第二部 営業一課長 藤木
第二部 営業一課長 藤木
1.友里恵との出会い
私は、家族に不満はない。
社内一の美人だった妻との結婚生活は、もうすぐ20年になる。小学生の2人の息子達に恵まれ、転勤族だが、単身赴任することなく、ずっと家族と生活できている。家族が増え、子供の成長をずっと見られて、幸せなことだ。
名古屋支店への赴任と同時に課長に昇格した。同期の出世競争では中の上くらいに位置する。
「名古屋支店営業一課長を拝命した藤木と言います。単身ではありません。妻と小学生の子ども2人、家族と一緒に名古屋に赴任しました。よろしくお願いいたします。」
赴任した時のお決まりの挨拶だ。家族構成を伝えて家族を大切にする姿勢を見せた方が、女性の第一印象がたぶん良い、と思う。下心とかではなく、女性の多い職場では女性に嫌われない方が何かと都合がいい。
友里恵は、営業一課の私の直属の部下で、新婚だが夜遅くまで熱心に仕事に取り組み、社内はもちろんお客様からも、積極性と熱心さが好評だ。もっと早く帰ればいいのに、と思う。夫は心配しないのか?見た目は華やかで、噂によると、学生時代はモデルだったらしい。
私は、男女問わず誰かを特別扱いはしない。特別扱いしている姿は女性に嫌われる、と思う。だから、見た目が華やかで仕事熱心な友里恵にも特別扱いはしない。ただ、友里恵は、外出先から仕事上の相談の電話を毎日してくるし、しかも事務室で私に相談にくる時はいつも身体的距離が近い。
一所懸命に頑張ってる友里恵を慰労したくて、2人だと話しやすいこともあるだろうから、友里恵のストレス発散になれば良いと思い、食事に誘った。快諾してくれ、日程と店は友里恵が決めた。
2.友里恵との関係
涼しさを感じない9月。
会社の人間にバレないよう、私と友里恵は店内で待ち合わせた。友里恵が個室で予約した「魚太郎」という店は名前のとおり高級店ではないが、チェーン店でもなく、名前の印象と違い親父が集まる大衆店という雰囲気でもなく、至って普通の居酒屋だったが、料理はどれも美味しい。2人飲みは盛り上がり、いろんな話をした。友里恵も楽しそうで、スマホを触ろうともせずに話しに夢中だ。彼女の表情がどんどん柔らかくなってきて、ずっと笑顔で、そして、2人の身体的距離はより近づいていた。
「ところで、奥様は、どんな方ですか?」
脈絡のない友里恵の質問に驚いたが、私は即答した。
「美人だよ。家ではうるさいけど」
妻について聞かれたらいつも同じ答えだ。いちいち考えて答えるのも面倒だし、妻を褒めることは、しつこくなければ、女性に悪い印象を与えないと思う。
友里恵は小声で何か言ったが、聞き取れなかった。
「藤木さんモテますよね。女性を安心させてくれる。私の話、聞いてくれます?旦那の話なんですけど。」
「何それ(笑) うん。どんな話?」
友里恵は、「妻を褒めた私」を褒めてから自分のプライベートの話を始めた。
私は、女性のプライベートは自ら話し始めるまで、質問しないことにしている。友里恵は心を開いてくれるようだし、とりあえず聞こう。
いろんな話を聞くうちに、友里恵との身体的距離がさらに近くなっていった。学生時代のモデルやレースクィーンのバイト、男遊び、夫との計画結婚と結婚する時の約束事など。友里恵の性に対する割り切った考え方が窺えた。
今まで、会社の女性との2人飲みは何度もある。友里恵もそうだが、誘う時に下心はないし、2人きりの時も下心はない。女の感は鋭いから下心はすぐにバレるし、後で噂になると面倒だ。だから、初めから最後まで下心がなければ、次回の2人飲みがあり、良好な関係は続く。
私は家族に不満はないから、割り切った関係が理想だ。友里恵は割り切った関係がもてる女だと、思った。
「する?」
「え、なんですか?」
「旦那としてないって言うから。俺も最近してない。嫌なら、もちろんこの話はなし。俺は、それぞれの家庭を壊すつもりもないし、仕事にも影響させたくないから。上司部下の関係もそれぞれの家庭も今のまま。今の仕事と家庭の関係とは完全に分けた、別の新しい関係になるけど。する?嫌なら断ってよ」
断られてもよかったし、断られた後の上司部下の関係がギクシャクしないことの方が大事だった。
友里恵は即答した。
「慣れてますよね。」
駆け引きするつもりはないが、私も即答した。
「嫌なら、もちろんこの話はなし。この話は忘れて。今までどおり。」
しつこさはセクハラになる。私はすぐに退いた。
「断りじゃないです。ただ、少し待って欲しいです。」
「わかったよ。そろそろ帰ろうか?」
友里恵からは以外にもYesの答えが返ってきたが、彼女の気持ちは変わるかもしれない。私は、友里恵の気持ちに全てを委ねて、この場を離れようと思った。
帰り道、友里恵が距離をつめてきて彼女の手が私の手に触れたことに気づいたが、手を握らずに歩き続け、地下鉄入口で友里恵と別れた。彼女は満面の笑みで両手を振って、私を見送ってくれた。
友里恵は妻の帰りを待つ夫の車へ、私は妻と子供達の待つ我が家へ、私達はそれぞれの家族の下に帰った。
結局、私は友里恵と10月に初めての関係をもった。
「藤木さん、10月20日のご都合はどうですか?私、この日は行けます」
友里恵からの提案で日程が決まり、まずは一緒にご飯を食べて場所を変えた。
友里恵は、結婚後も定期的にエステに通い、美容に時間とお金と労力をかけていて、いつも完璧な自分でありたいと考え、努力しているようだ。
友里恵とは、10月11月と2回関係をもったが、私は2回ともゴールしなかった。1回目は一緒にご飯に行った後で、お酒のせいだ。若い時とは異なる自分を知った。2回目はお酒抜きだったが、ダメだった。1回目の失敗からくるブレッシャーか?加齢による衰えか?男が欲しがる魅力的な女なのに、なぜ?
完璧でありたい友里恵の努力、私との関係に対する彼女の完璧な準備と期待を私は裏切った。
友里恵の昔話に年の離れた年上の男は登場しない。もしかすると、友里恵の男性経験の中でゴールしなかった男は、私が初めてかもしれない。
私は、自分の不甲斐なさにモヤモヤして、天井を見つめていた。すると、私のすぐ隣で仰向けに横たわってる友里恵が、私の顔を両手で挟んで彼女の顔に近づけて、私に言った。
「好きって、言って」
思いもしない突然の言葉に答えに窮した。友里恵は割り切った関係を望んだんじゃないのか?私は、友里恵とは割り切った関係を望んでいる。互いの家族に影響しない関係が、友里恵となら築けると思っていた。しかし、これ以上友里恵を傷つける訳にもいかない。
「うん、好き」
私は、ぼーっと天井を見つめながら、少し間をおいてぼそっと、友里恵の問いに答えた。
帰り道、私達はいつものようなふりをして、雑談しながら、互いの家族の下に帰った。去り際に友里恵は私に聞いた。
「私のこと、嫌いになりました?」
「そんなことないよ」
友里恵と私の会話はぎこちない。
私は、男としての自信を失くし、友里恵を深く傷つけたことを悔やんだ。
それ以来、私は、友里恵を傷つけていることをずっと悔やんでいる。傷ついた友里恵をそっとしておきたくて、あの夜はなかったことのように、あの夜の前と変わらない上司部下の関係でいようとしている。
3.友里恵との関係終了
友里恵を傷つけた私は、もう一度チャンスがほしい!と思いながら、モヤモヤしながらも、彼女を2人きりの場に誘うことはなかった。私からは仕事以外で友里恵に連絡することはなかったが、彼女からは仕事の悩み相談だけでなく、4月に東京本社に異動した村雨からのしつこいセクハラの相談もあった。まだ村雨のセクハラは続いてたのか?村雨の人間性を疑う。
友里恵は私を信頼してくれているが、男女関係の修復には至らないと思う。
ところで、人間性に問題ある村雨の後任の沼沢は支店長として、上司として大問題だ。細かく、ねちっこいし、「部下に任せた!」と言うが、自分の意に沿わない仕事は、どんなに部下の仕事量が増えようと、優しい口調で軌道修正させる。パワハラだ!と本社に言わせない為の自己防衛だ。まさに沼沢支店長は保身の人だ。
私は中間管理職として、自分の保身最優先の支店長と無駄な仕事に不満の溜まる部下に挟まれ、ストレスの溜まる日々を過ごしていた。沼沢支店長に呼ばれるたびにイライラしてる私は、部下からもわかるだろう。ある時、友里恵が突然電話してきて、沼沢支店長のストレスが溜まってる私を労いたい、2人で飲みたい、と彼女から誘われた。日程も店も友里恵が決めた。
大雨が続く6月下旬。明日は、久しぶりの友里恵との2人飲みだ。つい先ほど昼頃に、明日の店・場所・予約時間を友里恵からのLINEで知った。今日、友里恵は体調不良で会社を休んでいる。体調大丈夫?とLINEで聞くと、「大丈夫です。明日は宜しくお願いします!」と返ってくる。
その日の夜、突然、友里恵から2人飲みキャンセルと関係を終えたいとのLINEが送られてきた。長文だが、「藤木さんを人として尊敬してるが、2回目の関係をもった時から女としての自信をなくし深く傷ついている。明日以降は行けない。これから2人では会えない」という趣旨のLINEだ。ひとつ前のLINEで「会いたい」と言い、次のLINEは「会いたくない」と言う。真逆の内容だが、「傷ついている」これが友里恵の本音だろう。私は友里恵のLINEに返信しなかった。そっとしておこう。
私は友里恵を避けるつもりはないが、これから彼女とは必要最小限の接触としようと決めた。傷つけたことは悔やんでいるし、謝罪の念でいっぱいだが、それにしても友里恵からの誘いなのに、数時間でのこの変化はなんだ?
理屈に合わない友里恵の変化にモヤモヤしながら、私と友里恵の関係は終わった、と思った。
7月は、友里恵とほとんど会話しなかった。
8月は、後半から少しずつ友里恵からの電話がくるようになった。友里恵から村雨のセクハラについての相談もあり、電話だけだが、もとに戻ったかのようだ。それにしても、村雨のしつこさには驚いたが、9月下旬に村雨からの「プロポーズ」と「プレゼント代返せ」電話が友里恵にあったこと、それ以降はLINEも止まったことを彼女から聞き、私はひとまず安心した。
10月。いつもどおり出社した朝、友里恵の姿はまだなかった。
沼沢支店長が慌てて、私を呼んだ。朝から何だよ!
村雨前支店長から連絡があり、友里恵が記憶を失ったようで引っ越し前の事務所にいる、今から沼沢支店長が迎えに行く、という。
記憶を失った?村雨?どういうことだ?
沼沢支店長に連れられた友里恵はボーっとした様子だった。幹部が会議室に集められ、友里恵の状況について沼沢支店長から説明があった。交通事故で部分的に記憶を失くしているが、日常生活に支障ないとのことだ。会議室を出ると、友里恵は私に近づいてきて、小声で言った。
「藤木さん、おトイレの場所、教えてくれませんか?」
確かに記憶を失っているが、女性社員もいる中で、わざわざ私を頼ってトイレの場所を私に聞いたのだ。記憶を失いながらも、私への信頼は残っているようだ。
友里恵と何度か話すうちに、彼女がいつの記憶を失ったかが、わかった。今年4月に赴任した沼沢支店長、昨年10月に赴任した同僚のことを知らなかったが、昨年9月迄にいた同僚は全て記憶しているようだ。また、昨年9月迄の出来事も記憶しているようだ。
私と友里恵の関係は、私との関係をもつ前、村雨のセクハラの前の昨年9月にリセットされた。