その主は?
「どうしよう……」
ニコラスはずぶ濡れの女を見下ろしながらそうつぶやいた。
石が頭に直撃すると、女は倒れこんで水面に浮かんだ。声をかけたが反応がなかったので、ニコラスは近くにあったボートで女のところまで向かったのだ。
近くまで行っても女は反応を示さない。まさか死んだのかと思ったが、息があったので気絶しただけのようだった。
船に乗せ、岸まで戻って地面に寝かせた。そしてどうしたものかと見下ろしていたのだ。
湖の噂を聞いたとき、同時に女神の噂も聞いていた。ただ、汚れを浄化する湖の適当な理由付けみたいな話だったので、本当に女神がいるとは思っていなかった。
しかしどうだろう? 水面から突然現れて水の上に立つ。そんなことが人間にできるはずがない。女の格好を見てもどこか厳かな雰囲気を感じるし、不確かな噂が本当だったということになるのだろうか?
「ぅん……」
その時女が……いや、女神が身じろぎをした。目を覚ますらしい。
逃げる? 逃げない? その二択を突き付けられた気がしたが、相手が神なら、逃げれば地獄に落とされるのだろう。となれば、罰を受けるほうがましと思い、ニコラスは逃げなかった。
「う……あ? ここは?」
「お、おはよう」
なんと声をかけたものかわからなかったので、ニコラスはとりあえず挨拶をかける。女神は視線をニコラスに向けた。
「あなたは?」
「俺はニコラスだ」
短い返事しかできない。どんな罰を与えられるかと思うと、それ以上言葉が出てこない。
「では、私は……誰?」
「は?」
ニコラスは最初前置きかと思った。
我をだれと心得る? 恐れ多くも湖の女神であるぞ! きっとそう続くのだと思ったが、様子がおかしい。
「私は誰なんですか? ご存じありません?」
「記憶が……ないのか?」
女神の様子はどこか不安そうだった。眉を顰め、顔をこわばらせながら視線を返してくる。自分が何者かわからなくなっているなら、その反応はいたって自然であると思った。
(石を頭にぶつけたせいか?)
そうとしか考えられない。頭に強い衝撃を受けてしまって記憶が消えた。そう考えるのが自然だ。
だとしたら自分のせいだ。医者に連れていくべきだろう。自分にはそれくらいの責任はある。
しかし、何と言って連れて行こうか? 面倒な説明は省きたい。記憶が戻ればすべてを理解するのだから、今はスムーズに医者に連れていける嘘で丸め込んでしまってもいい気がする。
だからニコラスはこういった。
「俺はお前の主だ。お前は俺の使用人だよ」
「主……?」
これでいい気がした。主従関係であれば命令には背きづらい。しかし女神は怪訝な表情を浮かべる。
「本当に、あなたは私の主なんですか?」
「本当だとも、お前は頭をぶつけて湖に落ちたんだ。それを俺が引き上げたんだ。感謝してもらいたいね」
「何か証拠があるんですか?」
女神は証拠を求めてくる。主従関係を証明するのは難しい。しかし否定するのも難しいはずだ。記憶を失っている女神にとっては。
だからニコラスは、自分が女神のことをよく知っているという演技をすることにした。
「別に証明書なんてないしな。でもお前のことは当たり前だがよく知っているよ。お前の名前を当ててやろう」
「私の名前……」
初対面のニコラスに名前を知っている道理はない。しかしニコラスは知っていた。噂の女神には名前があったからだその女神の名前は……。
「ジルヴィア。それがお前の名前だろう?」