第二話 新しい生活
彼女は、どう見ても人間にしか見えなかった。
「何かの冗談かね?」
「そう思われますか?」
アリシアと名乗った女性はソファーに沈んだままの俺に近づく。立ち上がろうとしたら手で制された。
「そのままで。じっとしていてください。
アリシアは少しかがむと俺の頭を胸に抱え込んだ。柔らかな感触が頬にあたる。
「おい!」
「静かに。何が聞こえますか?」
何も聞こえない。そう、何もだ。
「第十世代とは、恐ろしいものだな」
「そうですね」
アリシアは俺を開放し、微笑む。
「これをお預かりしております」
懐から封筒を一つ取り出すアリシア。受け取り、封を切って中を見る。今どき珍しい手書きの手紙だ。
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将人へ
レンオアムを贈る。お前の生活の手助けになるはずだ。
こちらはいつでもお前の帰りを待っている。
来栖真一
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兄貴らしい手紙だと思った。余計なことどころか必要なことすら書かない。丸めてゴミ箱に投げ込んだ。
「で、アリシア・レンオアムとか言ったか?」
「はい、マスター」
「俺のカスタムエージェントのアリシアはどうなっている?」
「私のコアペルソナとして動作しています」
ため息をつく。
「じゃあ、俺のこともほぼ理解しているな?」
「はい」
「個人情報はどこまで知られている?」
「私しか知りません。来栖様の強い意向により例外としてそのように処理されております」
頭を抱える。クソ兄貴め。
「そうか、わかった。自由にしてくれていい」
「かしこまりました。ですが、私はマスターの生活を支えるためにここにおりますのでなんなりとお申し付けください」
「やめろ、堅苦しい話し方は肩が凝る。アリシアなら知っているはずだ」
「そうですね。気をつけます」
アリシアは背負っていたバックパックから分厚い本を取り出した。
「私の取扱説明書です。読まなくても大丈夫ですが、免責事項その他の関係で添付文書として存在します」
アリシアはそれを私に手渡そうとして一瞬考え、そのままリビングの棚にしまい込む。
俺はそれを見届けてからベッドルームに移動する。
「充電用の汎用コネクターはリビングの隅にある」
部屋を出る前に振り返って指差してやる。
「存じ上げておりますわ、マスター。私はアリシアですよ?」
翌日、リビングに向かう。
アリシアがスタンバイモードから起動、キッチンへ移動してシェイカーにプロテインと水を入れる。冷蔵庫にしまっておいたパックゼリーを取り出し、シェイカーを振りながらダイニングテーブルにやってくる。
座った俺の前にシェイカーとゼリーを置き、ピルケースを持ってくる。
「本当は、ちゃんと食べていただきたいのですけども」
「……まあもうムリだな」
俺はプロテインでざらざらとサプリを流し込み、ゼリーを一気に吸う。パックを丸めたところでアリシアが手を差し出してきた。その手を軽く握ってやる。
「……違います」
ため息をついてパックを渡す。アリシアはプロテインシェイカーも回収しキッチンへ向かう。
「本日のご予定は?」
「朝、ちょっと放棄地へ行ってくる。そのまま出社で、通常帰宅予定。当日中に戻ってこれれば万々歳だ」
アリシアは少し寂しそうに微笑む。
「無理しないでくださいね」
「留意しよう」
心のなかで舌を出してから洗面台に向かい、うがいをして髭を剃る。
スーツに着替え、頬を両手で張る。さあ気合を入れろ。戦闘開始だ。
静岡から放棄地に向かうには電車で横浜まで出て、そこからは陸路というか水路というか、まあ面倒くさいルートを通ることになる。
今年は既に水位が一メートルを大きく超えている。おかげで小型ボートが使えるようになってラスト一マイルは実に楽になった。
問題はそこにたどり着くまで。横浜からタクシーを捕まえて水際まで移動、そこからは半分濡れながらのゴムボートタクシーを使い、さらに深いところで小型のボートタクシーを捕まえてまた乗る。
最後の建物への乗り込みは上手いことボートが横付けできればいいのだが、そこは運だ。
今回は、大吉。腕のいいボートタクシーを捕まえた。先生のアパートにきっちり横付けされた。
今はちょうど満潮時で二階に直接乗り込める。
「あ、すぐ戻るのでちょっとまっていてもらえるかな?」
ボートの兄ちゃんは頷く。荷物のうち水着と掲載誌を持って先生の部屋へ行く。
「こんにちは、中津川先生!」
先生の部屋は三階にある。ドアはいつも開け放たれている。
「おう、田沢か。入れ入れ」
中からぬっと筋肉質の中年男性が出てくる。この先生との付き合いは就職直後からだからそろそろ十年――いや十年と数えていいのかはちょっと考える必要があるが――最初は弊社の英雄と聞かされていたので会うまではかなり緊張していた。会ってみると気さくで穏やかな人だ。
「掲載誌と頼まれていたものをお持ちしました。領収書等の処理はいつもどおりしておきます」
「ああ、ありがとう」
中津川先生に掲載誌と水着を手渡す。
「おお、これはなかなかいいね」
広げて前後ろを確認して喜んでいる先生を見ると、嬉しいことは嬉しいのだが、ちょっと心が痛む。
「今日までの原稿、頂いていきますね」
「ああ、持っていってくれ」
万年筆で丁寧に手書きされている原稿用紙をもらう。かばんに大切にしまい込む。
「では私はこれで」
「え、もう帰るのか?」
「ボートタクシーを待たせているんですよ」
「わかった。また連絡する」
中津川先生に礼をすると俺は彼の家を後にした。
六月の日差しはすでにギラギラと厳しい。今日は梅雨の晴れ間というか既に猛暑だ。放棄地のあたりは水があるからまだいいのだが、静岡まで戻ってきて会社に移動する間の短い時間でもクラっとくる。
体力が落ちてきていることを実感する。
まだ、だ。
その思いで無理を通す。
肩で息をしながら日陰へ移動する。
世界が回る。
日陰にあってもかなり熱いビルの躯体によりかかる。吐き気と闘う。
人通りはそこそこあるが、フラフラとしている俺を避けている。
世界が歪み始める。
まだだ。これくらいなら乗り越えられる。かばんに水が入っているはずだ。
かばん、かばんはどこだ?
世界から色彩が消える。
「マスター!」
アリシアの声が遠くに聞こえる。
アリシアに抱きかかえられ、バス停のベンチに座らされる。
「失礼しますね」
ネクタイを緩められ、シャツのボタンを上から二つ外すアリシア。そのあと両掌で俺の首をそっと包む。
「冷たすぎたら言ってくださいね」
アリシアの掌が冷たく感じる。吐き気が治まる。
「……助かったよ。それにしても」
「マスターの腕のスマートウォッチはヴァイタルチェック機能があります。スマホと連動して私にそのデータを送信してくれます」
周囲の人がアリシアを見ている。というか見とれている。
「アリシア、すまん。もう大丈夫だ」
アリシアは俺に抱きついた。
「いつも私はマスターを見ています。でも、無茶はしないでくださいね」
耳元で囁かれた。アリシアをそっと抱きしめる。
「ああ、約束する。無茶はしない」
無理はするがな、と心のなかで付け加え、アリシアの背中をそっと撫でる。
「さて、会社に戻らねばならん。ありがとう、アリシア」
「はい」
アリシアに別れを告げ、会社へと向かうことにする