年を越すと云う事 後ろ向き
与えられたのは満足な五体と最低限の知識、これまでの経験。
想像すれば手にできるものは数多あるが、必要な時でなければただの木偶と化す。
気がついた時には、それはそこに居た。壮年にも見えるし、少年にも、老人にも見える。だが、そこは重要ではない。
仮にそれが彼だとすれば、彼が認識しているのは途方も無く広がる闇だった。
そしてソレが、己がこれまで生き抜いてきた世界とまったく同じものであることを、その瞬間に悟る。
かと思えば、既に背に冷たい何かが抱きついていた。頬に触れる黒い瘴気、横を向き後ろを睨めば、すぐに闇と視線が交錯することがわかった。
まずしなければならないことは、走りだす事だった。
横にも前にも同じようにしている人の輪郭があった。遠くの方に見知った顔があるような気もしたが、それを確認する暇など到底なかった。
彼は走らねばならなかった。走って追い抜かす老人はとぼとぼと歩いていたが、その速度に合わせて闇の進行は緩やかになっていた。
走らずとも良いのか、と思い歩みを緩めれば、ここぞとばかりに黒い影が己の飲み込まんとするのがわかる。彼は慌てて地を駆り体ごと前に飛び込むようにして走る。
ただ走れば良いのは最初の内だけだった。
やがて坂もあり障害物も出てくる。その中で傍らで、あるいはずっと遠くに居た誰かがつまづき、闇に消えていくのが見えた。
振り返れば、闇。目を凝らせば数瞬前まで走っていた過去の己が見えたが、それ以外には何もない。何か学ぶことがあるとすれば、既に散っていった先人達の走る術。
やがて道を塞ぐ何かが現れる。この時だ、と思い彼は己が想像する武器を手にする。
出来上がったのは一振りの刀だった。出てきたのは己と同じ程の背丈の影だった。
斃さねば飲まれる。故に彼は影を切り裂く。敵は容易に霧散し、道が開かれる。
そこが境界だったのかもしれない。
一歩進めば敵が一人、二歩進めば二人、それ以上先へ行けば無数に。
あるいは切り捨てずに先へ進む術が会ったのかも知れぬが、もはや遅い。
全てを斬らねば、切り抜けぬ道。
勝たねば先へ進めぬ。勝たねば負ける。勝たねば生き残れぬ。勝たねば、闇に飲まれて朽ちる。
勝たねば。
刀は振れば敵を切り裂ける。だがしばらくすると、ただの一振りでは散らぬ敵も増えてきた。
走ってきた甲斐か、闇はすぐには己を飲み込まぬ。故に全身全霊を込めて二撃、三撃と袈裟に刀を叩き落とす。そこでようやく敵は道を開けた。
一息つく暇もおかずに有象無象の敵が来る。
一呼吸に一体。それで済めば易い方だ。
一息に二人、三人。数は増え、手数も増やさねば闇に飲まれる。
彼はそこでようやく死を覚悟する。手元の刀が砕ければ新たに創造すればいい。だがこの忙しない一瞬の最中に上等な想像が出来るわけもなく、手元にはなまくらが一振り落ちるだけだった。
やらなければならない事が増える。だがその全てを怠れば、全てが死に直結する。
背筋が凍えた。
戦士ならば、侍ならば、勇士ならば心震え武者震いの一つでもしそうなものだが、そんな心地など寸分も無い。死への恐怖、緊張だけが彼を突き動かす。
想像を固定し、刀の型を設定し、振るう角度、順番、その全てをパターン化させる。やがてそれにも慣れて、敵の数も気持ち減ってきたような気もした。
世界は相変わらず先も後も闇だったが、目の前の闇は薄くなってきたような気がした。
気がついた時には、手を取り合い助け合う影たちが近くに見えた。
一方で、そうした連中の中で何者かを蹴落とし生け贄とする集団も確認できた。闇に飲まれた一人のお陰で集団は生き残り、歓声を上げているような感じが闇を通して肌に伝わる。
吐き気がしたが、そこまで関与出来るほど彼に余裕はない。
やがて敵も消えたところで、不意に彼は何かにぶつかり足を止めた。顔も身体も強打し激痛に叫びたくなるが、それも我慢して目の前に手を伸ばす。窪みがあり、中央に境がある。境には隙間がある。
それが扉であることを理解した瞬間、闇が背筋を撫でた気がした。
彼は必死に扉に身体を打ち付ける。扉は少しだけ隙間を広げる。後は腕力に任せて扉を押し開く。
そこが彼の記憶する、最後の瞬間だった。
与えられたのは満足な五体の肉体。先程までの最低限の経験。知識。
視界に広がるのは一寸先の闇。背に抱きつき頬を撫でるのもまた、闇。
彼はまだそれがどんな世界なのか、己の生きる意味も見つけられていない。
だが世界は、否応なしに闇に飲まれ、先へ進むことを急かす。
だから彼は走り続ける。生きるために。その先の何かを信じて。