第三話 会社にて
会社に戻る。
「田沢、先生どうだった?」
「元気でしたよ」
編集長に報告する。
「原稿は?」
「もらってきました。編集して……そうですね……九月号掲載予定で。イラストはいつもの先生で」
「で、だ。今回はどうだね?」
「相変わらずの純愛ですよ。胸焼けするほどの」
編集長はため息とともに首を振る。
「正直、数字が取れるとは思っていないんですよね。一部に熱狂的なファンがいますが」
俺の感想に頷く編集長。
「ま、いつものとおりやっちゃって」
編集長は面倒くさそうに手を振る。
俺は自席に戻って原稿をかばんから取り出し、読み直す。
中津川先生の彼女への手紙は熱狂的なファンが――俺も含めて――いる。編集長にはああは言ったが、ここで編集長と対立すると掲載が切られる可能性がある。
先生のエースとしての力が連載を支えている。
胃がキリキリと痛む。まだだ。
原稿をタイプし直しイラストの発注メールを出す。
先生は俺より年上だったが恋愛経験はなかったようだ。今でも彼女のことを後悔し続けている。だから中学生の恋愛のような初々しいやり取りを続ける。
それが心に刺さる人は多い。色んな方向で。
誰のものでもない彼自身の文体は素朴でストレートだ。
淡々とときめきと葛藤と懺悔を記述する。
俺は……。
胃の痛みが思考を中断させる。
仕事に戻る。
タイプミスがないか、変換ミスがないかを確認し、保存。
そして延々と雑務をこなす。
先生たちへ原稿を督促し、希望の資料を手配し、上がってきた原稿やイラストや写真をチェックし、デザイナーへデータを回し、ラフを書いて編集長に回し、上がってきたゲラをチェックしてから関係先に送る。
会社を出たのは日付が変わってからだった。
コンビニに寄ってパックゼリーを買って帰る。
家に戻ると明かりがつく。
「おかえりなさいませ、マスター」
玄関までアリシアが出迎えに来る。
「寝ていても構わんぞ」
「私に睡眠は不要ですから」
アリシアはそれだけいうと微笑んで手を差し出す。
「ん?」
「かばんを」
少し気恥ずかしくなりながらかばんをアリシアに渡す。
「お夕飯はどうなさいますか?」
「いつものやつだよ」
それだけいうとキッチンに移動する。アリシアはかばんを片付けるとキッチンに入ってくる。
「あの、マスター?」
「自分のことは自分でできるんだが……」
アリシアは俯いて、上目遣いで俺を見る。
「わかっていますけど、でも私の存在意義が……」
ため息一つ。
「わかった。アリシア、お前の気の済むようにしてくれ。ああ、悪いが飯は基本食えない。それはわかっているよな?」
「はい。あとお風呂も。シャワーで済ませるのですね」
アリシアが寂しそうに笑う。
「そういえば各種免許は自動付与なんだっけか?」
「はい。大抵のものは操作運転できます」
アリシアの返事に頷く。いろいろ楽になるだろう。話をしながらシェイカーを取り出す。
「マスター、私があとはやります」
そのシェイカーを後ろから取られた。
「……そうか。まかせた」
リビングのソファーに座る。疲れが襲いかかってくる。
目の前にプロテイン五〇グラム、二〇〇ミリリットルの水、大量のサプリ。そしてパックゼリーが置かれる。
「アリシア。俺のアカウントは知っているな?」
「はい」
「じゃあ在庫管理も任せた」
アリシアは笑顔を俺に見せる。
「プロテインもいろんなフレーバーがあるんですよ」
「そうか」
燃料を補給し、シャワーを浴びて寝ることにする。
翌朝。五時に目が覚める。どうせそんなに長くは眠れない。
洗面台に行き、鏡に写った自分の顔を見る。ああ、少し痩せたな、と思う。
食欲はない。うがいだけして髭を剃り、着替える。
「マスター、何か食べてください。お願いします」
洗面台の入り口にアリシアが佇んでいた。
「食事に悩むことはもう数年していないんだ」
「知っています。そっちではありません。プロテインでいいのでお腹に入れてください。お願いします」
アリシアは寂しそうに微笑むと、シェイカーを差し出す。
俺はそれを無言で受け取り、そのまま洗面台に流す。
「今朝は無理だ。すまない」
「そう……ですか。あまり無理をなさらないでくださいね」
俺は頷くと家を出ることにする。これ以上アリシアと一緒にいたら息が詰まるような、そんな気がしたからだ。
外に出るとまださほど気温は上がってはいないものの、湿度はきつい。今日もかなりひどい雨が降るのだろう。
こうして、世界は海に沈んでいく。
異常気象などと言われてもう何年になるのだろうか。これだけ続けばもう異常ではなく、これが通常だろうに。
途中のコンビニでパックゼリーを買う。馴染みの店員。いつも同じものを買う俺を彼はどう思っているのだろう、とふと思う。
そして十年後、どう感じているだろう、とも。
「田沢! お前健康診断行ってねえだろ!」
朝十一時の重役出勤の編集長。朝イチでそう怒られた。
「はあ……」
「総務から俺が怒られるんだから行って来い」
「あー……わかりました。では明日一日休みください」
編集長が首をひねる。そうだよな。
「いや、かかりつけがあるんですよ。で、ちょっと相談しないといけないんで」
「なに、お前、どっか悪いの?」
胃袋のあたりを右手で擦る。
「編集者の持病の一つ、ってやつですよ。なんでバリウム検査とかまずいかもしれないんでその確認をですね」
編集長は口の端でニヤリと笑う。
「おうおう、お前も一人前になったってわけだ」
「どうでしょうね。目と肩と腰と胃、どこかやって半人前、二つやったら一人前ってところじゃないんですかね?」
編集長は吹き出して頷く。
「そうだな、そのとおりだ。まだまだ半人前ってところか? ん? 田沢?」
「ええ。そうですね。胃だけなので」
キリキリと存在を主張する胃。軽く撫でてやり過ごす。
「わかった。お前有休随分溜まってるからな。有休申請出せよ」
「はい」
席に戻り、有休申請を書いて編集長のもとへ持っていく。
「ほいほい」
軽い調子で編集長は判を押す。申請書を俺に投げてよこした後、真面目な顔で俺を見る。
「ま、困ったら何でも言ってこい。聞くだけなら聞いてやる」
この人はどこまで俺のことを知っているのだろうか。
翌日。大学病院に顔を出す。
待合で壁に寄りかかって立っていたら、後ろから肩を叩かれた。
「田沢さん」
振り返ると主治医がそこにいた。髪をひっつめにした、小柄な女性。まだ若い。三〇には手が届いていないはずだ。
「ご無沙汰してます。篠原先生」
「本当にもう……で、今日はどうなさいました?」
「いや、会社の健康診断をぶっちぎっていましたら怒られましてね……」
篠原先生は呆れたという表情で俺を見る。
「小学生ですか」
「先生はなんでこんなところに? 今の時間は外来じゃないんですか?」
話の流れを変えるために疑問に思っていた点を投げておく。
「今日は休みです。忘れ物があって取りに来たら病院にめったに来ない不良患者がいたから声をかけたんです」
それで私服なのか、と理解した。
「まったく……主治医の担当曜日も覚えてないなんてひどいですね」
曖昧に微笑んでごまかすことにする。
「……診断書がいるんですね?」
「はい」
「今日の外来は戸島部長だからまあ少し怒られて書いてもらってください」
熊みたいな外科医の戸島さんの顔を思い出し、げんなりする。
「まあ、今の田沢さんにはそんなに辛くは当たらないと思いますよ」
寂しそうに篠原先生に言われる。だといいんだが。
昼過ぎに病院を出る。今日は一日休みなのでそのまま家に帰る。
戸島さんにはみっちり叱られた。仕方ないといえば仕方がない。
部屋に戻り、服を脱いでシャワーを浴びる。
吐き気がこみ上げてきて浴室にぶちまけてしまう。黒い液体。自分の腹の中の色を見せられているようだ。
シャワーで口を濯ぐ。慣れたものだと自分でも思う。
床の黒い液体を流している最中にドアが開いてアリシアが飛び込んできた。
「マスター!」
「大丈夫だよ。少し吐いただけだ。暑さにやられたんだろう。出たら水を飲むんで用意しておいてくれ」
シャワーを止めてからアリシアを押し出す。
「でも! でも!」
「いつものことだ。大丈夫だ。ヤバければちゃんと言う」
アリシアは俺に押し切られる形で浴室を出ていった。