女神の力
「ぜぇ……ぜぇ……。しんどいな」
ニコラスとジルヴィアは森の中を歩いていた。近くの町の方向はわかっている。そこまで連れて行ってジルヴィアを医者に見せるつもりだった。
「すみませんご主人様。私のために医者に行くことになってしまって……」
「いや、別にいいよ」
ジルヴィアは申し訳なさそうにニコラスの後ろに続く。
名前を言い当てられたジルヴィアは、すっかりニコラスを信頼していた。
実のところ、ジルヴィアは名前すら忘れてしまっていたらしい。しかしニコラスに名前を呼ばれた瞬間、それが自分の名前であることを理解し、ニコラスを主人と認めた。
名前すらわからないというのは不安だろう。それを教えてくれたニコラスに、ジルヴィアは暖かい感情を抱いたようだった。
「ご主人様。せめて荷物は私に持たせてください」
「いや、いいよ。ところでジルヴィア。そのご主人様っていうのやめようぜ。俺はそんな呼び方をさせてはいなかった」
最初こそご主人様と呼ばれるのは嬉しかったが、嘘の主従関係なのだ。記憶を取り戻したら、すんなり医者に連れていくためだったと言い訳をするつもりではいる。
でも、調子に乗って主人ずらしすぎたらそんな言い訳通らないだろう。だからご主人様と呼ばせるのはよくない気がしていた。
「では……ニコラス様と?」
「いやいや、様呼びさせる趣味も俺にはなかったぞ。大体お前は使用人なんだぜ? 報酬を払って働いてもらっているだけ。奴隷じゃないんだ。そこは勘違いしないでほしいな」
うん。これくらいの距離感ってことにしよう。それなら後で誤魔化しがきくだろう。
「じゃあ、ニコラスさん……でしょうか?」
「ああ、そうそう。やっとしっくり来たよジルヴィア。今後はそれで頼む」
「は、はい。わかりました」
ニコラスに認められて、女神は嬉しそうに微笑んだ。ニコラスもそれに微笑み返し、前を向く。
「しかし喉が渇いたな。水が飲みてー」
もう結構歩いていた。そしてこれからまだまだ歩く。さっきの湖で水をくまなかった愚かな自分を殴りたいくらいだ。
「あ、ではニコラスさん。コップをお持ちではありませんか?」
「え? まあ、あるけど」
ニコラスは荷物の中からコップを取り出してジルヴィアに渡す。するとジルヴィアは、近くの水たまりにコップを突っ込み、水を汲んだ。
「はいどうぞ」
「……」
試練か? 実は記憶を失ってなんてなくて、嫌がらせをしてきたんじゃないか?
ニコラスは一瞬そう思って言葉が出なかった。コップを泥水で汚され、その泥水をコップ一杯にして差し出されてしまった。飲めるわけがない。
「……ん」
だが、コップの中を見て驚いた。淀んだ泥水を汲んだはずだったのに、中の水は透き通って透明だった。
(浄化だ)
ニコラスは即座にそう思った。ジルヴィアが女神だという確証は正直なかったが、これで確定だ。やはり湖の水はジルヴィアが……女神が浄化していたのだ。
「ニコラスさん?」
ジルヴィアが首をひねった。この力に驚きでもしたら自分が主人でないことがばれるかもしれない。ニコラスは平静を装って水を受け取る。
(これ、あそこの泥水なんだよな?)
一瞬それが頭をよぎったが、ためらう仕草すら嘘くさくなってしまう。ニコラスは一気に水をあおる。
「……うまい」
綺麗な水だった。こんな澄んだ水を飲んだことはない。あの湖の水も飲んだが、量が多いからか、ここまで澄んだ感じではなかった。
「いつもすまないな」
「いえ、お役に立ててうれしいです」
はじける笑顔を見せてくれる。罪悪感がチクリと胸を刺したが、ジルヴィアのためにしているのだからと自分を慰める。
「ところでニコラスさん。なんで私たちは歩いて行かないといけないんですか?」
「なんでって、俺は馬には乗れないし、馬車を雇う金はないから仕方ないだろう?」
ニコラスはここまで歩いてきた。だから歩き以外の移動手段はない。使用人を雇っているのに、馬車が無理というのはおかしな話だと思ったが、どうせ嘘なんだから別にいい。
「いやー、そうではなくて……」
ジルヴィアが指を振る。
「うお!」
「どうして空を飛んでいかないのかなと思いまして」
二人は風に乗って軽やかに空を舞った。思わず声を出してしまったが、ニコラスは努力して平静を保つ。
「は、はは。久しぶりに飛ぶと驚くもんだな。誰かに空を飛ぶのを見られたら面倒だから控えるように言っただろ?」
「あ! そうだったんですね。ではやめますか?」
「い、いや、急いだほうがいいから今回はいいだろう。緊急事態というやつだ」
「わかりました。では雲の上に出ましょう。それなら誰にも見られません」
「……」
気を失わずにいられるかな? ニコラスは天を上っていく女神を見上げながら、下は絶対見ないと心に決めた。