雛宮村3
そんな事があったのも記憶から消えかけていた、数日後の夕方。
バス停に降り立った私は朝出かけて行った時とは村の様子が異なっている事に気づいた。
「なに……?これ?」
村中に提灯が提げられている。
電柱や、家の軒先や、何もない所には長い竿を立てて。
どの提灯も可能な限り高い所に設置されていて、その高さを競うようだ。
「あの模様だ……」
そしてその提灯の全てに、あの日蒲生家の土間で見た、どこかの家紋という訳でもない、例の特徴的な模様が入っている。
ガモちゃんの家で聞いたお祭りというのは今日だったのだろうか。
だが、朝家を出た時には村のどこにもそんな気配はなかったはずだ。
「村中で準備したんだ……」
提灯だらけになった帰り道を進んでいくと、不意に小さな子供たちの黄色い歌声が聞こえてくる。声のする方を見ると、小さな子供達が駐在所の方向に向かって歩いていくのが見えた。
「宮入さん、宮入さん。お宮の方へ来やしゃんせ。綺麗なお雛になりゃしゃんせ」
「宮入さん、宮入さん。御身洗いに参りゃんせ。御身清めに参りゃんせ」
お祭りの準備、確かに私も小学生ぐらいの頃は町内会のお祭りや盆踊りの準備が進んでいるのが妙にそわそわしたのを思い出す。
村中上げての六年越しのお祭りともなれば、その気持ちはもっと強いものになるだろう。
もしかしたら生まれて初めてのお祭りになる子もいるのかもしれない。
その歌声を聞きながら、私はその子たちを追うように道を進む。
「……?」
不意に、どこかから見られているような気配を感じて辺りを見回すが、ただ風変わりな祭りの準備以外に変わったところはない。
田畑と、その中に点々と建っている民家。そしてそれらの間を縫うあぜ道や舗装道路だけの、この一か月ぐらいと何も変わらない雛宮村の景色だ。
「……気のせいかな」
それきり、私はその気配については忘れて歩き続けた。
再び奇妙な事に気付くのはそれからすぐ、駐在所の前に差し掛かった時だった。
「あれ?」
建物の向こう、子供たちが通過しただろう場所にはガモちゃんと環ちゃん。二人が何か話しながら、蒲生家の方に向かって歩いていく。
いや、そんなはずはない。放課後、ガモちゃんは用事があるからと言って校門で分かれたのだ。今日は帰りはもっと遅くなると言っていたはずだ。
それがどうして、私より先に村に戻っているのか。
声をかけよう、そう思うのがもう少し遅くなっていたら、その言葉を聞き逃していたかもしれない。
「あーあ、でも残念だなぁ。せっかく悠莉ちゃんと仲良くなれると思ったんだけど……」
紛れもなくガモちゃんの声。
仲良くなれると思っていた?どういう意味だ?
少なくとも、私としては仲良くなれたと思っていた。彼女の内心までは分からないけど、これまでガモちゃんは私に親切にしてくれたし、私も彼女に可能な限りそうしていたはずだ。
そして昨日まで、いや、今日の帰り道まで私たちは友達だったはずだ。
――だが、彼女のその言葉が女子特有の難しい人間関係を意味しているのではないという事は、それを隣で聞いていた環ちゃんの言葉ですぐに分かった。
「でも仕方ないじゃん。悠莉ちゃん、被良華様のお雛になるんだから」
「まあ、そうだよね」
聞き間違いではない。
確かに環ちゃんは言った。被良華様のお雛になると。
お雛になる?私が?
蒲生家のお婆さんの話、そしてさっきの子供たちの歌で被良華様が何なのかは分かっている。
「悠莉ちゃんが宮入さんになってくれるなら、まあしょうがないか。お雛になるんだもの」
ガモちゃんのその言葉には、諦めたような響きは無かった。
むしろ納得するような、どこか憧れるような口調。
不意に思い出す。以前、まだ東京にいた頃、お父さんの仕事部屋で見かけた資料。
民俗学だか文化史だかの本の記述にあった、日本各地に存在した口減らしについての話だ。
多くの村落において、口減らしや人柱をストレートにそう呼称することは少数であり、大概の場合「神様にお返しする」「神様の嫁に行く」等の呼び方をされていた、という話。
そしてその記憶が今目のまえに広がっている光景への見方を変えさせた。あっさりと納得して、それから姉妹でしか分からないような事を小声で囁き合って妹と笑いあっているガモちゃんの姿が、ひどく恐ろしい怪物に思えて、私はそっとその場を離れた。
そんなはずはない、そんな事あるはずない。必死で頭は否定する。
だが、それ以外の部分が、何と呼べばいいのか分からない、本能とか、虫の知らせとかいうべき部分がその否定を更に否定した。
お雛の正体は分からないし、何よりお雛になったら仲良く出来ないのだ。
「……ッ!!」
気が付くと、私は走り出していた。
帰り道を大きく迂回し、ようやくたどり着いた自宅に、鍵を開けるのももどかしく飛び込んですぐに施錠。
「はぁ……はぁ……ッ!!」
同時に着信したスマートフォンに、心臓を鷲掴みにされたように驚きながらその画面を見ると、お父さんからの着信を示して音を立てていた。
「もしもし……っ!」
「悠莉か?今どこにいる?」
私が切り出すより先に、まるで呼び出し中から呼びかけていたかのようにお父さんの声。
普段は絶対に聞かない切羽詰まったその声に、私はすがるように答える。
「今家に帰って来て、それで――」
「すぐに家に向かう。ドアも窓も全部鍵をかけてカーテンを閉めるんだ。電気もつけないで。誰が来ても出ちゃ駄目だ。すぐに家を出られるようにしておきなさい。いいね」
「え、う、うん……お父さ――」
「予想を超えて――」
そこで電話は切れた。
最後に誰かと話しているようだったけど、それが誰となのかも、今どこにいるのかも、いつ頃戻るのかも分からない。ただ、今はそれを気にしている場合ではないだろう。
お母さんがまだ生きていた頃、お父さんが昔は刑事だったと聞いたことがあった。
そのお父さんがあれ程慌てているのだ、言われた通りにしなければまずい――頭の中に明滅する言葉。悠莉ちゃんはお雛になる。口減らしや人柱をストレートに表現することは少数。
「ッ!!」
すぐ後ろ、体を預けていた扉の鍵を確認すると、すぐに全ての窓を確かめに行く。言われた通り鍵を確かめて、それがある場所はカーテンをぴっちりと閉める。
「早く、早く……」
カーテンを閉める瞬間を見られているかもしれない――その恐怖が全ての動作をせかす。
裏口も、トイレも、あらゆる場所の窓を確かめて、残るは二階。私の部屋とお父さんの仕事部屋だけだ。
「早く……」
ギィギィと音を立てて軋む階段を駆けあがり、まずは自分の部屋へ。
ベッドのすぐ上にある窓を施錠してカーテンを閉め切り、それから向かい側=お父さんの仕事部屋へ。
十畳ほどの広さの部屋に所狭しとキャビネット。そして扉の正面に置かれた大きな事務机の上には、仕事中の資料が広げられている。普段仕事で使っているノートパソコンがどこにあるのかは分からない。
それを尻目に、机の左側にある大きな窓に鍵をかけて振り返る。
「あっ!」
机から飛び出していたノートに当たって、それを床に落とした事に気付く。
拾い上げるついでにそれに目を落とし――そして固まった。
「えっ……?」
西向きの窓から差し込む夕日が、その内容を照らし出している。
それはお父さんが調べ上げたのだろう、雛納め=村の儀式についての記録と、この村の歴史。
明治時代、村の近くを流れる須賀金川が氾濫して大勢の死者を出した時に現れた雲嶽小斎なる人物が土地の神を鎮めるために始めた儀式だという話――ここまでは蒲生家のお婆さんが話していたものと一致する。
だが、その詳細は異なった。雛納めと呼ばれたその儀式は、六年に一度、村の中で誰か一人を“宮入さん”に選出し、その宮入さんに身洗いと魂洗いという儀式を行って“お雛”にしてから山の宮に納めるというものだ。
それが具体的にどういう儀式なのかは書かれていない。
だが、お雛を幾重にも囲んだ線が伸びた先に書かれた文字が、全てを表していた。
「ひっ……!」
それを目で捉えた時、私はそのノートを取り落した。
パサリと音を立てるノート。その衝撃でページがめくれ、全く関係のない記述がされた箇所が開く。
だが、もう一度開いて確認する度胸はない。
私は宮入さんに選ばれた。宮入さんは儀式を経てお雛になる。
そしてお雛という文字から伸びた線の先には一言だけお父さんの字で書かれていた――生贄と。
いくつかのエンジン音が下から聞こえてきたのは、まさにその時だった。
「お父さん……?」
だが、聞こえてきたのは知らない大人たちの声。
そして、一定のリズムの太鼓の音。
(つづく)