復活させたいって思いがロシア宇宙主義と重なって――」
「皆まで言うな。なんとなく分かるから」
「あぁ、それとサイン付きです。売るとそこそこの値段になるかもしれませんよ」
「まずは読んでみてからだな」
俺は一礼してその場を後にした。
部室に行くと、そこではいつも通りの大騒ぎだった。
「みんな四年間お疲れー!」
「ほんと楽しかった。社会人なりたくない」
「また会おうぜ」
みんな、思い思いに卒業を祝ってる。かつての写真を見ると懐かしさを感じる一方、有名になる前の殻に閉じこもっていた自分の姿もぽつんと写っているが、今では目を逸らさずそれを直視できる
「そうだ、みんなで写真撮ろうぜ!」
「イェーイ、みんな集まってー! ハイ、チーズ!」
十数人笑顔で写真に納まった。ただ一人俺を除いては。
「本当ならばここに一人入るはずだった……」
俺が呟くと女子の一人が涙ぐんだ。
「小凛ちゃんは偉いよ。子どもの為に必死で戦ったんだから」
「ほんと、よく命を賭けて産んだよね」
「ヨシオカもよく頑張ったじゃないか。昔と今ですっかり変わっちまった。そんなお前を小凛も天国で見守ってるさ」
俺はありがとうと呟いてその場を立ち去ろうとすると、
「今日、夜から飲み会するけど来るよな?」
あぁ、またバカ騒ぎか。せっかくだし行きたいところだが、
「上京してる家族と約束があってな。すまん。また、いつか機会があれば一緒に行こう」
歩き出す俺の背後ではもう既にバカ騒ぎが始まっていた。
もう思い残すことはない。長きにわたりくぐってきた校門へと向かって行った。そろそろ約束の時間――いや、もう過ぎてる。少し駆け足で人ごみをかき分けながら向かうとそこには4人揃って立っていた。
「遅かったじゃないの。5分前集合って習わなかった?」
ベビーカーで騒ぐ淳詩をあやしながら姉さんが笑った。
「ようやくこの日を迎えることができたな」
白ネクタイにスーツ姿の父が立っていた。その横の母さんは姉さんと共に淳詩をあやすのを手伝っている。
「よく頑張ったな。おめでとう」
父が言う。
「おかげさまで」
と返す俺に、
「いやぁ、学生生活最後の年に一番サポートしてあげたのは誰だっけ?」
姉さんが厭味ったらしく言うが、
「感謝の言葉は一度述べれば十分だ」
と俺は一蹴した。
「この大学で学んだ4年間は必ず色んなところでいきてくると思うよ。これだけは覚えときなさい」
母さんの言葉はかつてのようなキツさはない。優しい子を想う母の声だ。
「まったく家族総出で卒業式なんか来なくても良かったのにな。本当は東京観光の一環とかそんなだろ? あと、顔を見たい奴が俺の他にもいるってわけで」
俺はベビーカーから淳詩を持ち上げ、高い高いをしてやる。
「慣れた手つきだな」
と父さん。俺にもと両手で合図されるがまま、淳詩を渡そうとする。この初老の男は、不器用に両足を左手で、すわっていない頭を右手で支えた。
「22年もたてば忘れるものか? こうするんだよ」
俺が教えてやる。そうしている内に小凛がいなくなって以降の赤ん坊との二人暮らしのしんどさを思い返してくる。
俺は母乳が出ないもんだから、粉ミルクを作って淳詩に1日5回与える。それを15分くらいかけてゆっくり飲むもんだが、大人の1日3食と違ってどのタイミングで飲ませりゃいいのかは、泣き声で示してくれるが、泣き声で何を望んでいるかが分からない。留学で言葉が分からない外国人とテキトーにジェスチャーをやってると何となく意図が伝わったのとは大違いだ。何より、おむつを替えるのも着替えをするのも風呂に入れるのも最初は一苦労でそれだけで一日の疲れがどっときた。しかし、今では大したことではない。
しかし、今でも時々気になるのは淳詩が寝ている時だ。ふと死んでるんじゃないか? と思うことがある。だから耳をそーっと彼女の鼻に近づけて寝息を確認する。毎日2回はやっているか。そうして安心しても時々、淳詩が夜泣きし出して寝不足になる。だから俺の目の下にはいつの間にか隈ができた。
けど今日だけは解放だ。
「じゃぁ、ベビーシッターさんたち。後は頼んだよ」
俺はくるりと身を翻して歩き始めると、その背中に父の声が飛んできた。
「お前はあの町に戻ろうとは本当に思わないのか?」
今更その愚問か。俺の答えは決まってる。
「当然」
「やっぱりそうか。しかし、また気が向いたら戻って来い。そして、淳詩の顔を見せてくれ。俺にとってはかけがえのない孫だ」
酔ってお前は子どもじゃないとか言ってた奴が良く言うよと思ったその時、
「それと、言っておこうと思ったんだが、まさかお前がここまでやるとは、子どもの時は思ってもみなかった。未来とは、人とは分からんもんだ。でも、信じてみる価値があると思ったら躊躇なく、騙されたと思って積極的に投資をするんだぞ」
「はい、分かったよ」
その時、姉さんが近づいてきて、書類を手渡してきた。
「そうそう、言い忘れてたんだけど」
「なんだ?」
「卒業に伴ってあの部屋と水道・光熱費はもう契約終了にすることにしたから。だから1か月以内に新しい部屋探してね」
そういえばそうだった。小凛との生活の為にした姉さんとの「契約」だった。
「もっと早く言ってくれよ」
「だって子育て忙しそうだったし。それにこんな時くらいしかなかったもんね」
はぁと俺はため息をついた。
「そう言えば、仙三郎先生に小凛ちゃんの保険金は全部取られたんだってねぇ。それ、小凛ちゃんの遺物とみなして遺留分減殺請求で頑張ったら取り返すことできるよ。それに取り返せても教育資金名目なら税金もあまりかからない」
よく知ってるな。それに仙三郎を俺が裏切ることまで呼んでいるのか。だが、済んだ話だ。
「そんなことより俺の生まれ故郷を頼んだ、姉さん」
それを聞いてにやりとする彼女は、
「例の契約のリターンは相当大きいわね。まぁ、十数年後くらいに一回、遊びに来なよ。その時に気が変わって住みたいとか言っても仕事は工面してあげないけど」
そうかと呟いて俺は振り返ることなく去って行った。
*
「いらしゃい、ヨシオカアツシ先生」
人気のない薄暗い店内に、亜麻色の髪に大きな瞳のカウンターレディ。俺はいつぞやの変な思い出が脳裏を過ったが、まさかそのようなことはあるはずがないだろう。シューマン作曲『トロイメライ』を自動ピアノがかき鳴らしていた。そのピアノの上に置かれた古い写真には、セミロングの鮮やかな金髪に黒い山高帽を被りにやりと笑った口にはパイプタバコを咥えている善岡敦志と、カウンターを隔てたその先には自分とは因縁が深い美しき宇宙人ミューズが妖しい笑みを浮かべてツーショットで写っていた。
そうかのヨシオカが足しげく通ったBARだ。
「ヘネシーVSOPのロックを」
すっと出てきたグラスの液体を勢いよく喉へと運ぶ。
「相変わらずいい飲みっぷりですね。何か悪いことでもあったんですか?」
カウンターレディが尋ねてくる。
「いや、良くも悪くもないけど」
そして、飲み干しておかわりと頼んだ。
そうして飲み続けている内、俺は意識が混濁してきた。まさか、奴らは現れないだろう。今日くらいは好きにさせてくれ――と願ったが、再び同じ轍を踏んだ。
「ヨシオカ。人は未来を望んで生きていくものよ」
ミューズ、伝説の宇宙人。この瞳から見えないレーザー光線が発せられて俺の心を射抜いているように感じた。まぁ、いい。丁度いい話し相手だ。
「どうせ全て見ていたんだろ。それよりそっちの様子はどうだ? で、そっから俺を眺めてどうだった?」
「あなたたちと違って他者のいない無限の世界は永遠よ。人間はこの世界で他人の存在、肉体の存在、世界の存在によって争い・病気・富の格差に苛む。それでもあなたたちはそこで必死に生きてゆこうとする。そして、無理だと分かっていても自らに起因する問題と向き合って共存していこうと模索する。あなたがあの女のことの間に子どもを作って、共に生きることを望んで、女の子がいなくなった後でもその娘を抱いて父として生きることを望んでいるのは何も驚くべきことでも偉大なるストーリーでもない。本能があなたを動かしたの」
難しいことを言うな。しかし、本能? なんだそれは?
そんな俺の心の問いを見過ごしたかのように彼女は答える。
「それは全人類の心に集合的無意識という形で遺されたあなたたちの祖たる神々の遺伝子の鱗片。本能が発動するのは集合的無意識が反応するから」
なんか心理学の授業で聞いたな。その集合的無意識って概念。ユングが言ってたっけ? 人間の無意識の深層に存在する、個人の経験・記憶に基づく意識の先に、集団や民族、人類の心に普遍的に存在する先天的な構造領域。
「君はあの日、紅い星を見ただろう。まるで嘲笑っていたかのような。それと同時に新しい命が誕生した。このシンクロニシティは心的世界と物質的世界が重なり合う瞬間だ。お前は奇跡を起こした。この交差の末に誰にも予想しえなかった未来を誕生させたってわけだ」
ピアノに肘をついた黒い山高帽の男がぷはーっとパイプタバコをふかしながら言った。
「あら、善岡先生。あの星は彼らを祝福していたんですよ」
とミューズ。おいおい、本気かよ。善岡に微笑みかけた後、彼女は俺の方を向く。
「あの星は銀河系外にあるネオン星。つまり私たちの母なる星。地球から見えるのは666年周期。あなたがあの日、見たのは偶然じゃない。私とあなたの思いが一度ぶつかり合ったことによるインパクトを察知してたまたまあなたの周期上に来た時、あなたのリビドーを最大限に引き上げたのよ」
リビドー、性欲にして生きる力。俺ってしぶといんだな。そう思ってグラスに光る水を飲むと甘い感触に喉が痺れる。
「そうか。難しくてよく分からないから、話を変えよう。ミューズ、善岡先生。俺はこれから先、どうやって生きていったらいいか教えてくれ」
二人は乾杯してグラスを口へと運んでいた。先に答えたのは善岡だった。
「好きなようにやればいい。君は一夜の女との間に産んだ娘の為に人生を捧げるなら、それが君の人生の意味なんだろう。まぁ、俺はそんなことしなかったけど」
それを聞いてふふっとミューズは笑う。
「流石はご先祖様のアドバイスですね」
ご先祖様? そう言えば、前に帰郷した時に父は自身の先祖は小説家気取りの大学生に孕まされて産まれた私生児だって言ってたっけ。
「まさか、あなた?」
「バカな親というのは子に自身を超えて欲しいと望むもんよ。俺はバカだったからなぁ。お前が俺を超えてくれて嬉しいよ」
衝撃の事実が唐突に明かされた。もしかして俺が彼の小説を読みふけったのも? ミューズと相応に戦えたのも? 全て彼の遺伝子があったからだったのか。そして、作家になれたのも――。
「あなたがつかみ取った栄光は他ならぬあなた自身の力、自分自身を磨いたからこその結果よ」
ミューズは言った。そして、
「あなたがどのように生きて行けばいいかは私からは特にコメントすることはないわ。ただ、私はあなたと話して、この世界からの去り際、人類の集合的無意識に一つ指令を付け加えたの。それは「生の限り足掻いて」ってこと。それに基づいて本能をフルパワーで発動できるのであれば、あなたも娘の淳詩ちゃんも世界を変えることができるほどの人間になれるわ。神に抗ったっていい、運命を呪ったっていい。私が許すわ」
二人は霧の中に消えて行った。
「では、さらばだ」
「また会いましょう」
色々なことがあったが二人には感謝しなければならない。
そうして18年の月日が過ぎた。
「えー、かつて民共党の岡野元代表の地盤だった町で今、漁港再開発を巡って多数派を占める推進派の与党自明党系議員と反対派の民共党系の議員による対立が先鋭化しております。十数年前の岡野元代表落選のショックは町を大きく変えました。当選した自明党系候補の支援を受けた市長により町は発展を遂げていますが、市民の間には引退した岡野氏を中心とする民共党を未だ支持するグループも根強く、市の分断を煽っています。再開発を巡るカギとなっているのが、若きカリスマ女フィクサー。港湾事業を中心に事業を拡大しながら、岡野氏のグループの弱体化に努め、また現市長を中心とした自明党系議員との強いパイプを堅持しつつも、その実情は謎に包まれた若き女社長。本日はこの町の実情と共に謎の若き女フィクサーの正体に迫ろうと思います――」
面白くないニュース番組をブチっと切って俺はラッキーストライクを一本取り出し、火をつけた。そんな俺はどこからか視線を感じ、その先を探すと笑顔でほほ笑む小凛の写真があり、思わず目を背けて部屋にいる娘に向かって叫んだ。
「もう行くのか?」
薄くなった金髪頭をかきむしりながら俺は淳詩に聞いた。しかし、返事はない。
「母さんに似たな」
俺はパソコンに向かい合い、新しい小説を書く準備が出来たことを確認した。その時、
「パパのバカ」
淳詩は出ていく準備ができたようだ。ちゃんと聞こえてるじゃねえか、このバカ娘。
「よし行くぞ」
巨大なスーツケースを引きずる淳詩を連れてやってきたのは、どっかで見たような健康食レストラン。
「ここ? お肉とか脂っこいものなさそうだし、あつしには合うかな?」
「もう一人暮らしだろ。どうせ不健康な食生活を送るんだから最後くらいまともなもん食っていけ。それと」
一瞬、咳ばらいをして、
「しばらく会えないんだから紛いなりにも18年お前を一人で育てた父親のわがままも聞いてくれ」
俺たち父娘は扉を開いた。
追伸
「じゃあ、これでお別れね。さようなら、パパ」
「人との別れは、行く道の別れだ。でも、全ての道は一つに繋がっている。だから、また会えるさ。俺はその日を楽しみに生きていくことにしよう」
淳詩の乗った新幹線はもう見えなくなった。明日からは孤独の日々で、寂しさとの戦いが待っているだろうが怖くはない。
人は良いことも悪いことも思い出があるからこそ生きていける。そして、それらを覚えていてこそ、人は強くなれる。その気になれば、世界や人々を救うことができるほどに。
世界が、人類が滅ぶその日まで、そのことを心に刻んで強く生きていけばそれでいい。いつ何時、破滅の日が来るかは分からないから、いつ来ても後悔することがないように。
さっき淳詩に言おうとして忘れたことを今頃、思い出してしまった。
まぁいい。いずれあいつにも分かる時が来るだろう。これが、とっくの昔に莫大な富や地位、権力を失って孤独死した祖父、田中仙三郎からの受け売りであると。彼は最後の最後に俺たちに未来を託した。
*
がたごとと揺れる新幹線の中で、淳詩はただ黙々と本を読んでいた。昭和初期に活躍した異端の作家、善岡敦志の小説である。
そんな折、
「上京ですか? お姉さん」
ふと声をかけられて彼女が隣を向くと、そこにはUFOのような帽子を被った金髪(それもドンキホーテのブリーチで染ていた父ヨシオカアツシのそれみたいな粗いものではなく、鮮やかな金髪だった)の男と亜麻色の髪に大きな瞳の美女が座っていた。
その様子はまるで宇宙人みたいと淳詩は思い、立ち上がり席を後にする。
「…………」
何も言わずそそくさと歩き去る彼女の後姿を見て、二人は笑っていた。
「父親似ね」
「あぁ、期待の新星だよ」
作者:吉岡篤司
掲載誌:『扉86号』
発行者:甲南大学文化会文学研究会
発行日:2022年11月4日