5枚目 ただただ君に
葵の知るその人は自分より頭一つ分背が高く、それでいて大きな手で頭を撫でてくれた。
声は低く落ち着いており、病に冒されても尚、優しく「大丈夫」と言って安心させてくれた。
なのに、今この時ばかりはまったくの真逆だった。
目の前にいる少年の身長は、葵の腰に届かないほどの背丈である。
声も子供特有で高い。加えて少し甘いその声で、確かに「美和」と言った。
空耳ではない。決して葵の耳がおかしくなったわけでもない。
きっと葵は無意識に確信していたのだろう。最近見る夢は、愛した夫とまた巡り会えるという前兆だったと。
姿は変われど、前世で愛した人だとすんなり受け入れられた。
「和さま……和則さま、なの」
声が震える。確信してはいても、目の前の少年が本当に「和則さま」であるのか、本人の口から紡がれるまで合っているのかは分からない。だから、答えを聞くのが怖かった。
「俺は」
少年が言葉を発そうとした時だ。
「──い……麗、どこにいるのー!?」
桜の樹の向こう側、ここからそう遠くない場所で声が聞こえた。
「……母さん?」
キョロキョロと辺りを見回し、声のする方へゆっくりと視線を向ける少年──もとい麗。
「麗!」
ややあって一人の女性が、葵の横をすり抜けて麗のもとへ走り寄る。
麗を見つけると慌てて駆け寄り、ぎゅうと抱き締める。
本人はされるがままだ。
「いきなり走っていくんだから……。 探したのよ、勝手に居なくならないで」
「……ごめんなさい」
叱る声は決して責めるものでは無く、見つかって良かったという安堵が滲んでいる。
葵はそのさまを黙って見つめていた。
どうやら入り込む余地は無さそうだ。それに、奇しくも今日は小学校の入学式でもある。
きっと、これから新一年生として、新しい日々が始まるのだろう。
前世のことは一旦置いておくとして、小さな和さま(仮)が学校に通う所は見てみたい気もする。
ただ、麗とは近いうちまた会える……そんな予感がした。こればかりは葵の直感でしかないが、何故かそう思った。
現在の時刻は六時半を回るころだ。葵の通う高校はここから少し歩いた場所にある。そろそろ立ち去らないと、遅刻をしてしまうだろう。
そう思い、踵を返そうとしたその時だ。
「あの!」
凛とした声が桜の樹の下に響く。
ゆっくりと声がする方を振り向くと、麗がこちらをじっと見ていた。
その丸く大きな瞳は、しっかりと葵をとらえている。前世の優しい瞳を宿して。
「俺、八坂麗っていうんだ。い……お姉さんの名前は?」
きっと『今の』名前を聞きたいに違いない。しかし母親の手前、あたかも初対面の人に言うようにそう尋ねられた。
(あぁ……やっぱり覚えてるんだ、この人は)
──今、疑問は確信に変わった。
麗は、この少年は前世の記憶がしっかりとある。
一度そう思ってしまうと、ただ自分の名を言うだけなのに、どうしてか喉に何かが詰まったように声が出なかった。
「……私は」
絞り出すように、けれどしっかりと言葉を紡ぐ。ここまで緊張するのは高校生活一日目の自己紹介以来だ。
ただ、あの時と今の状況は似てこそすれ、相手が違う。
和さまは──麗は、あの時愛し合っていた人だから。生まれ変わったらきっと探しだす、そう約束した人だから。
「烏丸、葵」
自分にしては小さな声だったが、麗にははっきりと伝わったようだ。
「葵……葵、かぁ」
麗はほんのりと頬を染め、慈しむように何度も葵の名を口の中で反芻する。もう忘れるまいと心に留めるかのように。
「さ、麗。ここじゃ冷えてしまうから行きましょ。……葵さん、だったかしら? この子のことよろしくね」
それまで黙って息子を見守っていた母が、麗の肩に手を添えて帰るよう促す。
踵を返す際、微笑みを浮かべて葵への言葉も忘れずに。
葵は桜の花びらが舞うなか歩いていく親子を、その姿が見えなくなるまで見つめていた。