4枚目 過去の記憶と今の想い
葵の足音だけが、まだ朝が来たばかりの道に静かに響く。
逃げるように家を飛び出したが、用事など端から無かった。
どうも葵は千秋の笑顔に弱く、見つめられると頬が熱くなってしまう。
この感情は単なる兄として慕ってる、という意味なのだろう。決してそれ以上の意味は無い、と自分に言い聞かせる。
そうしなければいけない理由があるのだから。
葵は前世の記憶を持っている。それも大正の頃の記憶を。
ただ、最初から持っていたわけではない。何かの拍子でといった場合もあれば、夢見や生まれた時から前世の記憶を持っている場合もある。
生まれたときからの者は限られているが、葵の場合は夢を見たからだった。
最初に見た『夢』は小さな木造家屋の縁側で、一人の男性と共に幸せそうに笑っている夢だった。
その人を「和さま」と呼び、自身は「美和」と呼ばれるのだ。
何を話しているのかは朧気としか分からないが、和さまは身体が弱いようだった。
いつも羽織りを身にまとい、布団の上でぼんやりと庭に植えられた桜を眺めている。
傍に寄り添う女性は自分だ。甲斐甲斐しく世話をし、和さまの調子がいいときは、二人揃って小さな庭を散策するときもある。
それから何度か『夢』を見るうちに、ある法則が分かった。
桜が咲き誇る日に息を引き取る……というところで毎回目が覚めるのだ。今日見た夢もそうだ。
どうやら、葵の記憶は和さまが亡くなった時で途切れているらしい。この後のことはどうしても思い出せない。
愛しい人を喪うのは、どんなに辛いことだろうか。他人には計り知れないほど悲しく、辛いだろうか。
生まれ変わった今となっては詮無いことだが、ふと思う。
(和さまは記憶を持ってるのかな)
持っているのならば嬉しい。仮に記憶が無くても、本人が幸せならばそれでも構わない。
ただ、不幸でなければいいのだ。少なくとも、葵にとっては。
別の人と結婚していようが、ヨボヨボの老人になっていようが。もし出会っても葵は笑顔を見せられるだろう。
それ程愛していたのだから。たとえ前世夫婦だったとしても、現在が悔いなければそれで構わない、そう思う。思わなければならない。
ただ前世の記憶が起因してか、千秋と和さまを重ねてしまうのだ。千秋の笑顔は和さまとよく似ていた。
本人かと見紛うほどに。
太陽のように温かい笑顔。雰囲気こそ違うが、笑ったときは胸が締め付けられるように苦しくなる。
(……会いたい)
会いたい。会って、抱き締められたい。
あの逞しい腕に抱かれたい。
甘い言葉を囁く、あの声が恋しい。
愛しそうに頭を撫でるあの手が、笑顔が恋しい。
「っ……」
その時、びゅうと風が吹き、制服のスカートがヒラヒラと遊ぶ。
風で乱れる髪を抑え、ゆっくりと視線を上へ向ける。
そこには大きな桜の樹がどっしりと存在感を放っていた。どうやら知らずのうちにいつも行く公園へ足を向けていたらしい。
葵が一人で落ち着きたいと思った時に、必ず行く場所だ。
「え……」
早朝だからか人は居ないと思っていた。が、ぽつんとひとつの影があった。
その後ろ姿は小学生ほどの身長で、少しめかしこんだベストに短パンという出で立ちだ。
まだ真新しい黒いランドセルを背負い、ぼうっと桜の樹を眺めている。
この春からの新一年生だろうか。短く切り揃えられた黒髪がさわさわと風に揺れ、その見た目も相まってか、今にも攫われてしまいそうなほど危うい。
元々は来ると決めていたのだ。ゆっくりと桜の大樹へ足を進める。
と、突然男の子がこちらを振り向いた。
図らずも葵をじっと見つめるその瞳は、光の加減によっては黒くも青くも見える。
そういえば和さまも似た目を持っていた、とふと思い出す。
(まさか……いえ、そんなはず)
有り得ないだろう。この少年が “和さま” だなんて。
ただ少し見た目が似ていたからと言って、必ずしも本人と一致するとは思えない。
それに、この世界には似た人が多いのだ。他人の空似だろうと思い直す。
「美和……?」
少年が紡いだ言葉は、果たして前世の葵の名前だった。