誰かが死ななきゃ分からない世界
自殺や中傷に関するお話です。
苦しい気持ちになってしまう人は読むのを避けてください。
「ちょっと待ってください?自殺しようとしてます??」
歩道橋の上に立ち止まっていたからって突然そんな事を言われれば、誰だってドギマギするもんだ
「違いますよ」気まずそうにその場をさっさと立ち去るのも普通。
俺がその普通を実行しようとしたら、声を掛けてきた女は慌てて俺の腕を掴んだ。
「本当に?本当に自殺しようとしたわけじゃないんですか?」
そう言って俺の目の中をぐいと覗き込んでくる。
気味の悪い女だな。
俺は腕を払おうとしたが、この細い体のどこにそんな力があるのか女の拘束はガンとして外れない。
「いったい、なんですか!?離してください」
「何で自殺するんですか?」
どうやら女の中で俺が橋から飛び降りる心積りであったのは決定事項になったらしい。
「もったいないと思いませんか?」
腕にきゅっと指が食い込む。真剣な声色に改めてそいつを観察する。正義感に満ちた瞳、意志の強い口元、自身の性質を示すかのような真っ直ぐとしなやかに伸びた黒髪
赤の他人に対して一生懸命なその姿勢
ーー反吐が出そうだ
「それってあなたの意見でしょ?
世の中には、死にたくて死にたくてしょうがない奴だっているんだよ。
生きたくても生きれない人の気持ちを考えろよ、失礼だ、この恥知らずが、死にたい人間はそう言われてどうすりゃいいんだ
つまり、黙ってろって事だろ。余計なことすんなって。
死にたい死にたいって思いながら生きてればあんたらは満足なんだ、実際どうでもいいんだ、他人の幸福なんてどうでも良くて、ただ自分が不快な思いをしなくて済んでよかったなあ、自分は大多数の側で良かったなあって
そんな自分勝手な価値観で、あんたの物差しで勿体ないなんて傲慢にも程があるんじゃないですかね」
言葉尻は消えていった。顔が嫌悪感よりも人前でわめいてしまった恥ずかしさで顔中が熱い。この女があまりにカンに触るから、予想外に勢いがついてしまった。
喉がカラカラと乾いて、嫌になって目が痛くなってくる。
けれど、ここまで言ったのだ。流石に人の感情に疎そうなこの女もどこかへ帰るだろう。
そう、それが普通だった。
女は静かになって俺の腕を離し家に帰って、家族か友人か恋人かに俺のことを話すのだ。そして、その優しい友人達や家族や恋人は「あなたは悪くないよ」「何そいつ、嫌な奴」そう言って俺を貶すことによって女を慰めるのだろう。
俺だって女に話しかけられなければ、しつこく付き纏わられなければ嫌な奴になる事もなかった。
ーー自己嫌悪で嫌になる
しかし、普通の女は思わぬ反撃を受けても一向に堪えない…否、寧ろ先程までよりも生き生き目を瞬かせ、快活な声をあげる。
「あなたこそ、私の求めていた人材です!!
私に貴方の自殺をプロデュースさせてください!!」
シャワーを浴び終えて居間に戻ると、携帯がいつものように点滅を繰り返していた。
通知音は煩いので消している。
体は火照って自然と欠伸が出た。
心地よい感覚だ。
ベットの上に転がり手足を伸ばす。体はまだ濡れているが大して気にならない。ちらりと首を傾けベットサイドのテーブルに置かれた時計を見た。
11:45。
あと15分だ。
27年生きてきてこれ程穏やかな心地になったのは初めてだと思う。
普通にみんなは生きているのに、俺だけとんでもない重力で喉を潰されて呼吸ができないーーそんな感じだった。
世の中幸せそうな人間はたくさんいるのに、なんで俺はそうできないんだろう。そんなどうしようもないことを考えてまた体中が気味悪く歪んで、溶けて、また固まり出す、そうやって生きてきた。
自分の顔がニヤけていることに気づいて、その事にまた苦笑する。
それから、あの日ーー行き来する車の流れに身を投げようとしていた6年前のあの日の事を、俺の友人の事を考えた。
「これは冗談なんかじゃありませんよ。
私は貴方を止める気はありません。
それに、貴方に色々と口を出す権利もないでしょう。
だから、これは提案です。
どうせ死ぬなら、ビックに死にましょう!!
私と改革を起こしてほしいんです!」
友人は深夜のファミリーレストランのボックス席で俺の両手を力強く握りしめた。
あの時の強引さは友人の本質で、今でも全く変わっていない。
そいつの事を考えて、また笑みが溢れた。
こんな日が俺に来るとは思わなかった。
誰かを想って笑えるような夜があるなんて。
胸の中にじわりと広がる温もりに微かに息を漏らして、また時計をちらりと見る。ーーあと5分。
1秒1秒を正確に刻むデジタル時計に小降りの瓶が寄り添っていた。
私には妹がいる。
可愛い顔で甘えっ子で皆んなに愛されるような、変人な私とは正反対の妹。
意外に思うかもしれないが、私たちはとても仲の良い姉妹だ。寧ろ、正反対だからこそ上手いことはまったのかもしれない。
そんな妹も持ち前の明るさとずっと頑張ってきた歌唱力で芸能界に登壇してからは中々会えない日々が続いた。
私も私で留学していたので、家を出てから直接会えたのは1、2回ぐらいだったが、ビデオチャットでお互いを鼓舞し合っていたので会ってないっていう感覚は薄かった。
妹から連絡が来なくなっても「忙しいんだろうな」と私はそんな事を思っていたのだ。
久しぶりの日本は流行とかはそりゃ変わっていたし、街中の広告の俳優達は知らない顔ばかりだったけど、根本的には変わっていなかった。
故郷の空気を一杯に吸い込んで、それから私は両親から知らされなかった事を知った。
私の相棒は荒唐無稽なそれにぽかんと口を開けて私を見返した。
そりゃ自分でも初めて会った人間にこんな唐突に突拍子もない事を言って何をしているんだと思う。
それでも、あの歩道橋の上で彼の言葉を飾らないその本心を聞いた時、この人しかいないと思ったのだ。
「でも、妹は生きてます。
だから、世間は何も言いません。
だから世間では何事も無いのです。
妹が罪でも何でも無いことで追い込まれたことも。
大罪のように何の権限もない赤の他人が妹に一方的に判決を下した事も。
妹が、あんなに明るかった妹が自ら死を望んだ事も。
誰かが死ななきゃこの世界は気づかないんです。
狂っている事に気づかない
そこに泣いている人がいる事に気づかない
その人たちを踏みつけて笑っている自分に気づかない
でも、私には妹をーー幾つものコードに繋がれて眠ったように生きている妹を殺すことなんてできません。
だから、貴方に託したい。
生とは尊いものです。
そして、死もとても尊いものなんです。
貴方の欲した死で苦しんでいる声無き声を救ってください。
その誰かの幸せのために」
彼は私の計画に賛同してくれた。
それから私の計画のために一緒になって懸命に努力してくれた。
そして、それこそドラマを見ているかのようにその努力の結晶が崩れていくのをーー私の計画が実行されていくのをーー見た。
一つのニュース速報が携帯をピロンと鳴らす。
頬に何かが伝う感覚、朝日が私を照らしていた。
ああ、私の友人が死んだのか。