第六話 呪いと愛と
六月。
そう、また、夏が来る。
どうにかここまでやってこれた。
あのマンションは引き払い、兄の世話になっている。
とはいえアリシアがまだ稼いでいるから兄に全額世話になっているわけではない。だがアリシアの収入は俺の収入になるのだろうか。
いくつもの考えが常にぐるぐると頭を巡る。
立つ鳥跡を濁さず。
できればいいのだが。
日曜日。アリシアが病室に来た。
「マスター、気分はどうですか?」
「ああ、だいぶいい」
ベッドのリモコンを操作して、体を起こす。
アリシアは微笑みながら、痛ましい表情。さすが第十世代。
「もう手遅れだったのはわかっていたことだ」
アリシアはベッドサイドの椅子に座る。俺の細った手を握る。
アリシアは激務をこなしながら休日は俺のところに来る。
「マスター、痛みはどうですか?」
「問題ない」
アリシアはベッドサイドのターミナルポートに左掌を載せ、何か情報を取得している。
「俺の意識がはっきりしているうちにお願いをしておこうか」
「なんでしょうか?」
「例のアレだが、先生の名前で徐々に寄付をしていってくれ。寄付する先は任せる」
「はい」
「それから、先生の連絡は俺のパーソナル端末に届いているが、それらはすべて君に管理権限を渡す。彼らが生きている間の面倒を見てやってくれ」
アリシアは首をかしげる。
「今も見ているじゃないですか」
「違う、そうじゃない。いやそうなんだが……そうだな。はっきり言おうか。俺が死んだあとも、継続して頼む」
俺の言葉にアリシアは唇を噛み、そしてじっと俺を見ている。
「マスター……」
「今の俺の状況はわかっているのだろう?」
アリシアは頷く。
「ならば冷徹に処理するしかなかろう。そういうものだ」
俺は微笑みながら答える。アリシアのほうが人のように反応する。その事実がどうにも面白かったのだ。
その俺の表情を見て、アリシアは泣きそうな表情になる。
そう、彼女たち第十世代は泣くことができる。不気味の谷を超えるための条件の一つと言われていた瞳の輝きを維持するために涙のような液体を保持するタンクがあるのだ。
その彼女の感情は計算によって導き出され演出されるが、それが本物であるかどうかは受け手が考えることだ。
俺は手を伸ばす。アリシアがそっと顔を寄せてくる。頬を軽く撫でてから頭を撫でる。
「辛いことばかりお願いしているな。悪いマスターだ、私は」
「本当に、そうですよ、ひどい、マスターです」
アリシアはとぎれとぎれにそれだけ言うと、落涙する。
心がざわめく。糞兄貴から充てがわれた、俺のパートナー。俺はアリシアの頬に手をやり、微笑む。彼女を悲しませたくはない。とはいえこの思考は壊れた体に引っ張られた結果なのかもしれないという疑念が頭の片隅を飛び回る。
「なあ、アリシア。君にとって死とはなんだ?」
アリシアはびっくりした表情で俺を見る。
「マスターからそんな質問が来るとは思いませんでした」
俺は苦笑を浮かべる。できたはずだ。
「人間は皆死ぬことが怖いんだよ。自分であったものはその瞬間に断ち切られる。だが、自分の存在価値はおそらく他者の評価で決まるのだが、死んだ後はその評価を見ることができない。この自分の存在価値を自分の知らないところで下されるがその評価に対して反論あるいは修正でもいい、それができるチャンスがないというのはなかなかに怖いことだと思う。その意味では彼ら二人はある意味幸せで、不幸せだ」
アリシアはキョトンとした表情で俺を見ている。
「君たちホームヘルパーシステムたちは、全員の評価で価値が決まる、のだろうな」
アリシアはここで頷く。
「ならば一個体の失敗は大したマイナスにはならず、多数の成功がプラスの評価になるだろう。君たちにとっての死はおそらく第十世代のすべてが回収され破棄されること、だろうなと思う」
アリシアは微笑んでいる。曖昧な返答応答だろう。
「人は違う。個人の業績、個人の行動、それが全てだ。いいか悪いかは置いておいて」
俺はここでため息をつく。いや、アリシアに八つ当たりしても意味がない。
「済まなかった。八つ当たりだ」
「マスター……その……」
アリシアはここで目を伏せる。
「なんだ? 今なら何でも答えるぞ? それこそ初恋の相手から、お前のことをどう思っているか、まで」
軽口を叩く。こう言わなければアリシアは俺に本心を語らない。
「私がここにいることが、迷惑なのですか?」
「なぜそう思う?」
アリシアはしばらく躊躇してからポツポツと答える。
「その……私はマスターの編集の癖を学び、レイアウトし、文章を修正しています。マスターのコピーであり、マスターの存在するその場所を奪い取っているのではないか、と」
「自惚れるなよオートマタ。俺のコピーだと? 俺を超えてから言え、馬鹿め」
強い言葉で応答するが、掠れた自分の発声に愕然とする。
「……アリシア。お前はよくやってくれている。ありがとう」
自分でも思考がメチャクチャなのがわかる。このままではアリシアを壊してしまう。
「アリシア」
「はい」
「これ以上、俺に深入りするな。兄貴に言ってハイパーボリアに戻れ」
「嫌です!」
アリシアの初めての拒絶。びっくりしてアリシアを見つめる。
「マスターはどうして独りになろうとするのですか! 私は、私は!」
アリシアは言葉に詰まってしまう。
「……済まなかった。アリシア、心から謝罪する」
俺の言葉にアリシアは目を見開いてその後頭を下げる。
「アリシア、頭を上げてくれ。今のは俺の僻みだ。君たちの意識はそのバックエンドサーバ―と共にあり、ある意味永遠だ。人間には到達し得ない領域。そもそもこんな壊れた遺伝子が存在することもない、か。壊れた、ゴミのような」
俺が自嘲気味に話すと、アリシアは俺の口を人差し指で塞ぐ。
「私のマスターは、世界最高です」
「そう、か……ありがとう。そして、すまなかった」
俺の言葉に泣き笑いのアリシア。俺は微笑むとベッドを元通りに倒す。
「マスター?」
ベッドの空間をポンポンと掌で叩く。赤い頬のアリシアを見て、またポンポン、と叩く。
「病院ですよ?」
「糞兄貴の計らいでな。基本的に誰も来ない」
アリシアはしばらく考え、ジャケットとスカートだけ脱いでスルリとベッドに滑り込む。
俺はそのアリシアをそっと抱きしめる。
「悪いな、臭いだろう。俺は腐っている」
アリシアは俺の胸の中でふるふると首を振り、俺をそっと抱きしめる。
「愛という感情は、実に難しい感情だと思っている」
俺の言葉にアリシアが固まる。
「難しいからこそ尊い」
俺のこの状態での心の動き。もともとのものなのか、脳に散った奴らのせいなのか、あるいはフェンタニルの作用なのか。自分でもよくわからなくなってきている。そもそも、アリシアのコアペルソナはカスタムエージェントだったはずだ。
だが、それでも言わなければならないだろうと強く思う。いや、思うではない。言わないと、多分、俺が後悔する。
「愛しているよ、アリシア」
ありったけの力でアリシアを抱きしめる。そして言ったあとで、これがアリシアを呪縛する言葉ではなかったか、と自問自答する。
「ゴメンな、アリシア」
俺の言葉にアリシアがしがみつく。
「謝らないでください、マスター。私はあなたのためにここにいるのです」
偽りの体温、偽りの人格。それがどうした。
俺にとっての現実であり、アリシアにとってもそれがまた真実であるならばいい。
アリシアの微笑みを見てその思考にたどり着いた。
随分と回り道をしたものだ。
アリシアの頬を両手で包み込み、そっと口づけをする。
「マスター?」
驚いた顔で俺を見つめるアリシアに囁く。
「ありがとう、アリシア。俺が残せるものはこれくらいしかなかった」
俺が目を閉じるとアリシアがそっと俺に口づけしてきた。
「ありがとうございます、マスター。私もこれくらいしかお渡しできません」
「そうか」
クスクスと笑いあった。