最終回【前編】カサルと最後の取引
静まり返った王都シラクーザ。
豪奢な王城の執務室では、カサルによって返上された膨大な権限を誰に委ねるか、紛糾する議論が糸口を見出せずにいた。マリエが築き上げた利権の山、誰もが喉から手が出るほど欲しがるはずの「富の再分配」が、新王レビスの最初の、そして最も過酷な政務となっていた。
「……能力のある人間を、身分を問わず積極的に登用しよう。貴族には土地がある。実務的な利権は能力ある者に回し、富を強制的に循環させるんだ」
レビスは淡々と、理想とする能力至上主義国家に向けて、雇用形態を血筋から実力へと変更する大改革を進めていた。そんな「正解」を求めて奔走する王の執務室へ、書類の山を抱え込んだカサルが姿を現す。
かつての「おバカ」な面影はない。その顔は暗く、瞳には濃い影が落ちていた。
レビスはカサルを迎え入れ、執務室の一席を勧める。そこは、パイをどう切り分けるかの段取りに翻弄される官僚たちで溢れ返っていた。ペンの走る音だけが響く静寂の中、カサルが取り出した羊皮紙には、マリエが遺した「未記載の宿題」がびっしりと書き込まれている。その一枚一枚に、カサルの『枢機卿の紋章』が冷徹に刻印されていく。
既存の教義からの逸脱への弁明、ギルド職員の生活保障、蛮族化した空賊の再編。カサルはそれらを機械的にマニュアル化し、次々と他者へ押し付けていった。だが、裁量権を分散させればさせるほど、肥大化した「権利」そのものがシラクーザを窒息させていく。
「……王。ヴォルグ宰相は、まだ戻らないのか?」
「彼はエディスに連れていかれてしまったよ。僕らが聖塔にいた半年間で、彼の領地はシソーラ侯爵家に完全に支配されてしまった。勇ましい彼のことだ、取り返しに行ったんだが……返り討ちにあって捕らえられてね。今は助け出せる状況にないんだよ」
「なるほど。……陛下、この国に溢れる企業のいくつかを国に譲渡したい。我一人が抱えていても、もはや処理の限界を超えている」
「残念だけど、僕たちじゃあどうにもならないよ。優秀な人材をかき集めてはいるが、マリエが作ったこの『高度なシステム』を理解できる人間は、世界に君しかいない。君が手を離せば、明日には数万の民が路頭に迷う。……彼らを見捨てることはできないだろう?」
レビスが窓の外を指差す。
そこには、一分の隙もなく舗装された道路を、一糸乱れぬ足取りで行進する労働者たちの姿があった。雑談もなく、寄り道もなく、ただコンテナを運び、支給されたおにぎりを食べ、再びラインに戻る。その横顔には、魔法と薬物によって彫り込まれた「幸福な微笑」が張り付いていた。
「……魂が、抜けている」
カサルは震える手で窓の縁を掴んだ。不便を消し、無駄を削ぎ落とした結果、そこには「生きている人間」がいなくなっていた。あるのは、新王を神と仰ぎ、ギルド・マリエという心臓に駆動される、巨大な国家という名の『機械部品』だけだ。
「……マリエに会ってくる。このままでは、我の理論が世界を殺してしまう」
「それがいい。……彼女のことなら、君が一番の適任だ」
レビス王は悲しげな、しかし確信に満ちた表情で頷いた。
◇
王都の北端。重罪人を収容するはずの『嘆きの塔』。
カサルが乗り込んだそこは、もはや牢獄ではなく、一人の女帝が君臨する宮殿と化していた。
「お帰りなさい、カサルちゃん。……お仕事、順調かな?」
最上階の特別室。マリエは最高級のステーキにナイフを入れながら、汚れ一つない純白のドレスを揺らして微笑んだ。周囲に並ぶ無数の魔導通信機からは、外界の動向が絶え間なく報告されている。檻の中にいながら、彼女はシラクーザのすべてを、その細い指先で操っていた。
「マリエ。今すぐあの『更生リゾート』を解体しろ。民に『マリポン』を配るのも止めろ。……これは命令だ。仕事を押し付けるなら、せめて正気の世界を残して行け」
カサルの叫びに、マリエは悲しげに首を傾げた。彼女は席を立つと、格子の隙間からカサルのもとへ歩み寄り、その頬を優しく包み込む。
「なんで? カサルちゃん。……みんな幸せだよ? 貧しい人もいない、争いもない。あなたが大好きな『機能美』にあふれた世界になったじゃない」
「我は……人間を歯車にしろと言った覚えはない!」
「同じことだよ。人間はね、自由を与えると必ず間違えるの。間違えると、カサルちゃんを傷つけたり、働かせたりしようとする。……だから、私が『正解』だけを選べるようにしてあげたの」
マリエの瞳には、狂気すら超越した、濁りなき「愛」が宿っていた。
「あなたは好きなことだけ考えていればいいし、楽しいことだけをしたらいい。……この世界でたった一人の、自由な『貴族様』でいて。……ね? それがあなたの望みだったんでしょ?」
「…………っ」
カサルは彼女の手を振り払うことができなかった。
この地獄の種を蒔いたのは、紛れもなく自分自身だ。効率を求め、人を信じず、ただ己の『不労』という欲求のために技術を振るった。その結果が、この「魂なき黄金郷」なのだ。
(……我の負けだ。……この結果が全て我に起因するものだというのなら、彼女に罪はない。裁かれるべきは、この我だ)
格子越しにマリエの腕に抱かれながら、カサルは静かに目を閉じた。伝わってくるのは、自分のために世界を壊した少女の、残酷なまでに純粋な鼓動。
「……マリエ。シラクーザはもはや最高に美しい地獄だ。あれがお前の思う理想の世界なんだろうな」
「ふふっ。わかってくれた? 嬉しいな」
マリエが悦びに目を細めた、その瞬間。カサルは彼女の腕をすり抜け、一度も振り返ることなく部屋を後にした。
「カサルちゃん……? 私に、言うことがあるんじゃないの……?」
しかしその答えはマリエの予想に反したものだった。
「いいや。答えは出たさ」
「え……?」
背後で戸惑うマリエの声を置き去りにし、カサルは夜の王都を歩く。
彼女の純粋な瞳を見れば、誰が「悪」なのかは明白だった。彼女の瞳に映る、無責任な自分こそが諸悪の根源なのだ。
カサルは、別の解決策を模索することにした。マリエの掲げる正しさは、自分たちが生きる「今」という時間においては正解なのかもしれない。だが、無辜の民を永遠に働かせ、その犠牲の上に繁栄を築く世界に、その「先」はない。
自分が死んだ後、このシステムを維持する者がいなくなれば、国家は砂の城のように崩れ去るだろう。
マリエが「今」を愛しているなら、カサルは自分が死んだ先の「未来」を愛していた。
高貴なる者の務めを遂行する。
それが貴族として生きたいと願っていた、カサルの最後の務めだった。
◇
カサルは聖塔の石扉の前に立ち、月明かりの下で独り不敵に笑った。
かつて「おバカ」を演じていた少年の仮面は、そこにはもうない。
「……さあ、始めようか。シラクーザの『魂』を買い戻すための、最後の取引を」
一歩、また一歩と聖域の森へ足を踏み入れるたび、鼻を突いていた薬品の臭いが消え、代わりに肺の奥まで凍てつかせるような鋭利な静謐が立ち込める。
「……ソウカ。次ハ、君カ」
入り口で待っていたのは、あの機械人形――選定者だった。無機質な球体関節を軋ませ、ガラスの瞳でカサルを見つめる。
「どういうことだ? 我は頼み事をしに来ただけだぞ」
「……フフッ。ツイテコイ」
半年間共に過ごしてきて、カサルは初めて選定者が笑うのを見た。
「外ハ、大変ナノカ」
「マリエの作った世界を見た。……あれは我の求めた機能美ではない。意志を奪われ、効率という名の歯車にされた世界では、呼吸すらも虚しい」
カサルは懐から枢機卿の指輪を取り出し、月にかざした。
「選定者。シラクーザの民に『魂』を返したい。彼らが自分の足で歩き、自分の頭で迷う……そんな、非効率で美しい混沌を取り戻すために、お前の『認知』の魔法を借りたい」
認知の書き換え。マリエによって労働こそが幸福とされる世界を否定する認知を、選定者によって上書きする。それこそがカサルの新しく考えたシナリオだった。しかしその考えはキッパリと断られてしまう。
「残念ダガ……私ニソノ資格ハナイ。私ハ聖塔ノ管理者デアリ、聖塔ト契約セシ者。外部ニ魔法ヲ及ボスコトハ、二鍵ノ聖選ガ行ワレタ直後ノミ……ソレガ、システムノ絶対条件ダ。通常、人間ガココヲ『認知』スルコトスラ不可能ナノダカラ」
「……どういうことだ。我はこうして現に入ってきたではないか。認知できんとはどういうわけだ」
カサルの問いに、人形は意味深な笑みを浮かべた。その表情は、もはや精巧な機械の域を超え、見守る者に寒気を覚えさせるほど慈愛に満ち、そして感情豊かに見えた。
「ソレハ――。貴方に、その資格があるからです。カサル・ヴェズィラーザム」
人形の手が虚空をなぞると、次元の膜がガラスのように裂け、燦然たる魔力の奔流の中から、選定者の糸を引く「実体」が姿を現した。茨の冠を戴き、汚れなき白い法衣を纏ったその男は、神々しくも、どこか永い刑期を終えた囚人のような哀愁を漂わせていた。
「その指輪をこちらへ」
カサルに驚く隙すら与えず、男は未知の引力で、彼の指先から枢機卿の指輪をスルリと抜き取った。カサルはその男の面影に、胸を締め付けるような既視感を覚えた。だが、どれほど思考を加速させても、記憶の海にその名は浮上してこない。
男は掌の中で赤い指輪を無造作にくしゃりと握りつぶすと、新たな適合者を迎え入れるための「儀式」を静かに開始した。
「一等級異端核保持者の条件。それは既に異端核を宿し、枢機卿であること。かつ、世界にその身を捧げる覚悟を持つ者。……貴方は、その覚悟をしてここへ来たのですね?」
男の言葉に、カサルは皮肉な符合を感じていた。その条件は、先刻まで泥沼の議論を続けていた『二鍵の聖選』――すなわち「王」の選定条件に酷似している。
世俗の代表たる貴族と、神の代弁者たる教会。その双方に認められ、権力を託されるのが「王」であるならば、その双方を自らの内に封じ込め、世界の礎となるのが「一等級」という存在だった。
しかしそんな一等級を宿すには、カサルには致命的で大きな問題があった。
「何が言いたい。我には既に三等級核がある。二つの核を宿すなど、理論上不可能だぞ」
男は首肯した。
「はい。ですから、その核とはお別れをしなければなりません。そして、これが貴方とこれから永い、永い時間を共にすることになる一等級異端核――魔法名【魂】。この魔法を行使すれば、たった一度の脈動で、シラクーザ全土の人々の心に、失われた人間性を呼び戻すことができるでしょう」
そこでカサルは、真実に辿り着いた。
シラクーザに夜明けをもたらすのは、目の前の「男」ではない。自分自身なのだ。
そしてその魔法の代償として、自分もまたこの男と同じく、悠久の時間をこの塔の管理者として孤独に過ごすことになるのだと。
すべてを理解したカサルは、自身の末路を予見しながら、選定者の男を真っ直ぐに見据えた。
「代償は、この聖塔への永劫の縛りか。……お前も、何か大望を叶えるためにここへ辿り着き、自由を失ったんだな?」
男は小さく、しかし重みを持って頷いた。
彼にも愛したものがあり、救いたい世界があり、そのために持てる力を尽くした果てに、ここへ辿り着いたのだろう。
カサルは男の瞳の奥に、数百年後の自分自身の姿を幻視した。
「……ふふ。さあ、どうされますか。シラクーザに、真の意味での明けの明星をもたらす準備はできましたか?」
男の問いかけに、カサルは一度だけ天を仰いだ。
この身を捧げれば、マリエの望んだ「二人だけの世界」は永遠に灰に帰す。そして我という部品は、永遠にこの塔の歯車となる。
「……準備、か。あいにくと我は完璧主義者でね。これほど大量の『仕事』を抱えたまま、神座に座る趣味はない」
カサルは懐から数枚の羊皮紙とペン、そしてマリエから預かっていた『子爵印』を取り出した。「少し待て。我が人間として行う、最後の事務処理だ」
カサルは石畳に腰を下ろすと、月明かりを頼りにペンを走らせた。一文字書くごとに、シラクーザ全土に張り巡らされた「独裁」の糸を解き、信頼できる者たちへと繋ぎ直していく。
【弟・ザラへ】
「ザラ。お前は今日この瞬間をもって、ヴェズィラーザム家の正当な当主だ。我が作った地下工場も、コンテナの全特許も、お前に譲渡する。これからは領主代行ではなく、一人の主としてこの不毛な地を耕せ。……それと、民に『木の根』はもう食わせるな。米の方が美味いに決まっているからな」
【盟友・ヘルメスへ】
「ヘルメス。お前に『世界経済の王』という椅子を正式に明け渡す。我の保有する全ギルドの権利を、新設する『シラクーザ中央銀行』の資産として管理しろ。独占は腐敗を招く。富は血液のように循環させろ。……いいか、マナー講師はクビにするなよ。お前が次に握手をするのは、各国の王なのだからな」
【陛下と宰相へ】
「レビス、ヴォルグ。マリエが作ったこの歪な平和を、お前たちの手で『人間の法』に書き換えて貰いたい。我はこれから少しばかり高い場所で眠るが、空が曇ったら卿らの怠慢だと思ってくれて構わない。レビス、卿ならばこの国を良い方向に導くを我は信じている。ヴォルグ、お前は熱で国を動かせ。卿の手腕は半年の間に見極めているつもりだ……二人なら、きっとそこまで悪いことにはならない。そう信じている」
カサルは最後に、最も小さく、最も震える文字で、一人の少女への言葉を綴った。
【マリエ・リーベへ】
「お前は、我にとって都合の金づるだ。よく言うことを聴くし、出来ないことはないし、頼んだ仕事も全部やってくれる。お前ほど都合のいい女を我は知らない。……だから、こんな男に引っかかるんじゃなくて、もう少し性格の良い男を選んで結婚しろ。それで綺麗さっぱり我のような男のことは忘れること。いいな? ……あとはそうだな、美味いもん沢山食って幸せになれ。最後に──────いや、それだけだ。じゃあな」
書き終えた四通の手紙に、カサルは最後の力を込めて子爵印を押し付けた。すると、夜空から「キュイ! キュイ!」という懐かしい鳴き声が響く。かつて旅を共にした宅配竜たちが、カサルの意志を察したかのように舞い降りてきた。
「……最後の仕事だ。一人残らず、届けてこい」
四方へと飛び去る竜たちの翼を見送ったカサルは、手元に残ったペンを石畳の上に静かに置いた。もう、自分には何も残っていない。名前も、富も、愛した少女への想いでさえも、すべてはシラクーザの未来へと放流した。
「……よし。これで、身軽になった。……選定者よ、待たせたな」
カサルは立ち上がり、ゆっくりと胸元をはだけさせた。三等級異端核【風】が十五年間刻み続けてきた鼓動の真上に、白く細い指先を立てる。
「……あぁ、遂にこの日がやってきたのか。随分と待たされた」
男がカサルの前で十字を切ると、一等級核を携えた腕を虚空へ突き入れた。男が手を引き抜いたとき、そこには五歳の「選別」以来、カサルの魂と共歩んできた懐かしい【風】の核が握られていた。
刹那。
森の木々が狂ったようにざわめき、天を突く聖塔が黄金の燐光を放ち始める。
「……う、あぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
膨大な情報の激流を伴った【魂】の核が、心臓を食い破る勢いで全身を侵食していく。神経が焼き切れ、血液が沸騰するような激痛。異端核によって止まっていた、二十歳の青年の時間が、猛烈な勢いで動き出す。
ミシミシ、バキバキ。
カサルの骨格が爆発的に軋み、伸びていく。十一歳の子供の姿で固定されていた肉体が、本来あるべき成人の姿へと一気に作り変えられていく。少年の体格を包んでいた黒い絹のドレスが、膨れ上がる筋肉に耐えきれず無残に弾け飛んだ。金糸の髪は魔力の奔流に煽られ、膝まで届くほどに急速に伸長していく。
子供のあどけなさは剥がれ落ち、そこには――神々しいまでの美貌を湛えた、一人の「青年」の姿が浮かび上がった。
「……あ、ぁ…………。……重い、な。人間の『想い』というやつは」
大人になったカサルの口から漏れたのは、低く、物悲しい旋律だった。彼の瞳から、熱を帯びた一筋の涙がこぼれ、石畳を濡らす。
それは、マリエと共に過ごした少年の日々との、永遠の決別。
二十歳。かつて彼が夢見た「不労の極致」は、人としての生涯を終えることで完成した。
聖塔が眩い光の柱となって夜空を貫く。
シラクーザ全土に、眠りを覚ます福音の風が吹き荒れようとしていた。
カサルの新たな魔法「ソウル」によって世界はどう変わったのか。
あるいは変わらなかったのか。
それと魔法ではどうにもなっていない大量の仕事はどうなったのか。
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2026/1/25/12:00 投稿




