◇在りし日々〈レクシオール視点〉
◆(レクシオール回想)
『……レックス、あまりここに来てはいけないと言っているでしょう。こほ……、こほ』
『母様……今日俺は、貴族学校の剣術大会で優勝したんですよ! ……褒めては下さらないのですか』
十三歳位の頃だっただろうか。
俺は領内の貴族子弟が集う学校にて行われた剣術の大会で、優勝したことを母に祝ってもらおうと父の言いつけを破って病室を訪れた。
母は、永く病を患っている。
熱が人並より低くなり、体力がどんどん落ちて行ってしまう病気で、寝たきりの状態がもう数年も続いていた。
元々体が弱い人ではあったが……こちらの寒い気候も相俟って、病魔はより彼女の体を蝕んでいる。
母の生家は国の南方の比較的温暖な地域だ。俺も父も何度もそちらに移って静養するよう勧めたのだが、一向に聞きいれてくれる様子が無い。
『それはようございました……きっと、あなたもゆくゆくは御父様のように立派な公爵位を継ぎ、この領地をまとめてゆくのでしょう。さあ、うつるといけませんから、長居してはいけませんよ』
母は俺の言葉を聞いて少しだけ笑顔を見せたが、その後はまるで素っ気なく俺を追い出そうとする。
俺には、なぜ母がこんなに頑ななのかがわからないでいた。
『母様、俺は……母様に病気を治して欲しい。この気候では体温は奪われ、どんどんと体が弱って行くばかり……。南は温暖で体に良い作物も育つと聞きます! そちらにお移りいただいてお健やかな生活を送り、俺達を安心させて下さいませんか……?』
『ふふ……レックス、ありがとう。でもね、この病は治るものではないのですよ。……わずかばかり永らえたと言って愛する家族の顔も見れず、何も残せず一人で寂しく逝くのであれば、何の為に生きているのかわからないではありませんか』
そう言って、母様は儚い笑顔を見せる。
『お前が頑張っていることは、父上やお医者様から日々伺っています。だかそれだけで私には十分なのですよ。でもね、もしお前までこんな病にかかってしまっては……私がどれだけ悲しむか、わかってくれるでしょう?』
『……ですが』
『ですがではありません。公爵家の男子たるもの、体だけではなく、心も強くあらねば。城のものや領内のもの、多くの生活をこれから支えてゆかなければならないのですから。こんな女の死一つで心を乱していては、到底つとまりませんよ?』
『…………』
『強くなって、レックス。母を安心させてちょうだい……私がここからいなくなるその時までに……』
『――失礼しますッ!』
俺は乱暴にドアを閉め、病室から逃げ出すように走りだす。
認めたくはなかった。母が長くないこと……それを受け止める準備をしていかなければならないことを。そんな簡単に割り切れる訳もない。たった一人の母親なのだ……。
生きていて欲しい……せめて自分が成人し、父の後を継いで立派に皆を守って行ける事を見せて、安らかな気持ちで眠って欲しい。
なのに、どんな名医も母の病の進行をわずかに遅らせることしかできず、死は着々と近づいている。
『――うわぁぁぁぁぁ!! ああっ、ちく……しょう、どうして誰も、母様を救ってくれないんだ……!!』
俺は城壁への階段を一気に駆けあがると、隅の方で腹の中の思いの丈をぶちまける。見張りの兵士がぎょっとして彼を見つめたが、どうでも良かった。
ただただ悲しくて、悔しくてやりきれない。
……背も体も大きくなり、同年代の少年達から羨ましく思われるような成績を修めようと、一番大切な物がこの手には残らないのだ。
『――強くなりなさい』
母の言葉がずっと耳にこびりついて離れない。
(急がなければ……母様の望みを、叶えるんだ)
誰にも負けない評価を手に入れる……母がいなくなる前に俺がしてあげられる事は――もうそれだけしか残されていない……。
――その頃から俺は母に会いに行くことを止めた。
勉学や武芸の鍛錬に明け暮れ、中等部の貴族学校を卒業後は生家を離れて王都にある宮廷学校への進学を選んだ。
数日に一度は必ず手紙を送る……自分が立派になって戻るまでに、少しでも体が良くなってくれることを願いながら。
限られた人間しか入学できないその場所で多くの学友と競い合い、次期公爵としてふさわしい人間になろうと為必死に努力を続ける毎日。
嫉妬して足を引っ張ろうとする者も大勢いたが……フレデリクや他の友人の助けや、格の差を見せつければ自然と消えていく。それでもまだ嫌がらせを続けるような邪魔な奴には、次期公爵の肩書でも使えるものは何でも使って黙らせた。とにかく必死だった。
そんな三年間はあっという間に過ぎ、弛まぬ研鑽のかいもあって、俺は国中の有望な人材が集まるその場所を首席かつ、歴代最高の成績で卒業した。快挙だと賞賛され、国王陛下から直接お褒めの言葉も賜った。
一カ月前に届いた父からの手紙には、母の容体は以前と変わらずくれぐれも心配しないようにと書かれている……
(間に合ったんだ……後は領地に戻り、公爵位を立派に継げることを証明できれば、母を安心させてやれる……! そうすれば少しは体も楽になる……)
誇らしい思いと、何もかもうまくいくはずだというそんな期待を胸に抱きつつ、俺は王都からの帰省の道のりを辿る。
帰還して一番に訪れるのはもちろん母のいる病室だ。
意気揚々とそこを尋ねた俺は驚いた……。
部屋は空っぽになっており、シーツや調度品なども全て新しいものに変えられている。
母がいた痕跡はどこにもない。
(場所を、移したのか……?)
俺は部屋から出ると、療養所内で母の世話をしていた医師を探そうとしたが、それより早く看護人達の声が耳に届いた。
『……奥の部屋のレジーナ様、日に日に痩せて来られて、あれでは……』
『駄目よ……まだ坊ちゃまも帰られていないのだし、なんとしてでも保たせて……』
(――ッ!?)
それを聞いて氷で突き刺されたかのような感覚が胸に走り、一番奥の突き当りの部屋に向かって駆け出すと扉を乱暴に開ける。
そしてそこで見たのは、ベッドの上で骨と皮ばかりになった母の姿だった。
『母様……?』
手紙では、病状は進行していないということでは無かったのか……?
こんな……。
かすかなうわごとが母の口から漏れる。
『あの子の声が……。こんな所にいるはずが無いのに……』
『どう……して?』
『レクシオール様……どうしてこちらに!』
後ろから慌ただしく入って来た医師の胸倉を俺は掴み上げた。
『ふざけるな! どうして……こんなになるまで知らせなかった!』
憎しみの籠った俺の目付きにも怯まず、医師は強い口調で事実を告げる。
『――レジーナ様より、私達もお父上も堅く口止めされていたのです。レクシオール様が心置きなく勉学に集中できるできるように……。あなたが将来この地を継ぐのにふさわしい人間となって貰うために』
『そ、そんなことの為に……!』
怒りのままに医師の背中を壁際にぶつけ、部屋が軋んだ。
だが彼は抵抗せず、覚悟のある瞳で俺をじっと見つめ返す。
そしてかすれた声が再び届いた。
『レクシオール……?』
『母様っ!』
俺は放り捨てるように手を離すと、寝台に駆け寄り彼女の手を握ろうとした。
だがその手は触れた瞬間に強く弾かれた。
『いけません! 来てはいけないとそう言ったはずです! ごほっ、ごほ……!』
『母様!!』
『離れなさい!』
母は急に目を大きく見開くと、はっきりした声で俺を拒絶する。
たったそれだけの事で息が切れ、目は虚ろでこちらを捉えてすらいないというのに……。
『どうしてこの子がこんな所に来ているのです、ウェスティン医師! この子を早くここから連れ出して下さい! 去りなさい、レクシオール! げほっ……』
『ど、どうしてそんな酷いことを……聞いて下さい、俺は宮廷学校を首席で卒業し、ハーケンブルグ公爵家の息子がここにありということを証明して帰ってきたのですよ! それなのにまだ、母様は俺のことを認めて下さらないのですか!』
『それが……どれほどのことだというのです! 学校を卒業したのならば、すぐにお父様についてこの領地を保つ為の仕事を学ばなければ! こんな半死人の元で無駄にする時間はありません! この先、領内の民全てをその肩で支えていかなければならないのですよ……!? わかって……げほっ、げほっ!』
『いかん……落ち着いて下さい! 薬を……』
ひどい咳をする母の元に走り込んだウェスティン医師と看護人が背中をさすり薬を飲ませようとする中、俺はやっとで言葉を絞り出す。
『母様……母様にとって俺は、なんなのですか! 顔も知らない多くの民の為に、母を捨てて尽くせと……? 人形でも道具でもあるまいし、そんなことできるはずが無い!』
たった一人の実の母親の苦しみに、寄り添うことされ許されないなど……どうしてそこまでして俺を遠ざけようとするんだ。
しかしその言葉に対しても、帰って来たのは冷たい拒絶の言葉だけだった。
『レクシオール……もう二度とここへ来ては、なりません!』
『……レクシオール様、これ以上はお母君の体に触ります……』
腕を抱えた医師が退室を促し、俺は感情を制御できずに言い放つ。
『母様……ちくしょう! 俺はもう……あんたなんか、知らない!』
そのまま医師を突き飛ばすと、俺は扉を肩で押し開けて出て行き、城内を走り抜ける。ぶつかりそうになる人達に強引に道を開けさせ、俺はまた城壁の壁の上にやって来ていた。
そしてそこで力の限りわめき散らす。
無念さと自責の念、何も出来ない自分への嫌悪……色々な黒い感情が渦を巻く。
今度は見張り達も見ないふりをしてくれたが、いくら叫んでもそれは一向に晴れることは無かった。
――それから数日、抜け殻の様になっていた俺は父の元に伺い、仕事の手伝いを始めた。
大分痩せた父は以前の面影も無く、疲れた顔をしていたが……息子だとて加減はせず、仕事を厳しく叩きこんでくれる。それが……何もかも忘れてしまいたいと願う今の俺には、丁度心地よかった。
こうして何も考えずに過ごせば……その内……。
そこから先を考えないように必死に目を逸らし続ける……そうしていなければ耐えていられない。
しかし、逃れられないその時は唐突に訪れる。
父から仕事を教わる最中、慌ただしい音を立て、兵士が一人執務室に駆けこんで来た。
『失礼いたしますッ!』
『なんだ騒がしい……火急の用事か?』
『そ、それが……。……いいのですか?』
『……構わん。伝えてくれ……』
兵士の態度で俺にも何を言おうとしてるかが伝わって来て、思わず俺の手は震え、そして彼は青い顔で告げる。
『奥方様が、逝去なされました――』
父の手の中から紙束が滑り落ちて、床を白く染めた。
その後はよく覚えていない……。
母に取りすがって呻く父の姿、埋葬する時にちらほら降る雪などは覚えているが、ぼんやりと世界から切り離されたような気分でいて、涙すら流れなかった。
予想外だったのは、その後を追うように父が馬車の事故で亡くなってしまったことだ。
相次ぐ葬儀に数日塞いだ俺も、結局出来事から目を逸らすように、父の仕事を引き継いだ。
こんなことまで予期していたかのように、父は自身が亡くなった後の事も家臣に伝え、未熟な俺でもなんとかなるように準備してくれていたのだと後になって知りながら、必死に目まぐるしい日々を乗り越えた。
一年、二年とあっという間に年月は経ち、そんな日々の記憶で蓋をして押し固めていると、俺はいつしか両親の事をあまり思い出さなくなっていった――……。
――――……。
そこまで語り終えて、レクシオールは虚ろな瞳で父母の墓石を見つめる。
「――母と、父が死んでから俺は一度もこの墓に訪れるどころか、頭の隅にも浮かべなかった。二人の死を受け止められる気がしなかったから、無意識に拒絶していたんだろう。あの時、自分がどうすべきだったのか、今もまだその時のことが俺の中で整理できていないんだ……」
深い溜息を放ちレクシオールは空を仰ぐ。
表情は伺い知れなかったが、苦悩と後悔に塗れた声を出す彼に、リュミエールは掛ける言葉を見つけることができない。
(一番大事な物を失ったこの人に……私なんかが、何をできるんだろう)
さっと風が木立を揺らし、振り返った小公爵が足音も無く近づいてくる。
彼はリュミエールの膝に乗ると、意志の宿る瞳でしっかりと見つめて来た。
(あなたは、ここに彼を連れて来て……どうしたかったの……? 教えて……?)
リュミエールが祈るような気持ちでそれを眺め続けていると、かすかに何かが耳の奥で聴こえたような気がした。
(……リュ……ル――)
(えっ!?)
突然響いた声に彼女は左右を見回したが、二人の他に人の気配など他になく……風の音と聞き間違えたのかとも思うが、木の葉すら揺れていない。
ではここにいるのはもう、この一匹しかない。
そして小公爵が、リュミエールの腕を前足で叩く。
(リュミエールよ……目の前のそれだ。膝に乗っているがその猫が、今話しかけている私だ――)




