第二章/背中
〜背中〜
その儚げな背中を。
保志は空を仰いだ。
となりには、ぼさぼさ髪の少女がいた。
はじめて会ったときのような、自然で、単純で、飾り気のない彼女だった。
心を乱されることなく、まっすぐに前だけを見つめている少女だ。
「やっと、光をつかめそうな気がする」
藍はそっとつぶやいた。
保志はその言葉を何度も心のなかでくり返し響かせた。
――やっと、光をつかめそうな気がする・・・・・・。
やっと。
保志は藍との会話を思い出していた。
今見える星の光は、本当はもっと数億年前のものかもしれない。
もしかしたら、もう現在は存在していない光を見ているのかもしれない……。
そう言うと、彼女は目を輝かせた。
「それってすてき」
「どうして」
保志は不思議でならなかった。
星光は今いないもののかすかなしるしなのだ。
以前の名残でしかない。
それなのに、藍はすてきだと言った。
「星は光でなにかを伝えているみたいね、ってこと」
藍はあたりまえのように言ってほほえんだ。
「何年もかけて、今のわたしたちのところまできてくれたんだ……それってすてきじゃない」
「……だけど、今は存在していないかもしれないのに?それでもすてきだと言える?」
カラカラの喉がもどかしかった。
保志は黙って藍を見つめた。
藍はにっこり笑った。
「もちろん」
力強い答えだった。
藍の声にも言葉にも表情にも、迷いはどこにもなかった。
まるで、もう何百年も生きていた人間のように、藍は落ち着きはらって応えた。
それを見たとたん、不思議なくらいはっきりと保志はふっきれた気がした。
なくなったものはもう帰ってくることはない。
たとえそれがどれだけかけがえのないものであったとしても。
だけど、だからこそ、そのことを悲しむばかりではいけないのだ。
切なさで胸が張り裂けそうであっても。
泣くことしかできないように思えても、だ。
そのものがいた、というあかしを見て、悲しみにくれるのではなく、誇りに、そしてまっすぐに受け入れるべきなのだ。
なにを伝えていたのか。
その存在することの意味をくみ取ってあげる。
今はもう存在しない星の、その輝きをきれいだと素直によろこべるように……。
――百乃との思い出をなつかしめるように……。
いつかはみんな、いなくなってしまう。
命とは永遠ではない。
永遠ではいけない。
大切にするために。
かけがえのないものだと知るために。
だからこそ、まっすぐに走れるのだ。
だれかはだれかのために生まれ、そのだれかは他のだれかのために生き、そしてなにかを残し、伝えていく。
「人って、だれかのために存在しているのかもしれないね」
藍はやわらかな口調でそっと言った。
「保志はお人好しなんだって、ずっと思ってたんだ。だれかのためにしか動かない・・・・・・ばかみたいだって思った」
遠くを見つめ、藍は話し出した。
「でも、それもきっとすてきなことなんだよね。今ならわかるかもしれない・・・・・・わたしは、わたしのために存在しているの。だけど、同時にだれかのためにも存在しているのかもしれない」
「そうだよ」
――藍は、おれの支えになってくれていたんだよ。
たぶん、きっとそうだ。
保志は軽く頷くだけで、それを言葉にはしなかった。
無邪気に笑う藍が心地よかった。
(おれも藍のためになにかできないかな)
存在してくれるだけで、となりにいて笑っていてくれるだけで、それだけで幸せだ。
そう思えることが、心からうれしかった。
保志は軽く心臓をたたいた。
***
微温湯――それは人を甘やかすものだ。
罠だ。
そう思っていた。
そうかもしれない。
だけど、それだけではないかもしれない。
傷ついたところは、冷水よりも、熱湯よりも、微温湯のほうが心地よい。
つまり、それは癒しにもなるのではないか。
そんなことを考えながら、藍は保志を見やった。
百乃を自由にしてあげる――そう決心したんだ。
百乃だって生きていたんだ。
心を持っていたんだ。
悪い心も、善い心も。
それはあたりまえのことだ。
だけれど、それに気づけずにいた。
藍は目を閉じてなにかを感じようとした。
百乃の気配が知りたかった。
保志の後ろめたい気持ちが、悲しみが、百乃をつかんで放さなかったんだ。
ようやくわかった気がした。
はじめから決めつけるのではなく、深く知らなければ、なにも見えてこない。
藍は深呼吸した。
「なにをすればいいか、考えてみたの」
保志は我に返ったように目を見開いた。
「え?」
「だから、百乃を自由にするために。百乃の伝えたいことをくみ取ろう――それがわたしたちにできることだよ」
保志は強く頷いた。
「おれ、思ったんだけど、たぶん今まで無意識のうちに百乃との思い出を避けていたんだ。だから、ゆっくり、彼女との思い出を思い出していければいい気がする」
今度は藍が頷いた。
「そうね。たぶん、彼女は自分を知ってほしかったんだと思うの」
「おれ、今夜もう一度よく思い出してみる」
保志はそう言うと、小走りに家へ帰っていった。
藍は彼の背中が見えなくなるまで見つめていた。
背中って、儚い――。
藍はふと考えた。
保志の背中は奇妙にゆがんで見えた。
強く見えた。
そして、もろく、今にもくずおれそうに見えた。
(背中を見送るのって、こんなに切ないことだったんだ・・・・・・)
ふと、なんの前触れもなく不安がよぎった。
そして、保志の顔が浮かんできた。
(顔色、悪かったな・・・・・・よくわからないけれど)
藍は彼の今日の顔を思い出そうとして、顔をゆがめた。
保志はなんだかはりきっていて、表情は明るかった。
やる気に満ち満ちて、うれしそうだった。
だから、気がつかなかったけれど・・・・・・そういえば・・・・・・。
(やっぱり、顔色が悪かった気がする・・・・・・)
藍は保志の背中が見えた場所を、目を凝らして見つめた。
しかし、もう彼の姿はすでになかった。
どうしてこんなに胸騒ぎがするのだろう。
落ち着かなくなる。
(大丈夫、きっと、気のせい――まずは、やることをやらなくちゃ。はやく百乃を、保志を自由にしてあげるんだ!)
拳をつくり、それを強くにぎる。
(弱気はだめ!決めたんだから。最後まで見守るって、決めたんだから。心配なんて、していられないの)
きっと、保志のつらい記憶も、百乃の無念も、なかったことにはできない。
できるはずがない。
けれど、前を向いてほしかった。
そして、ふと後ろを振り返ったとき、そっとほほめるようになってほしかった。
なつかしい、思い出になるように。
ちくんと心が痛んだって、心から笑えるように。
呪縛を解きたい。
彼自身の、彼に対する呪縛を。
「いいわ、わたし、あなたの呪縛とたたかうから!」




