第一話 思い出したかも
俺にとってはまだ死なんてすごく遠い世界でしかなかった。
死というのは実に突然襲ってくる。
まだそのことについて深く知る前にだって襲ってくる。
いつだって襲ってくる。
俺にとってはまだ死なんてすごく遠い世界でしかなかった。
親戚の葬式にだって出たこともあるし、虫を踏みつぶしたことだってある、ニュースで人の死を聞いたこともある。
でも、それはすべて他の者にとっての死であり、自分自身の死ではなかった。
俺にとってはまだ死なんてすごく遠い世界でしかなかった。
しかし、俺はその遠い世界に襲われた。
これから将来の夢を抱き、叶え、幸せを掴むはずだった。
でも、幸せの反対だとしても死は拒否できない。
俺にとってはまだ死なんてすごく遠い世界でしかなかった。
遠い世界でしかなかったはずなのだ……。
突然襲ってくるその世界。
「死後の世界」
本来あるはずのないその世界。
「死後の世界」
苦しむためのその世界。
「死後の世界」
胸に突き立てられたその刃物、それは「死後の世界」への招待状。
1
『赤』の持つ武器は異様だった。色だけは真紅一色で鮮やかであるが、その形がまさに無様という表現が妥当であった。
蛇のように長くいびつにまかれた柄、鋭さなど微塵もない鈍器のような刃、『赤』の身長のゆうに二倍は超えている刀身……剣のつもりだろうか……しかしいびつすぎる。
この世界で強さというのは例外なく武器の美しさに比例している。武器が美しいというのはその形を精密に考え、それを創りだす力を必要とするからだ。
『赤』の持つ無様でいびつな剣は美しさなどかけらもなく、形にすらなっていない、つまり弱い。底辺兵士のそれだ。
そんな兵士君が、まだ武器を創らぬ俺に殺気交じりの目線でものをいう。
――――武器を創れ
「騎士だなぁ。それにしても赤の兵士っていうのは……」
武器を持たぬ相手は切らぬ騎士道、それも赤の軍らしさだ。
俺は自分の腕に覚えはないが、剣もまともに創れない兵士君に勝つ自信ならある。
「騎士道とか貫く前にさぁ、小学校行って図画工作から始めたらどうだぁ……赤の兵士君。」
挑発。
騎士な赤い兵士君に手でクイクイと挑発する。
「きっ貴様ぁぁぁぁっ……!」
かすれた声がゴングを鳴らす。
『赤』が灯りを消し、陽のとどかぬ闇に消える。
今ほのかに光を浴びているのは、闇の中の『黒』だけだ。
俺はあえて灯りを消さず、相手の出方をゆっくり待った。
耳を澄まし音だけを聞く。
音。
自分の呼吸の音。
寒さに軋む空気の音。
水面と足がこすれる音。
少し波打つ水の音。
下を泳ぐ魚が動く音。
波と波がぶつかる音。
チャポン……。
音が調和している。
そしてその先に、わずかだが確かに『赤』の動く音。
ニヤリッ。
俺はハイエナのように獲物を見つめた。
一つの雄叫びが音の調和を終わらせた。
水を蹴る音。
闇の中に走る赤い稲光が俺に対して一直線にくる――――――
空気を裂く音。
――――――しかし稲光は俺に届くことなく唐突に消えた。
水に落ちる音。
水面にたれる赤色の音。
『赤』が上げる断末の音。
無音
雲が晴れ、視界から闇が逃げていく。
視界に映し出される『赤』は、全身を包む赤い服をさらに深い赤色で染めていた。
上から下まで赤一色、ただ一点の刃の黒を除いては。
俺は自分の創る剣が好きだ。未だ完全な美とは言えないが、形は整っている。
握りやすく滑らかな曲線を描く柄、光さえも切り裂くばかりの刃、俺の身丈と同じ長さの刀身、黒すぎるほどの俺の創る漆黒の細剣。
『赤』の剣はリーチが長いがもろすぎた。武器破壊。一突きでその心臓もろとも貫かれた。
黒い細剣は剣先から鎔けだし、支えを失くした『赤』が地面に倒れる音。
乾いた砂に成り果てる音。
砂が水に沈む音。
鳥が一羽水辺から飛び立つ音。
一瞬うなるほどの風の音。
無音。
人を消すのは初めてではないが……心がきしむ音。
陽の光から目線を逃すように下を向いた。
足元の水面に映る顔。
無音。
水面で微笑する『黒』の音。
無音。
水面で絶叫する俺の音。
鳥が一斉に水辺から飛び立つ音。
黒い細剣の柄が溶けるドロリとした音。
2
荒れる息いを無視して湖の水を喉に流し込んだ。
「――――ッ、ハァッ……ハァッ……ハァハァ……」
秋の湖の水は氷のように冷たくハッキリと喉から腹に流れるのを感じる。
「冷たいんだ……」
しばらく秋の湖を眺めて、心を落ち着かせたかった。
『赤』
水面に映る『黒』はやはり笑っていた。
「大嫌いだ……」
この空気そのものが『黒』に染まっているように感じた。
何でもないただのそよ風が顔にあたるたび……『赤』
何でもないただの鳥の声が耳に入るたび……『赤』
『赤』、『赤』『赤』『赤』『赤』『赤』『赤』『赤』……断末……。
耐えられず顔だけ湖に逃げ込んだ。
そこには『黒』を映すものもなかった。
『赤』の断末も水の音により遠くに聞こえる。
心地よかった。
冷え切った水が顔を締め付けるのがなぜか心地よかった。
湖の中の見たことのない緑色の魚の群れが突然の来客に驚き分散した。
そして泳いで行った方向には……『赤』
今日一日頭から離れることのないであろう『赤』の断末がまた大きくフラッシュバックする。
この湖が『赤』の最後の場所、消えた場所、砂になった場所。
水中に右手を入れて、ドロリと剣を創る。
その黒い細剣は何も変わることなくそこにある。
「本能かな……人間の……」
相手を前にすると何か自分が変わって気がする……。
この世界に来たとき「生き返るために人を踏み台にするのは無理だ」確かにそう言った。
だが、この有様だ。
今はもう生き返りたい、生き返りたいとそう心で叫んでいる。
他人だろうと踏み台にしてでも生き返りたい……そう心で叫んでいる。
「生き返りたいか?」
高いのか低いのか分からない不気味な声が俺の中の『赤』の断末を遮った。
「生き返りたいか?」
どんなに頭を振り払っても払えない声。
「生き返りたいか?」
頭に浮かぶ笑った仮面。
「生き返りたいか?」
そしてよみがえるこの世界に来たその時を……俺が死んだその時を……。