王太子生誕記念パーティー
――周囲のざわめきがすっと低くなり、ささやきへと変わる。
たった今、リュミエールは王太子生誕記念のパーティー会場である、王城の広間に参じたところだ。
リーベルト王国……大陸の北部に位置するこの中規模国家は近隣諸国との大きな争いもここ数十年はなく、平和の最中にある。
そして今日はその王太子――第一王子カシウスの生誕記念を祝う為……各地から多くの有力な諸侯が集まっていた。
「では御嬢様、行ってらっしゃいませ。私は隣室に待機しておりますので」
「ええ……」
詰めかけた大勢の紳士淑女が立ち並び、豪華絢爛そのものといった装いを見せる広間にリュミエールが進み出ると……やはりというか、向けられるのは好意的でない視線である。
「おやおや、《空っぽ聖女》のお出ましか……」
「《亡霊令嬢》をあまり見ると、祟られてしまいますわよ、ホホ」
遠巻きから放たれる揶揄の声に耳を貸さず、彼女はゆっくりと人混みを避けるように、今回の主役である王太子殿下の元へと向かおうとした。
彼女の手には、小さな包み。
中には、竜が絡みついた意匠のネクタイピンが入っている。
この国においては竜は守護の象徴なので、少しでも御身をお守りいただくようにとの気持ちを込めたつもりで用意した婚約者へのプレゼントだ。
王太子カシウス――背の高い、明るい金の髪に空色の目をした細面の美青年。
レースのクロスが敷かれたテーブルをいくつも越えた先の一番奥で、彼は大勢の友人や来賓に囲まれ、忙しそうにしている。
(今は、よしておこうかな……)
リュミエールは飾られた大きな花入れの壺をついたてがわりにしてそれをしばし眺めた後、目立たぬように壁に寄り掛かり、ふうと息を吐いた。
(やっぱり、こういう場所は苦手だわ……)
数年前の辛い記憶が彼女の頭から甦る。
――それはある貴族の庭園で行われた、もっと小規模な茶会程度の催しであったけれど、リュミエールにとっては初めて訪れた社交の場であった。
多くの不安と少しの期待で胸を一杯にしながら姉二人に連れられて出向いた彼女は、そこで悲しいことにひどい罵倒を浴びせられることになったのだ……。
姉二人はリュミエールを放って自分達はさっさと友人の輪の中に入ってしまい……物珍しい容姿で目立つ彼女は会場の真ん中で立ち尽くした。
頭が真っ白になり、のぼせたように顔を赤くしながら、それでも何とか人の輪の中に加わろうとはしたのだ。だが勇気を出してその後に話しかけた相手が不味かった。
『あ、あのっ、私、フィースバーク侯爵家の三女であるリュミエールと申します。よろしければお名前を聞かせていただけませんか?』
その人物はリュミエールより幾つか年上の、薄紫の髪をしたきつめな顔立ちの少女だった。出来るだけ丁寧にあいさつをしたつもりだったが……彼女は家名を聞いた途端、口元を覆っていた扇をピシリと閉じ、リュミエールの顔に向けて突き出す。
『数百年も前の功績でかろうじて貴族に名を連ねているようながらくたが良くもまぁ、大きな顔をして出て来られたものね……恥を知りなさい!!』
『ひっ……』
そのあまりの剣幕に、リュミエールは真っ青になってよろよろと遠ざかると場外へと逃げ去ってしまい……そのままセルバンが見つけに来てくれた夕方頃までずっとしゃがみ込んで泣いていた。
……冷たい視線をむけた少女の名前をリュミエールは知らない。
だが、そのきつい紫の瞳だけはよく覚えており……そんなことがあって以降、こういった人の集まる場所で誰かに話しかけることが恐ろしくて仕方なくなってしまった。
しかし、これから王太子の妻として彼を支えてゆかなければならないのだから……もうそんな思いは克服して、無理にでも気丈に振る舞わなければならない。
(変わらないといけないんだわ……)
リュミエールはオレンジ色の瞳を彷徨わせ、場内でなるべく少数で集っている人達を探した……。大勢に話しかけるのは、一人に話しかけるのの何倍も勇気が必要だから。
だが彼女の目は、吸い寄せられるように一点で止まる……。
(なんて……綺麗な人)
リュミエールが目を止めてしまうのも無理は無かった。
その青年は、恐ろしいほど怜悧な美貌を備えている。
銀糸を束ねてもこうは光るまいという艶の保たれた長い髪。
半月のように薄く品良く形作られた唇。
そして、なによりもその――深い森の奥で静かにたゆたう湖のような……蒼玉の色をした硬質で他を寄せ付けぬ強さを秘めた瞳。
神様が手ずから作られたような顔立ちの青年は、窓際で一人の友人とかたらいながらグラスを傾けている。だが、その瞳はどこか寂しさを隠しているように思えて……。
「――エル、あなたも来ていたのね……当たり前か。王太子様の婚約相手だものねぇ」
ぼうっとしていたリュミエールは、背中側からかけられたその声にはっとした。
「リーシア姉様……」
リュミエールを見下ろしていたのは、彼女と二つ違いの下の姉であるリーシア・フィースバーク。見事な赤の巻き毛をかき上げると、彼女は笑みを歪ませる。
「ダメよぉ……主役の相方がこんな所にいては、盛り上がらないじゃないの。さぁ、こっちに来なさい。みんなに紹介してあげるわ!」
これはもちろん好意から出た行動ではない。彼女はよく、リュミエールが大勢の人間が苦手なことを知っていてわざと人目に晒し、笑いものにしようとするのだ。
「ね、姉様……お待ちください。わ、私は……」
「うるさいわねぇ。役立たずの妹が姉の言うことに逆らうんじゃないわ。ほら、行きなさい!」
彼女は人の輪の中にドンとリュミエールを突き出す。
「あっ……」
リュミエールはドレスの裾を足に絡ませ、前へとひざを突く。
「どんくさい《偽聖女》だな。おっと、失礼」
誰かが言った言葉と周囲の冷めた笑いが胸にささるが、こんな所で涙を流しては王太子様にご迷惑がかかってしまうと、リュミエールは立ち上がり必死に顔を上げる。
しかし一人として目を合わせてくれる者はおらず……ざわざわと取り囲んでひそひそと笑うばかりだ。
そして騒ぎを聞きつけたのか、話を中断した王太子がこちらにやってくる……。
彼が真っ直ぐに進んで来たので、きっとこの場を収めて下さるのだとリュミエールは期待した……なのに――。
驚くことに王太子カシウスは一人の女性の手をにぎっていた。
しかも、愛情深く絡ませるようなつなぎ方で……。
リュミエールの呆然とした瞳を見たカシウスは、一度目を逸らした後クッと彼女を睨みつけ、大袈裟な身振りで話し出す。
その内容は思ってもいないもので、彼女の頭から先程の悲しい気持ちすら忘れさせ、真っ白にしてしまう。
何しろ、彼はこんな事を言ったのだ……。
「――この場にお集まりになって頂いた皆様に感謝を申し上げますと共に、お伝えしたきことがございます! この度、私はあの白い髪の令嬢、リュミエール・フィースバークとの婚約を取り下げ、この……サンドラ・フィースバークと契りを交わすことを公言させていただきます!」
そしてサンドラ……一番上の姉は、リュミエールを一目チラリと見て、とても楽しそうに口の端を吊り上げたのだった。