戻れる距離
戻れるうちは、
まだ選んでいない。
谷は、思ったよりも長かった。
道幅は変わらない。
景色も、大きくは変わらない。
それでも、
人の痕跡が少しずつ減っていく。
焚き火の跡。
踏み固められた地面。
そういうものが、途切れがちになる。
「……人、通ってるよね」
アインが言う。
「通ってる」
レイは答えた。
「でも、
ここで止まる人はいない」
説明は、それだけだった。
進むほど、
足音が軽くなる。
重さが抜ける、というより、
置いていかれるものが増える感覚に近い。
シロが、歩調を落とした。
先を警戒しているわけじゃない。
後ろを気にしている。
レイも振り返る。
来た道は、まだ見える。
曲がり角の向こうに、
人の通る気配も残っている。
戻れる。
今なら。
「……戻る?」
アインが、問いかけるように言った。
促しではない。
確認でもない。
ただの、選択肢。
レイは少し考えた。
戻った先に、
何があるかは分かっている。
案内。
確認。
短期滞在。
拒まれはしない。
ただ、置かれる。
「今日は、戻らない」
レイはそう言った。
決意というほど強くない。
予定の延長に近い。
アインは、何も言わずに頷いた。
シロが、再び歩き出す。
その背中は、
急いでも、躊躇ってもいない。
道の脇に、
古い標柱が倒れていた。
文字は風化している。
読めない。
けれど、
向きだけは残っている。
片方は、来た道。
もう片方は、さらに奥。
誰かが立てたものだ。
けれど、
誰も直していない。
レイは、それを跨いだ。
特別な感触はない。
音も、変わらない。
ただ、
振り返った時に――
来た道が、少し遠く見えた。
距離が伸びたわけじゃない。
角度が変わっただけだ。
「……ねえ」
アインが、静かに言う。
「もう少し進んだら、
戻るって言いにくくなる気がする」
「うん」
レイは否定しなかった。
だからといって、
止まる理由にもならない。
三人は、歩き続ける。
まだ、戻れる。
けれど――
戻る理由は、薄くなり始めていた。




