戻らなかった場所
戻れないのは、
道が消えたからじゃない。
戻る理由が、なくなっただけだ。
谷の奥で、道は二度折れていた。
地形のせいじゃない。
人の足で、そう踏み分けられた形だ。
右は、なだらか。
左は、狭く、下りている。
どちらにも標識はない。
「……どっち?」
アインが聞いた。
レイは、すぐには答えなかった。
右の道には、
わずかに人の気配が残っている。
最近通った跡だ。
左には、それがない。
危険、というほどでもない。
ただ――
選ばれていない。
シロは、左を見ている。
待っているわけじゃない。
立っているだけだ。
「右に行けば、戻れる」
レイが言った。
事実だった。
少し進めば、
また人の道に合流する。
確認も、案内も、
もう一度受けられる。
アインは、何も言わない。
ただ、
視線を左に置いたままだ。
「……ねえ」
静かな声。
「こっちは、
戻るって言葉が、出てこない」
理由は言わない。
説明もしない。
でも、
それで十分だった。
レイは、一歩、左に踏み出した。
地面は固い。
滑りもしない。
振り返らなかった。
それだけで、
決まった。
背後で、
風の音が少し変わる。
音が遠ざかったわけじゃない。
重なり方が変わった。
レイは、ようやく立ち止まった。
戻ろうと思えば、戻れる。
道は消えていない。
けれど――
今、戻る理由を探しても、
言葉が浮かばなかった。
「……ここだな」
誰に向けた言葉でもない。
シロが、低く鳴く。
肯定でも、否定でもない。
ただ、そこにいる。
アインが、息を吸った。
深く、静かに。
「ここなら、
名前を聞かれない」
レイは、少しだけ驚いた。
アインは続けない。
それ以上は、言葉にしない。
三人は、並んで立っている。
誰も、案内しない。
誰も、止めない。
正しさも、
役割も、
判断も、ない。
それでも、
立っていられる。
レイは思う。
肩に、力が入らない。
何かを決めなくても、
足が止まらない。
――戻らなかった。
それだけで、
十分だった。




