本当のこと
「…………!? ふわっぁ……!? あうっ」
あまりの驚きで、膝の上の小公爵ごと立ち上がろうとして失敗し、ぺたんと尻餅をついたリュミエール。
「……どうした、いきなり飛び上がって」
「ご、ごめんなさい……な、何でも」
(そのままでいい、私の話を聞いて欲しい)
(は、はぁ……)
レクシオールに首を振り、目を白黒しながら座り直すリュミエールに、小公爵は真摯な瞳のまま語りかけた。
そうは言われても、彼女には頭の中の声と目の前の存在がどうも結びつかない。
(困ったわ……。幻聴や幻覚ではないの? いたたたた……)
(何だ、疑っておるのか? では踊って見せよう。ホレ、ホレ)
手の甲をつねって痛みが感じられるのを確認していると、小公爵は体をくねらせ妙なダンスを踊り出す。
「ぶふっ……げほごほっ!」
「何だ、急に騒がしくして……先程から様子がおかしいぞ」
「い、いえ……ちょっと緊張して咳き込んでしまっただけです! ごほん……も、もう大丈夫ですから!」
「……そうか」
あまりのシュールさに吹き出した彼女は、訝しむレクシオールを無理やり取りなすと、小公爵をもう一度膝の上に持ち上げ、頭の中で語りかけた。
(もしかして、私が考えていることがあなたには伝わっているのですか?)
(……そういうことのようだ。私にも詳しいことは分からないが、聖女の血筋が関係しているのかも知れぬ。しかし、よくあやつをここまで引っ張って来てくれた……礼を言おう)
(もしかして……あなたはお亡くなりになったはずのレクシオール様のお父上なのでは?)
その深い響きを持つ声はレクシオールのものとよく似ており……リュミエールは、小公爵をあやすふりをしながら彼の言葉が帰って来るのを待つ。
(……ああ、その通りだ。私はそこにいるレクシオールの父、前ハーケンブルグ公爵コーウェンだ)
(…………そう、なのですか)
にわかに信じられず、リュミエールはレクシオールの両親が眠る墓石に視線を投げた。確かにその表面に綴られているのは彼の名前だ。
しかし……聖女の血筋であり不可思議な現象に慣れ親しんでいる彼女ですら、死者の魂が他のものに宿り、またそれが語りかけてくるなどという話は聞いたことが無い。
(これ……呆けるでない)
(すっ、すみません……でも本当に、本当なのですか?)
気が抜くとそのまま声を出してしまいそうで……。
口を両手で覆いながらリュミエールは膝の上の小公爵と頭の中で会話を続けてゆく。
(コーウェンとして生きた四十年余りの記憶は私の中にある。真実は分からないが……両親を立て続けに失った息子を憐れに思い、神があやつの成長を見守る時間を与えくださったのだと、私はそう思うことにした。幸い、良き臣下や友人に恵まれ、あやつはなんとかやっていけるようになった……それは喜ばしいことだ。だが……)
フレデリクがいつも彼のことを気にかけていたのは、その時のことがあったからなのだと、リュミエールは納得する。
だがあの気のいい青年も、「いつまでも彼のそばにいてやることはできない」と話していた。いつかは別れの時が来るし、自分では彼の深い心の傷を癒してやることはできないと悟っていたのかも知れない。
(……父として、心残りがあるとすればやはり……未だあやつが私達の死に囚われていることだ。急過ぎた為、ろくに整理もつかぬまま、あやつは自分の気持ちを押し込めて私の後を継ぐしかなかった。あいつの中ではまだ、私達との別れが中途半端なわだかまりとなってしこりのように残ったままなのだろう……)
(レクシオール様にあなた様のことをお伝えした方がよろしいのではないのですか?)
(やめておいてくれ……。日々少しずつだが、表に出られる時間は少なくなっている……いつか消えるというのだから、何度も辛い別れを息子に味わわせたくはない)
(そう……ですか)
小さく首を振った小公爵にリュミエールは何も言えなかった。
リュミエールでも、彼がいなくなればきっと寂しいと思うのに……ましてや血の繋がりのある大事な家族だったなら、身を切り裂くような痛みを味わわせることになるのだろうから。
(だからリュミエール、今こうして話しているのが最後の機会かもしれないのだ。どうか、あと一つだけ私の望みを聞いてもらえないだろうか。あやつに母の……レジーナの本心からの言葉を伝えてやって欲しいのだ……)
彼はその体を持ち上げると、小さな頭を深く下げた。
(レックスが最後に母に会ったのは、領内に帰って来た直後の一度だけのはずだ。あやつも私も結局レジーナの死には立ち会えなかったからな。葬儀の後も誰の話も耳に入らないような状態が続き、妻を失くして悲嘆にくれていた私はあやつに、つい強く当たってしまった……)
口惜しそうな声音から彼のままならない思いが伝わり、胸が締め付けられる。
(不運は続くものだな……お互いに和解できぬまま、私はある日事故で命を落とした。本当に親として伝えるべきことを伝えられぬまま、私達は……)
そっと目を閉じ体を震わせる小公爵の背中を撫でながら、リュミエールの目は潤んでいた。
(もう少しだけ、時間があったなら……わかり合うこともできたかも知れないのに……)
リュミエールはこの家族の行き違いが悲しくてならなかった。
皆がお互いの事を大事に思っていたのは、確かなはずなのに。
彼女のように愛情の無い家族の元で過ごしたわけでは無く、お互いを思い合う気持ちのもつれと不幸が重なり、幸せは最後に歪んでしまった。
(――もし私だったら……。私は彼にどうなって欲しいの?)
リュミエールは自分の胸の中に問いかける……今だけではなく、彼とこの先どうして行きたいのか。
レクシオールは、あの日自分の事をあの家から救い出してくれた。
つらく当たる家族達から引き離し……リュミエールに暖かい居場所や食事を与えてくれて、してもしきれない感謝の気持ちが胸の中にある。
でもそれだけではないと思う……ふとした時に見せる自然な笑顔や、自分を犠牲にしてでも周りの人の為に尽くす気高さや、たまに見せる優しい気遣い……。
(そうよね……私は彼が、きっと好きなのよね)
彼のそんな所に惹かれている自分がいる事をはっきりと認識して安心し、リュミエールは決意とともに頷く。
(……話して下さい。私、レクシオール様を隣で支えていきたいんです……彼と一緒に幸せになりたい。彼がこの先一人になろうとしても、絶対に私だけは傍に……いますから!)
(そうか……ありがとう)
小公爵のブルーアイが柔らかく瞬き、彼の小さな両手がリュミエールの手のひらを挟んだ。
(レジーナはな……小さな頃、くっついてばかりだった息子を、どこか自分の弱さを受け継いでだのではないかと心配していた。もし同じ病にかかってしまったらと思うといてもたってもいられず……だからああして、一番つらい方法で息子を遠ざけたのだろう……)
レジーナの思いが全てレクシオールのこの先を憂いての事だったのだと話を聞いて理解すると、リュミエールは口元を覆ってうなずく。
こうしてこらえないと、思わず嗚咽が漏れそうになってしまう。
(大きくなった後も、あいつの心配は尽きなかった。あんな朴念仁に嫁は出来るのか……一方で変な女に引っかからないか。苦手な食事も克服したのか、気の合う友人は出来たか。過保護なことこの上ないが、その気持ちは痛い程伝わって来たよ……私も同じ気持ちだったから)
そして小公爵はその一言をリュミエールの頭に響かせた。
(『どうか幸せに』……それだけをレジーナは願っていた。こんな血筋に生んで多くを背負わせ、ずいぶん苦しめてしまったけれど……血筋などに負けずに、また誰かを愛し支え合って幸せに生きて欲しい。……そうレックスに伝えてやってくれないか、小さな聖女よ)
(……分かりました)
にじむ視界に手を伸ばして、リュミエールは小公爵を抱きしめる。
胸が苦しい……こんな風に想ってもらえる彼が羨ましく、そしていたましい。
本当はリュミエールも、こんな風に家族に大切にしてもらいたかった。
「なんだ、お前。どうして涙など……」
「違うんです……」
レクシオールが下を向き覗き込んで来たので、リュミエールは頬を拭いながら顔を上げる。
――こんなに不幸で、こんなに幸せな人っているかしら……。
涙で滲んで良く見えないが、きっと彼は変えない表情の中で、こちらを心配してくれているのだろう……優しい人だから。
「仕方のない奴だな……む」
ハンカチを使ってしまったのを思い返したレクシオールは、リュミエールの涙を服の袖口で拭ってくれた。それでも、後から後から流れて来て止まらない。
(――きちんと伝えなきゃ)
リュミエールは深呼吸して、嗚咽が収まるのを待つ……。
少しして、傍らにしゃがむレクシオールが暖かい手を背中に置き……それに押されるように決心してリュミエールは口を開ける。
「あの、お話を聞いて下さい。……私、聖女だからか……たった今レクシオール様のお父上と、お母上の声が聞こえたんです。二人が最後に……あなたに伝えて欲しいことがあるんだって」
だが、レクシオールは首を横に振り、信じようとしない。
「……そんなことがあるはずがないだろ。ふざけているのか?」
「ふざけてなんかいません!」
つい大きな声で喚くようにしたリュミエールに、レクシオールの顔も険しくなる。
「いい加減にしろ……普通に考えてもおかしいだろう。二人はもうこの世にはいない……それを悪戯に穢すような真似をするなら、いくらお前でも許さない。話はそれだけなら、俺は戻るぞ……。やはり俺は……二人に向ける言葉が見つけられない」
「ま、待って……!」
「ウゥ……!」
立ち上がろうとした彼を、飛び上がった小公爵が顔に貼りついて止めた。そして彼はリュミエールに鋭く言葉を飛ばす。
(このわからずやめ……では思い出させてやれ……! こやつの恥ずかしい記憶を!)
(は、はいっ!?)
慌てながらも、リュミエールは彼の話す内容を大きな声で復唱し始めた。
「は、八歳の頃! 父親の隠していたブランデーを盗み飲んで酔っ払っておねしょして、後で大目玉をくらったこと!」
「――ッ!?」
途端にレクシオールの顔が真っ赤に染まる。
「十歳の時、農場で飼育されている豚にズボンを破かれ、お尻を丸出しにして泣きながら帰って来たこと!」
「お前っ……おい!? 誰から聞いた……城の者か!? フレディか?」
「違います……あなたの両親からですってば! 聞いて下さらないなら、まだまだ続けますよ! 小さなころはお絵かきが好きで、お城の大理石まで落書きをして罰で一晩牢屋で反省させられたり……幼い頃は女の子みたいに可愛かったから、お城の侍女に褒められて気を良くしたあなたは将来お姫様になりたいと言ってお父様を困らせ……」
「待て待て待てもういい! 聞けばいいんだろうが! 聞くから! あ~……くそっ」
余りのことに、銀髪を振り乱して頭を抱え、その場に座り込むレクシオール。
「なんなんだお前は……。俺は今死にたい気分になったぞ……」
「何でもいいですから聞いて下さい!」
そんな彼にすがりつくようにして、リュミエールは瞳を見つめ、語りかける。
「お母上、レジーナ様はあなたを立派な領主にすることばかり考えていたと、あなたはそうおっしゃいましたけど、本当は違うんです! レジーナ様は、ご自分やお父上が亡くなった後のあなたのことだけが心配で……。限られた命の中で別れが訪れるまでに立派になって、支えてくれる素敵な人を見つけられるようにって……わざとあんな態度を取ったんです」
真剣さがやっと伝わったのか、レクシオールも口を挟むことは無く、俯いたままだ。
「そして、お父上も……気持ちは同じで。二人とも遺されるあなたのことが、心配で何よりも大切だったから……厳しいことを言ってまであなたの成長を促したんです。今から言う言葉を、しっかり聞いて下さい……」
そしてリュミエールはレクシオールの肩をつかむと……精一杯伝わるよう心を込めて、二人の最後の言葉を彼に送った。
「『どうか幸せに』……って。それだけを願っていると、伝えてくれってお二人は……」
「……そんな、そんなことを……今更信じられるか!」
だがは彼は顔を背けて拒絶する。
リュミエールにも受け入れられない気持ちはわかった……レクシオールはこの数年、ずっと分かり合えぬままこの世を去ってしまった両親に負い目を感じ、必死にその期待に応えようと自分を犠牲にして来たのだ。
でもそれは二人の本当の願いではない……それをどうにかして伝えたくてリュミエールは必死で言い募った。
「レクシオール様……! あなたは、どうでしたか? お母上とお父上の事を、嫌いだったのですか?」
「そんなもの――大好きだったに決まってる! 俺が二人に……どれだけ生きていて欲しかったと……」
「――ならわかるでしょう! 二人の気持ちが……。お願いです、もうお二人から逃げないで下さい!」
リュミエールの叫びに、レクシオールは衝撃に打たれたように胸に爪を立て……そして小さく呟いた。
「……だって」
蒼い瞳から透き通った雫が一筋流れて顎を伝う。
彼はよろめきながら、倒れ込むように墓に近づくと汚れるのも構わず地面に膝をついた。
「だとしたら……俺はただの親不孝者じゃないか。二人の墓前にも訪れずに、こんな年齢まで一人で……もし二人がお前の言った通りで、こんな不甲斐ない俺を見ていたなら、どれだけ悲しんだことだろうな」
「いいえ……」
リュミエールは彼の隣に膝をついて微笑む。
「本当にそう思いますか……?」
「……?」
辛そうなレクシオールを、リュミエールは後ろから包み込むように抱きしめる。
「こんなに立派になられて……。しっかりと沢山の人を支えて守っているをあなたを見て……お二人が喜んでないはず、ありません。私もあなたに助けられました……この領地の多くの人達も、あなたの元で仕えることをきっと誇りにしています」
「こんな俺を……?」
「ええ、絶対に。ですからレクシオール様が今、何を考えているか……お二人に教えて差し上げて下さい」
「俺の……気持ち。……ああ」
彼は涙を拭うと立ち上がった。
二人が眠る墓の真正面に立ち、背筋をしっかりと伸ばし胸を張った彼は、とても立派で美しかった。瞳にも強い光がまた戻っている。
「俺は……両親を相次いで亡くし、自分が世界で一番不幸なのだと思い込んだ時期もあった。けれど、そばにいる友人も、臣下も誰一人俺を見捨てようとはせず、こんな若造を大切な跡取りとして盛り立ててくれた。だから俺はここまで、逃げることなくやってこれたんだ……。子供の頃の楽しかった時間に戻れたら、二人がいた頃に戻れたらとそう思うことも確かにあったけれど……。そうか、今わかった。俺はもう今充分に幸せなんだって……」
そうしてレクシオールは、今までで一番素直な笑みを見せた。
「母上、父上……あなた達に感謝を。長い間見守っていて下さってありがとうございました。もう俺は、大丈夫です……。あなた達以外にも大切なものができたと、わかったから。……リュミエール、来てくれ」
一歩引いてそれを眺めていたリュミエールは、レクシオールに腕を強く引かれ、彼の隣に並んだ。
「きゃっ……あ、あの?」
「ほら、しゃきっとしろ。……父上、母上。紹介します……こいつが、俺の婚約者です」
びくっ、とリュミエールは固まる。
まさかたった今、こんな宣言をされるとは思わなかった……彼の父が宿る猫の前で。
しかもそれには続きがあった。
「たまに妙なことを言うおかしな奴で、泣き虫だけど……俺は嫌いじゃない。だから、こいつと一緒になろうと思ってる」
「……ぇぇぇぇ」
……今、言うんですか!?
急にそんなことをレクシオールが言い出したので、リュミエールは茹で上がったように真っ赤になる。
「なんだ、お前はその為にこの家に嫁いで来たんだろうが……」
「そ、そうですけど……。あらためてはっきり言われると……その」
先程の決意がどこかにいってしまったように、リュミエールは目線を忙しなく動かす。
「今更恥ずかしがっても遅いぞ……フフ」
ふっきれたような彼の穏やかな笑顔が眩しい。
暖かく見つめてくる切れ長の瞳に信じられない思いで、リュミエールは再度尋ねる。
「わわ、私なんかで……」
「面倒な女だな、俺が嫌か? なら無理にとは言えないが……」
「違います! 決して……!」
「ならいいだろう。お互いの事はこれからもっと知っていけばいい……。ほら、お前も何か言ってやってくれ」
小公爵も墓の隣で期待するようなまなざしで見上げている……彼に言葉を伝えられるのはこれが最後かもしれないのだ。
(えっえっ、えーと……ご両親に心配しなくていいって伝えなくちゃ!!)
リュミエールは額に汗を浮かばせながら勇気を振り絞り、全力で自分に今できる最大限の約束を誓う。
「あの……あのっ! お二人とももう大丈夫です! 私、一応聖女ですから、彼と相性はばっちりだと思うんです! 絶対彼を幸せにしてみせます!」
「ッ、ハハ……よく言った! アハハハハハ!」
レクシオールはおかしそうに、だが本当に嬉しそうにリュミエールの背中を叩き、そして彼女を掬い上げるように抱き上げる。
「わ、わっ……」
「父上、母上、俺を生み育ててくれて……大切な時間をくれて、ありがとう。それじゃ、また……」
それだけ言うと、彼は踵を返しリュミエールを連れて城へ戻ってゆく。
肩越しに覗いた墓の前では、小公爵が見送る様に佇んでいて、彼は最後に一つだけ鳴いた。
(……息子をよろしく)
……そう聞こえたような気がしてリュミエールが頷くと、小公爵は姿を消し……また涙ぐみそうになって彼女は公爵の胸に顔を埋めた。




