小公爵という猫
公爵家では一匹の猫が飼われている。
名前はサムという。もともと城で雇われていたお針子が世話していた猫から生まれ、あと四匹の兄弟がいたそうだが……それらは他の使用人などに貰われ、彼だけが城に残り今も暮らしている。
ある日、リュミエールが部屋でパメラやケイティとくつろいでいると、カリカリと扉を掻く音をさせ、彼がやって来た。
「あら、小公爵……どうなされましたの?」
「「ぶふっ……小公爵!?」」
扉を開けて猫を抱き上げたパメラの言葉に二人は紅茶を吹き出すところであった。
少し太り気味の雄猫は、首に黒いリボンを付け、確かに公爵と似た色合いの銀の毛並みと青い瞳をしている。そしてなにより……その人を睨みつけるような半眼の瞳が確かに公爵に似ているかも知れないと、リュミエールは思ってしまった。
「あ、お二人とも……くれぐれも本物の公爵の前ではサムとお呼びするようにして下さいね」
「ええ、ええ……」
リュミエールはそれがおかしくて、けほけほと咳き込みながら頷く。
「ぷぷ……小公爵は、ご自由にされているようですが……いたずらをされたりしないのですか?」
ケイティもおかしそうな顔でパメラに尋ねるが、パメラはにっこりと笑って答えた。
「小公爵を侮ってはいけませんのよ。彼はとても賢くて、何かを壊したことなど一度もございませんし……入室したい時も本気で爪は立てず、ちゃんと招き入れられるのを待つ度量もあるのです。ちゃんとここに入ってはいけませんと一度注意した所には入りませんし」
パメラは小公爵を膝の上に乗せ、自慢げに言う。
(これが、猫という生き物なのね……本物をこんなに近くで見るのは初めてだわ)
彼は気持ちよさそうに目を細めていて、リュミエールは思わずそばに寄ってみたくなった。フィースバークの家では、犬や猫はおろか、飼っていたのは馬位のものだった。リュミエールが関わるのは馬車に乗ってどこかに行く時位だったので、あまり見ることのない小動物にとても好奇心が刺激される……。
「パ、パメラ……私、少しだけ触ってみたいのだけど……良いかしら? 噛みついたりしないかしら……」
「ええ、大丈夫ですよ……ただし小公爵が嫌がるようならやめてあげて下さいまし」
リュミエールは目を輝かせながら、彼の近くで何度か手を往復させ、結局それを背中に着地させる。小公爵は、片目を開けて半眼で見ているが、大人しくして動かない。
まふ……まふ……。
「わぁぁぁぁ…………!」
思わず声が出てしまう。
手を真綿のような毛がしっかりと包み込み、暖かな体温が伝わってくる。
(気持ちいい……、なんて柔らかいの……!)
心臓を高鳴らせながら夢中になって彼を撫でていると、それに気を良くしたのか小公爵はごろりとパメラの上で仰向けになった。
「さ、触ってもいいのね……?」
ニャウ、と彼が答えたのでリュミエールは腹部に手を埋める。そこは更にふかふかで、リュミエールはあっと言う間に小公爵のとりこになる。
甘えるように体をくねらせる小公爵の腹毛を彼女は存分に堪能した。
「はぁ……なんて素晴らしい毛並みなのかしら。とても可愛いわ」
「ふふ、すっかり気に入られたようですわね。中々お腹は触らせてもらえませんのよ」
パメラはおかしそうに口に手を当て、ケイティもたまらず手のひらを開け閉めしながら寄って来る。
「わわ、私も! 私も触らせて下さい! お願いします!」
「ふふ、それじゃ交代ね」
リュミエールが正面から退き、ケイティが手を伸ばすが……。
「……ナゥ」
ぐいっ……と小公爵は手を伸ばして抗議するようにそれを押しのける。
「あれぇ……?」
ケイティはもう一回挑戦する。
だが、またしてもウゥ……と唸りながら小公爵はケイティの手を妨害する。
「あぁん、もぅ! どうして……私では駄目なのですか!?」
ケイティはなんとかそれをかいくぐろうと頑張ったが……小公爵の防御は固く、ことごとく跳ね除けられ、そして彼はパメラの膝の上ですくっと立つと飛び降り、すたすた歩いてゆく。
「なぁんでぇ……私だけどうして!?」
がっくりと肩を落とし涙目になるケイティを残し、扉の前でニャオンと鳴く小公爵。
「あら、こちらの視察はもうお済みですのね。ではお気を付け下さいまし……」
パメラがそっと扉を開けてやると、まるで挨拶するかのようにもう一鳴きし、小公爵は体を揺らして出て行く。
扉の隙間から顔を出してそれを見送るリュミエール達。
「残念だったわね、ケイティ……」
「う~、肉球しか触れませんでした。今度また餌付けでもして見ようかしら」
「小公爵は誇り高き貴族家の猫ですから、専用のお皿に盛りつけた食事しか食べませんの。賄賂は受け取らないきっちりとした御方ですのよ」
「まぁ素晴らしい……。ん~、じゃあ今度は、お手紙でも贈る所から始めてみましょうかね!」
「うふふ、それはやりすぎよ……!」
三人はそんな会話で楽しく笑いながら、扉の隙間から可愛いお尻がゆらゆら揺れて曲がり角を消えてゆくのを名残惜しそうに見送るのだった。
◆
リュミエールがフィースバークの家を出た時は、年を明けて一月も経たないころだったので、この寒いハーケンブルグ領では、所々にまだ雪がつもっている。
忙しいレクシオールに変わり、気分転換にとフレデリクが連れ出してくれて、今リュミエールはケイティと共に城の外を散策していた……。
ちなみに彼は彼で忙しいらしく、ここに姿を見せるのは、数日に一度と言った所なのだが、その時は必ずリュミエールに気を使ってくれる。レクシオールを弄ったりと少し困ったところはあるが……優しい兄がいたらきっとこんな感じなのだろうと、彼女は思う。
「あっ、姫様見て下さい! 山があんなに白くて、お砂糖の山みたいですよ!」
ケイティの言うように遠くにそびえたつ山は白く雪化粧をしていて美しいが……それを見てリュミエールは別の事を考える。
(彼らは無事でいるかしら……一人も欠けることなく帰って欲しい)
先日礼拝堂で関わった兵士達の身を案じ、リュミエールは今一度祈りを捧げる。
(どうか神様、彼らを無事、家族の元に返してあげて下さい……)
「……そう心配する事も無いさ。今リーベルト王国に攻めてくる国はいないよ」
「フレディ……?」
まるで心を読んだかのような言葉に、リュミエールはドキッとする……。
隣へ立つと彼は、銀の眼鏡の奥から覗く緑色の瞳を鋭くして、山向こうを見通した。
「冬場の山中を行軍するなんて馬鹿な真似をした奴らに、数年前、精強なハーケンブルグ領の軍隊がさんざ痛い目にあわせてやったからね。同じ轍を踏もうとは思わないだろう。近隣にも同盟国が睨みを利かせている。余程大きく状況が変わらない限り……例えば、内輪もめで王様がすげ代わる位のことが無かったら……」
「フレディ様、それはいささか不穏当なのでは……」
「……ごめんごめん、冗談さ。ま、それ位の大事が起こらなければ、戦争なんて起こらない。だからそんな風に君が思い悩む必要はないさ」
軽くたしなめるケイティの言葉でフレデリクはいつもの柔和な表情に戻ると、その場から歩き出し、二人は顔を見合わせながら、それについてゆく。
雪を踏みしめるサクサクという足音と後、微かに響くのは木々の隙間を通り抜ける木枯らしの音色位で……他は無音の静謐な世界。
「……リュミエール、冬は好きかい?」
「私ですか? 私は少し苦手です……寒いですし」
防寒具を掻き合わせて彼女が震えるのに、フレデリクは頷く。
「そうだろうね……でも僕はこの季節がとても好きだ。寒い季節に外へ出て、枯れた樹木や一面の白い雪を見ていると何となく時間が止まってしまったような気分がしてこない?」
「はぁ……」
リュミエールは彼がこんなことを言うのが意外だった。彼は柔和で快活で、どちらかというと春を思い浮かべるような朗らかな人格をしていると思っていたから。
「本当に毎年、このまま時間が止まってくれたらと思ってるけど……そういうわけにはいかないからね……。あいつと馬鹿なやり取りをしていられる時間も、もう終わりに近づいているのさ」
「そうなのですか……」
彼も家を継ぐ身だ……やがてここには訪れなくなってしまうのかも知れない。それをなにより悲しむのはやはりレクシオールだろうと、沈んだ顔を見せるリュミエールに、フレデリクは出し抜けに笑顔で尋ねた。
「リュミエールは彼のことをどう思う?」
「はいっ!? あ、あの……ええ……と、とっても面白い方だと!」
(お、御嬢様……! それは男性をおほめになる言葉としてあまり適当ではありません!)
「そ、そうね……! ええと、お綺麗だけど、中身は素直な少年のようで……最近は怒った顔も見慣れて少し可愛らしく思えて来たわ……!」
ケイティが焦った様子で耳打ちし、リュミエールはとにかくなにかいいことを言おうと頑張ってみたのだが、うまくいかない。
「御嬢様ぁ……」
「くくっ……あはははは! そうだね、うん、僕もそう思う。やっぱり君は他の人とは違うね……」
だが、フレデリクはしばらく大げさに腰を折って笑ってくれた……とても嬉しそうに。
そうした後で、真面目な顔で彼は言う。
「……あいつの事をよろしく頼むよ。意地っ張りだが、友達思いのいい奴だから……うんと幸せにしてやって欲しいな」
「……私にできるでしょうか」
「僕はそう信じてる……彼も内心では君のことを憎からず思っているはずさ」
「は、はい……頑張ります」
恥ずかしくなって俯くリュミエールに片目を閉じて笑いかけ、フレデリクはぐっと背を伸ばしスッキリした顔で小さく告げた。
「ありがとう……これでもう思い残すことは無いな」
「……?」
その呟きの意味は、リュミエールには良くわからなかった。
「――あっ、御嬢様、見て下さい! ウサギが二羽こちらを見てますよ……白いのと茶色いのが!」
「う、うん……」
しかし真意を訪ねる前にケイティの声に誘われて意識がそちらへ向き、その内そんな疑問は記憶の底に埋もれて隠れてしまった。




