好きな食べ物は、なんですか。
「同じクラスの彩菜から告白されたんだよね。涼香は確かに可愛いんだけど、1か月も付き合ってるのに、何もさせてくれないし、つまんないんだよね。だから、別れようぜ」
夕日が差し込む教室の中。一番後ろの窓側の席に、涼香は座っていた。
机に腕をつき、一週間前に、直樹に言われた言葉を思い出す。
いつも言う「また明日」と同じような調子で言われた別れの言葉に、涼香は頷くことしかできなかった。
そして今朝言われた「おはよう」という挨拶。何事もなかったかのように向けられた笑顔に、付き合っていたことさえなかったと言われた気がした。
涼香は、一か月前のことを思い出す。告白は直樹からだった。
涼香と直樹が言葉を交わした回数は数え切れるほどだ。
ローテーションで回ってくる図書委員の仕事を数回一緒にやっただけである。
けれど、まっすぐ見つめる直樹の瞳に嘘は感じられなかった。
隣のクラスの明るい人。一年にしてサッカー部のエース。直樹への印象はそんなものだった。
明るい色で染められた髪。ワイシャツの下の派手なTシャツ。耳に空けたピアス。校則違反を咎められても、好きなことをしているだけだと彼は笑って言った。
校則違反をしていいという訳ではない。けれど、誰に何を言われても、素直に好きなことを好きと言えるのは、一種の勇気だと涼香は思う。そしてそれは、涼香にはできないことだった。
咎められたら謝ってしまう。自分の意見があっても、修正してしまう。まっすぐ自分の意見を貫ける直樹とは大違いで、だからこそ、そんな強さを持つ直樹に、涼香は憧れを抱いていたのかもしれない。
だから涼香は、一か月前の直樹の告白に、戸惑いながらも頷いたのだ。
自分のどこを好きになってくれたのか涼香にはわからない。それでも彼は「好きだ」と告げた。直樹の目は、まっすぐで、けれど少し揺れていた。
何もない、一か月だったのだろう。一緒に下校することはあっても、手を繋ぐことすらなかった。
けれど、涼香にとっては、緊張の連続だった。
一緒にいるだけでも、緊張した。直樹が話してくれることを、相槌をつきながら聞くだけで精一杯だった。
誰にでも好かれ、前を見つめることができる直樹と涼香は違い過ぎた。
直樹との共通点はまるでなく、映画の趣味も音楽もまるで反対だった。
だから涼香は、直樹が好きだと言っているドラマを毎週見ては話題を作ろうと努力した。涼香なりに直樹と釣り合うよう頑張ったつもりだった。
「何もさせてくれない」直樹の言葉を思い出す。
させてくれないもなにも、直樹は何もしなかったではないか。
けれど、それは、自分も同じだった。
好きだと伝えたことはなかった。それどころか、好きであると言い切れる自信もない。
まっすぐな目で見られるのは嬉しかった。好きだと言われると顔が熱くなった。
けれど、「好きだよ」と言われて、返す言葉が見当たらなかった。
女の子たちと直樹がじゃれあうようにしていても、涼香は何も言わなかった。
「……嫌じゃないわけじゃなかったんだけどな」
「…何?」
黒い髪が視界に入った。
独り言だったそれを会話にしたのは、教室に入ってきたクラスメイト。
夕月渉。涼香のクラスメイトであり、隣の席の男子だ。
涼香は苦笑いを浮かべる。
「ごめん。ただの独り言」
「そう」
「…」
「…」
隣の席とはいえ、言葉を交わした回数は数えられる程度。沈黙が痛い。
「……えっと、忘れ物?」
「ああ」
「そうなんだ。夕月くんってしっかりしているイメージがあるから忘れ物とかしそうになかったよ」
「高橋と違って?」
渉が面白そうに片頬を上げる。
「た、高橋?」
出てきた名前といつもとは違う渉の雰囲気に涼香は思わずどもってしまう。
「高橋直樹。葉山の彼氏でしょ?…あ、元、か?」
「ど…どうして…?」
知っているはずがなかった。直樹との交際は公言していない。からかわれたくないという理由で直樹が秘密にしてほしいと言ってきたのだ。
だから、涼香は親友である、奈々子にしか直樹との関係を言っていない。彼女から漏れることは考えにくい。
「見てたらわかるよ」
「…」
「ねぇ、手を出して?」
「え?」
「だから、手を出して」
突然の言葉に、涼香は渉を見た。まっすぐ涼香を見ている。
力強いその目に、涼香は思わず頷いた。恐る恐る右手を差し出す。
渉は小さく笑い、その手を掴んだ。
「…!」
驚き涼香の肩が上がる。その反応を見て、渉が再び微笑んだ。
「俺とは手を繋いじゃったね」
渉が覗き込むように涼香の顔を見る。その近さに思わず、体温が上がった。
「高橋とは手も繋げなかったのに」
「…っ!」
渉の言葉に、涼香は手を引いた。けれど、渉はその手を離してはくれない。
涼しい顔の割に、痛いほどの強さで手を握っている。
楽しそうに歪む笑顔は、綺麗で、けれど、残酷だった。
「離して!」
「嫌だって言ったら?」
「嫌も嫌じゃないもないでしょ!」
腕を上下に振る。諦めたのか、渉が手を離した。
「暴れるなよな」
ため息交じりに言う渉を涼香は睨みつけた。掴まれた痛さが右手に残っている。
「…どうしたの?いつもの夕月くんじゃないみたい」
涼香は、知っていた。話した回数は少ないけれど、渉は優しい。
休み時間に奈々子が私の席に来ると、自然に席を空けてくれた。消しゴムがなくて困っていると、半分に切った自分のそれを、机の上に置いてくれた。
「ありがとう」と言えば、優しい笑顔で「どういたしまして」と微笑んでくれた。
その一つ一つが自然で、だからこそ、本当に優しい人なんだと思えた。
だから、違う。こんな風に嫌味に笑う渉は、涼香の知っている渉ではない。
「いつもの?…俺の何を知ってるの?」
「…」
「葉山が知ってるのは、外面だけだろう?外面だけ見て、知ろうともしていない。……それで『どうして?』なんて、虫が良すぎるよ」
彼が言っているのは、何に対してのことだろう。涼香は胸が苦しくなるのを感じた。
渉の言葉は、正しくて。
正しいから、残酷だった。
『知ろうとしていない』
直樹は、帰り道で、何度も質問をしてくれた。
誕生日はいつか、好きな食べ物は何か。涼香は、それに応え、義務のようにおうむ返しをするだけだった。
帰り道の沈黙が痛かったから、話題を作りたかっただけで、思い返してみれば、涼香が直樹のことを知ろうとしたことはなかった。
緊張をした。ドキドキした。けれど、それだけで、そこに何かの感情が湧いてくることはなかった。
ひどく残酷だと思った。
何も気づかなければ、可愛そうな被害者でいられたのに。たった一言で気づかされてしまった。
残酷なのは、自分だと。
付き合ってから知っていく。それでも、いいと思う。
けれど、涼香は何もしなかった。
付き合っただけで、そこから、関係を発展させようとはしなかった。自分の気持ちを確認することさえしていない。
好きではないのにに付き合うのが問題なのではない。彼の言葉に頷いたのに、好きになろうとしなかったのが問題なのだ。
一つ気づけば、他のことまで気づいてしまう。
直樹は優しかった。自分にはもったいないほど。
そして、自分は、彼に愛されていた。
愛なんて大げさかもしれない。けれど、涼香にはその言葉以外思いつかない。
自分の気持ちがわからない涼香のために、直樹は何もしないでくれた。
自分の気持ちを整理できない涼香のために、直樹は関係を公言しないでくれた。
そう気づけば、見えてきた。直樹の笑顔は歪んでいた。
一緒に帰るたび、彼は、好きだと言ってくれた。
それに頷くだけの涼香を見て、笑っていたその顔は、いつもの彼ではなかった。好きなものをまっすぐに好きと言える直樹の表情を曇らせたのは涼香だ。輝くような笑顔を涼香は彼の隣にいて一度も見ていない。
どこを好きになってくれたのか、涼香にはわからない。けれど、彼は、本気で自分のことを好きでいてくれた。
涼香が傷つかないように、わざと嫌な言い方で終わりをくれた。憶測ではあるが、正しいと涼香は思う。
泣きそうになり、口元を押さえた。
泣いてはいけないと思った。泣く権利などない。
涼香は顔を上げた。渉を見る。
渉は、笑っていた。先ほどまでの嫌な笑いではない。優しい笑み。涼香の知っている笑い方だ。
優しい手つきで渉は涼香の頭を撫でた。
「……なんで?」
彼の目的がわからなかった。冷たくされたかと思えば、優しくされる。
渉が自分にしてくれることへの理由がわからない。
「自分がした悪いこととかってさ、懺悔したくならない?」
「…」
「俺はなるよ。言ってすっきりしたい。謝るのは怖いけど、でも、早く謝って終わらせたい」
「…そうだね」
「謝れなかったら、ずっと気にしてしまう。忘れた頃にふと思い出してしまう」
「うん」
「思い出しては、罪悪感を抱いてしまう」
「…」
「そんなのつらいだろう?」
渉の優しい笑みに、泣きたいくらい安心した。
「行って来れば?」
「え?」
渉は窓の外を見る。涼香も従った。
サッカー部の部員がグラウンドから出てきている。遠くで直樹の姿を見つけた。
一年は片付けがあるようで、他の部員と一緒にボールを集めている。
「今行けば、ちょうど会える」
「でも…なんて言えばいいの?直樹くんは終わらせてくれたのに。…直樹くんの中では終わってるのに、今更何を言えばいいの?」
涼香の戸惑った表情。それを見て、渉は首を横に振った。
「何でもいいんじゃない?言いたいことを言ってくれば」
「…でも」
「『ごめんね』でも、『今までありがとう』でも、『格好つけやがって、ばかやろう』でもなんでもいいよ。葉山が伝えたいことを素直に言って来ればいい」
「……」
「待っててあげるから」
「え?」
「終わったら、戻ってくればいい。…どんな結果でも、聞いてやるから」
謝りたかった。一か月もの間、傷つけてきたから。
けれど、それは直樹が終わらせてくれた。それなのに、また蒸し返すようなことをして、直樹はどう思うのか。罵られるかもしれない。そう思うと不安だった。
涼香は拳をつくり、ぎゅっと胸に押し付ける。
待っていてくれる、その言葉でこんなにも安心できることを知った。
「ありがとう」
「行ってらっしゃい」
背中を押すような笑み。せっかく堪えた涙が出そうになった。
「直樹くん!」
涼香は叫んだ。
グラウンドから出てくるサッカー部員の視線が一気に涼香に集まる。けれど、気にしなかった。
「…涼香?」
直樹が駆け寄るように涼香の前に来る。スライディングでもしたのか、直樹の顔は土で汚れていた。
「どうした?」
覗き込むように直樹は涼香の顔を見た。
周りがざわついている。人気者の直樹と涼香が一緒にいる光景は、珍しいらしい。
直樹が戸惑うように周りを見渡している。心配そうに涼香に視線を戻した。
やっぱりだ、と涼香は思う。やっぱり、直樹は優しい。
「今まで、ありがとう」
「…涼香?」
「気を使ってくれて、優しくしてくれて。…好きになってくれて、ありがとう」
泣きそうになるのを堪え、直樹の目を見て言った。
直樹の目が丸くなる。困ったような表情を浮かべた。
「……今になって言うか?普通」
「…」
「涼香」
「…何?」
「俺さ、涼香のことが知りたかった」
「…うん」
「涼香のこと知って、俺のこと知ってもらって。それで好きになってもらいたかった」
「…うん」
「涼香を惚れさせることができなかった俺のせいだよ」
涼香は首を横に振る。その頭に大きな手が乗せられた。
「格好つけさせろって。最後ぐらい」
優しい調子でぽんぽんと叩かれる。泣きそうになりながらもう一度、「ありがとう」を告げた。
「今度の木曜日」
「え?」
「委員会で一緒になる日」
「そうだね」
「図書委員なんて、どうせ暇だからさ、あのドラマの最終回、一緒に予想しようぜ」
そう言って直樹は笑う。
言外に、これからも友達として付き合ってくれると伝えてくれた。
自分はバカだったと思った。こんなにも、優しくされていたことに気づかなかったなんて。
「…涼香」
「何?」
「ごめんて言わないでくれて、ありがとう。…お前にとっては、なんでもない一か月かもしれないけど、俺にとっては、幸せな一か月だったよ。涼香の初めての彼氏になれてよかった」
震える直樹の声に、「ごめん」と言いそうになって、涼香は口を閉ざした。
ただ、深く頷く。
顔を上げると、笑顔の直樹がいた。今まで隣で見ることのできなかった輝いた笑顔。
それを見て、涼香も笑った。彼の隣で初めて本気で笑ったように思う。
教室のドアを開けると当然のように渉がいた。
「お疲れ」
腰を持ち上げそう言った。窓から見ていたのか、渉はすべてわかってるようだ。
渉の笑顔に、安堵した。気が緩んだと同時に出てきそうになる涙に、涼香は目頭を押さえる。
渉は、一歩、一歩とゆっくり涼香に近づいた。両手を広げ、涼香を包む。
突然のことに、身体が強張り、肩が上がった。渉は安心させるように、頭を撫でる。
「頑張ったな」
渉の言葉に、堪えていた涙が零れた。優しい渉の手に余計に涙が出てくる。
強張った身体の力は抜け、涼香は渉に寄りかかった。渉の腕の中は心地よい。
「どうして?」
「え?」
「どうして、そんなに優しくしてくれるの?」
「……言っただろ?見てたらわかるって」
「え?」
「見てたんだ。葉山のこと。…好きだから」
「…!」
涼香は驚いて顔を上げた。渉は困ったような表情を浮かべる。
「見てたから、わかったんだ。高橋と付き合っていたことも、葉山がそれに戸惑っていたことも」
「…」
「それから、罪悪感を抱いていたことも」
廊下ですれ違う時、直樹は、いつも嬉しそうなに涼香を見た。メールはいつも、直樹から始まり、直樹で終わっていた。
気持ちの差。それが、色んな場面で出てきていることを感じていた。
直樹を意識するようになれば、直樹を見ている人にも気づいた。直樹は人気がある。何人もの女子たちが彼を見ていた。
直樹を見るその目は、輝いて、その目で直樹を見ることはできないと涼香は思った。
「手を繋いだこともないってのは、高橋が友達に話してたのが聞こえただけなんだけど。…付き合っている割には、葉山は、そんな風に見えなくて、手も繋いだことがないって話を聞いてなんとなくわかった気がした。俺も、中学の時に、同じような経験があったから」
「…」
「告白されて付き合って。でも、俺は、何もしなくて、ただ相手の気持ちに甘えてた。…結局、自然消滅みたいに終わったんだ。……俺は、虫が良すぎると思うけど、伝えたかった。ごめんとかありがとうとか。彼女に悪いことをしたって思ったから」
「…うん」
「葉山もそうだと思った。あの時の俺と同じ顔をしていたから。…葉山に笑ってほしかったんだ。変な罪悪感をずっと引きずらなくていいようにしてあげたかった」
「うん」
「…けど、もしかしたら、自分のためかもしれない」
「え?」
「高橋のことを葉山に引きずってほしくない俺のためだったかもしれない。高橋は俺から見てもいいやつだから、…いつか、葉山が本気で高橋を好きになってしまうかもしれないって怖くなったんだと思う」
「…」
「…幻滅したよな、ごめん」
渉はそう言い頭を下げた。涼香は首を横に振る。
そんな涼香の頭と一度軽く叩き、渉は離れようと涼香の肩を掴んだ。
涼香は思わず腕を伸ばし、それを止める。背中に腕を回し、力を込めた。
2人の距離が近くなる。
「…勘違いするよ?」
囁くような小さな声だった。
「…え?」
「そんなことされたら、勘違いする。俺は、葉山が好きだから」
その言葉に、胸を打つ音が大きくなるのを感じた。渉の黒い瞳がまっすぐ涼香を見る。
違うと思った。
直樹といると、緊張した。好きだと言われた時、嬉しかった。
けれど、違う。
同じ言葉なのに、渉と直樹では、胸を打つ速さも、大きさも違った。身体の熱が上がる。
顔はおそらく耳まで赤いだろう。
自分の気持ちがまだ涼香にはわからなかった。
「ねぇ、夕月くん」
「…何?」
「好きな食べ物、教えてくれる?」
けれど、思った。
貴方のことが知りたい、と。
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