なろう系作品における追放ものについて
「小説家になろう」を中心とした、いわゆるなろう系作品の一大ジャンルとして「追放もの」がある。パーティーやギルド、あるいは勇者一行などから主人公が「お前は役に立たない」「もう必要ない」と宣告されて追放され、その後に主人公が成功し、追放した側が没落するという物語である。
一見すると単純な勧善懲悪のように見えるが、このジャンルを数多く読んでいると、いくつか共通するパターンが存在することに気付く。
まず、追放される主人公は大きく二つのタイプに分類できる。
一つ目は、本当に無能であり、追放された後に何らかのきっかけで有能になる場合である。
二つ目は、最初から極めて有能であるにもかかわらず、その能力が周囲に理解されておらず、不当に無能扱いされて追放される場合である。
この二つは似ているようで、物語の構造はかなり異なる。
前者は主人公の成長物語であり、後者は主人公の再評価物語と言える。
しかし、どちらにも共通して存在する大きな疑問がある。
それは、なぜ追放するくらい無能だと思っている人物を、そもそも仲間にしていたのかという点である。
現実で考えれば当然の話だが、能力不足の人物をわざわざ重要なメンバーとして迎え入れることは少ない。
まして命を懸けて戦う冒険者パーティーであるならなおさらである。
新人ならば試験を行うだろうし、実力不足ならば早い段階で加入を断るはずである。
ところが追放ものでは、主人公は数年間も一緒に活動していたという設定が珍しくない。
数年間も行動を共にしておきながら、ある日突然「お前は役立たずだから出ていけ」と言い出す。
これはかなり不自然である。
もし本当に役立たずであれば、そこまで長期間同行させる理由がない。
逆に長年一緒にいたのであれば、最低限の能力は認めていたはずであり、突然評価が変わる理由が必要になる。
しかし、その理由は「最近活躍していない」「他のメンバーが文句を言っている」といった曖昧なもので済まされることが多い。
読者にとっては物語を始めるための都合でしかなく、説得力には欠ける。
特に主人公が最初から有能である場合、この矛盾はさらに大きくなる。
敵の索敵、罠の解除、荷物の管理、回復薬の調合、交渉、地図の作成など、主人公が実際には様々な仕事をしていたことが後になって判明する作品は非常に多い。
しかし、それほど重要な仕事を毎日こなしていた人物を、周囲が全く評価していなかったというのは現実的ではない。
例えば会社で言えば、経理担当者がいなくなって初めて経理業務の存在に気付くようなものである。
多少はあり得る話ではあるが、毎日のように繰り返される業務を何年も誰も認識していなかったというのは無理がある。
しかも主人公が追放された直後から急激にパーティーが機能不全に陥る。
補給が止まり、索敵ができなくなり、魔物に奇襲され、資金管理も崩壊する。
ここまで重要な役割ならば、追放前から誰かが気付いていて当然ではないだろうか。
主人公が有能なのではなく、周囲が極端に無能であるようにしか見えない作品も少なくない。
一方、本当に無能だった主人公が追放される場合も疑問は残る。
役立たずだと全員が認識していたのであれば、やはりもっと早く追放しているはずだからである。
特に冒険者という職業は命懸けである。
足を引っ張る仲間を何年間も抱え続ける余裕など本来は存在しない。
無能なら加入を断る、あるいは教育する、改善しないなら早期に除名する。
それが組織として自然な判断である。
ところが追放ものでは、「昨日まで何年も問題なく活動していた」のに、「今日から急に無能だから追放」という展開が珍しくない。
これは物語の都合以外の説明が難しい。
もう一つ特徴的なのが、人間関係である。
追放ものでは主人公が仲間から嫌われていることが非常に多い。
しかも主人公自身は「仲間とは信頼し合っている」と一方的に思い込んでいることが少なくない。
あるいは、自分から積極的に他人と交流することもなく、仕事だけを淡々とこなしている人物として描かれる。
つまり主人公のコミュニケーション能力にも問題があるように見えるのである。
特に主人公が有能であるにもかかわらず評価されない作品では、この点が顕著である。
本当に有能な人物であれば、自分の仕事を周囲に説明したり、成果を共有したりすることも重要な能力の一つである。
会社でも研究でも軍隊でも同じだが、成果を適切に報告しなければ評価されない。
それは組織で働く以上当然のことである。
にもかかわらず、「黙って裏方をやっていたので誰も気付かなかった」という設定は、主人公自身にも改善すべき点があったと言わざるを得ない。
もちろん、周囲が極端に愚かで説明を聞こうともしないという作品も存在する。
しかし、その場合は主人公ではなく、追放する側全員の知能が著しく低いことになってしまう。
どちらにしても、追放劇そのものに無理が生じている。
追放後の展開についても共通点がある。
それは主人公の運が非常に良いことである。
本当に無能だった主人公は、追放された直後に特殊能力へ覚醒したり、伝説級の師匠に出会ったり、神から祝福を受けたりする。
努力よりも偶然によって能力を得る場合が非常に多い。
つまり、追放されたことよりも運命的な幸運によって成功しているのである。
一方、最初から有能だった主人公も同様である。
追放された直後に、自分の能力を完璧に理解してくれる人物が偶然現れる。
王国最高の騎士団であったり、大商会であったり、王女や貴族であったりと、社会的地位の高い人物がなぜか都合よく主人公を見つけ出し、最大限の評価を与える。
しかも待遇も破格である。
給料は数倍、住居付き、周囲から感謝され、美少女からも好意を寄せられる。
ここまで偶然が重なると、主人公が優秀だから成功したというより、運に恵まれたから成功したようにも見えてしまう。
もちろん物語である以上、ある程度の幸運は必要である。
しかし、多くの作品では幸運が連続し過ぎるため、読者によってはご都合主義を感じる原因になっている。
そして追放もの最大の特徴とも言えるのが、「ざまぁ」と呼ばれる展開である。
主人公を追放した側が破滅し、その様子を読者が楽しむ構成である。
これも主人公がどちらのタイプかによって内容が異なる。
本当に無能だった主人公の場合、追放した側はなぜか急速に運が悪くなる。
強敵と遭遇し、事故が続き、裏切りが起き、偶然が重なって壊滅する。
主人公がいなくなったこととは直接関係のない不幸まで重なるため、「主人公の幸運が移っただけではないか」と思える作品も存在する。
一方、主人公が有能だった場合は、主人公が担っていた仕事を誰も代行できず、組織が徐々に崩壊していく。
こちらの方がまだ納得しやすい。
縁の下の力持ちを失えば組織が弱体化すること自体は十分あり得るからである。
ただし、それでも崩壊の速度は極端である。
昨日まで最強クラスだったパーティーが、一人抜けただけで翌週には全滅寸前という作品も少なくない。
組織というものは普通、ある程度の代替手段を持っている。
完全に一人へ依存しているのであれば、その組織自体が極めて危険な状態だったことになる。
さらに不思議なのは、追放した側がそのまま主人公を放っておけばよいにもかかわらず、なぜか再び主人公へ絡みに行くことである。
主人公が成功しているという噂を聞けば妨害しようとし、失敗させようとし、挙げ句の果てには返り討ちに遭う。
せっかく縁が切れたのであれば、そのまま別々の人生を歩めばよいはずである。
しかし物語では再対決が必要になるため、追放した側は何度も主人公の前へ現れる。
その結果、さらに惨めな目に遭い、「ざまぁ」が繰り返される。
このように追放ものは、読者に分かりやすい爽快感を与えるために、多くの展開が単純化されている。
理不尽な追放、偶然の幸運、正当な再評価、そして追放した側の破滅という流れは非常に読みやすく、人気が出た理由も理解できる。
しかし一方で、組織の判断や人間関係を現実的に考えるほど、数多くの疑問も浮かび上がってくる。
追放されるほど無能なら最初から仲間にしないのではないか。有能ならもっと早く誰かが気付くのではないか。主人公自身にも説明不足や対人能力の問題があったのではないか。そして追放後の成功や「ざまぁ」の展開は、能力以上に運へ依存しているのではないか。
これらの疑問は多くの作品に共通して見られる。
だからこそ近年では、追放に至るまでの経緯を丁寧に描いた作品や、追放する側にも一定の合理性を持たせた作品、あるいは主人公自身にも非があったことを認める作品などが評価される傾向も見られる。
追放という出来事そのものではなく、「なぜ追放されたのか」「なぜその後成功したのか」を納得できる形で描けるかどうかが、このジャンルの完成度を左右する重要な要素なのではないだろうか。




