おバカ貴族と古びた血流
王都シラクーザ。
この大陸において「富」という概念が形を成すならば、それは間違いなくこの街の姿をしているだろう。魔導の光が夜を駆逐し、蒸気と魔力の残滓が空を紫色に染める巨大都市。その心臓部にあたる商業地区は、今日も飽和するほどの熱量で膨張し続けていた。
レビスの掲げた美しいシラクーザという思想は大衆に受け入れられず、人々はまた空を汚し続けている。その証拠に正午を過ぎた刻限だというのに、太陽の光は地上には届かない。
「龍災後にあの空を見たのは確か、下層と中流の一部の人間だったな」
三か月前を思いだす。あの時に助けた人々もこの都のどこかにいるはずだが、相変わらず全員マスク着用を義務付けられているため、誰が誰だか分からない。
「へい。残念ですが旦那、この空を作っているのはそいつらじゃないってことですわ」
「あぁ。龍災の際にいち早く王都を脱出した腰抜けども───奴らが上層で胡坐をかく限り空は晴れんだろうな」
蒸気の音と濃霧に包まれたシラク―ザは、相変わらず歩く人々の所在を忘れさせるようで、二人も目印無しで出歩くことはできない。
乱立する煉瓦造りの倉庫群と、地面を縫うように張り巡らされた魔導列車の軌道、そして港に停泊する無数の商船のマストが、地上の路地を薄暗い迷宮に変えているようだった。
「……臭うな。金と、脂と、労働の汗。それらが腐りかけたような、文明の体臭だ」
カサルは漆黒のレースで縁取られた扇子を口元に当て、不快そうに眉をひそめた。
彼が立っているのは、王都最大の港湾区画を見下ろす石造りのテラスだ。
ここから見れば、眼下に広がる光景は、巣を突いた蟻の群れそのものだった。
怒号が飛び交う。
車輪が石畳を削る悲鳴が響く。
そして何より、圧倒的な「物」の量が視界を埋め尽くしていた。
東方の香辛料を詰めた木箱。
北方の毛皮を縛った麻袋。
南方のワインを満たしたオーク樽。
西方の鉱石を積んだ鉄製のバケツ。
形状も、大きさも、素材も、重さも。何一つとして統一されていない有象無象の「財宝」たちが、港の岸壁に山脈のように積み上げられている。
「旦那、足元にお気をつけて。ここは泥棒と人夫の掃き溜めですから」
隣を歩くヘルメスが、油断なく周囲を警戒しながら道を空ける。
彼の言う通り、行き交う人々は皆、殺気立っていた。
彼らは時間に追われているのではない。「形のない魔物」に追われているのだ。
「オラァ! 通るぞ! 退かねぇと轢き殺すぞ!」
鞭を持った現場監督が、荷馬車を引く馬の尻を叩く。
過積載で車軸をきしませる荷馬車が、よろめく人夫を跳ね飛ばす勢いで通り過ぎていく。
荷台には、藁で厳重に梱包された陶器の壺が積まれているが、路面の凹凸を拾うたびにガチャガチャと不安な音を立てていた。
「……見ろ、ヘルメス。あの荷馬車だ」
カサルは扇子の先で、通り過ぎる荷馬車を指し示した。
「荷台の容積に対して、実際に運ばれている『商品』の体積はどれくらいだ?」
「へ? ……そうでさぁね。壺が割れねぇように藁を詰め込んで、木枠で固定して……実質、半分も積めてねぇんじゃないですかね」
「うむ。半分は『空気』と『梱包材』を運んでいる。
しかも、あの壺の形だ。積み重ねることもできん」
カサルの瞳は、冷徹な計算機のように眼前の光景を分解していく。
視線を港へ移せば、そこでは更に滑稽な喜劇が演じられていた。
巨大なガレオン船への積み込み作業だ。
クレーンはあるが、滑車とロープを使った原始的なものだ。網の中に木箱や樽を放り込み、不安定に揺らしながら甲板へと吊り上げている。
バシャーン!!
突風に煽られた網が傾き、木箱の一つが海面へと落下した。
中から高価そうな絹織物が散らばり、泥水に染まっていく。
「あーあ! やっちまった!」
「馬鹿野郎! 弁償モンだぞ! 拾え! 乾かせばバレねぇ!」
怒鳴り声と罵声。
そんな事件に紛れて、木箱から時計や貴金属を盗む輩までいた。
それをカサルは、憐れむような目で見つめていた。
「……彼らは勤勉だ。汗を流し、筋肉を軋ませ、命を削って働いている。
だが、その労力の七割は『無駄』に消えている。正直、見るに堪えん」
不揃いな荷物は、船倉にきっちり収まらない。
隙間を埋めるために沖仲仕が木材を打ち付け、ロープで縛り上げる。
その「職人芸」が完了するのに、一体どれほどの時間がかかるのか。
荷揚げに三日。航海に十日。荷下ろしに三日。
その間に食料は腐り、流行は廃れ、機会損失という名の負債だけが積み上がっていく。
「これが現時点での『物流の世界』だ。何万もの人夫、何千もの船を動員して、無駄ばかりを積み重ねる」
「そうはいいやすけど、旦那。これだけ大規模にやっておいて、その指揮が止まらないってのは、凄い話でっせ。現場指揮といい、空気感といい、働く人間の層が厚いんですわ」
「……違うな。無駄なことをしている、無駄な人間が多いだけだ。無駄無駄無駄、こんな奴らが今の物流を握っているのが悲劇としか思えんな」
カサルは吐き捨てるように言った。
「そ、そこまでですかねぇ」
ヘルメスには見慣れた光景だが、カサルにとっては嫌悪感を催すものだった。
美しい数式に、余計な項が書き加えられているような不快感。
最適化されていないシステムが撒き散らす、不協和音に溜息すら漏れる。
だが、そこで同時にカサルは確信もしていた。
この混沌は誰も望んで起きているものではないと。
「行くぞ。……この馬鹿げた状況を作り出した主人の顔を拝みにな」
カサルが踵を鳴らすと、人々の波が二つに割れる。
そして彼の通った後は再び混沌へと戻った。
目指すのは、商業地区の最奥に聳え立つ、圧倒的な威容を誇る建造物。
巨大物流ギルド・アルゴス。
周囲の雑多な木造建築を見下ろすように建てられたその館は、黒曜石と大理石で塗り固められた、まさに「要塞」だった。
窓の一つ一つには鉄格子が嵌められ、入り口には武装した私兵が彫像のように立っている。
それは商売の拠点というより、富を独占し、外部を拒絶するための巨大な金庫に見えた。
通りを歩く人々は皆、その館の前を通る時だけは視線を伏せ、足早に過ぎ去っていく。
見上げることすら許されない、絶対的な権威。
この大陸の血流を握る王の居城。
だが、カサルの足取りに迷いはなかった。
黒いドレスを翻し、貴族特有の優雅な歩調で、泥にまみれた石畳を進んでいく。
その姿は、あまりに場違いで、あまりに異質だった。
汗と泥にまみれた労働者たちが、道を開ける。
誰もが彼を二度見し、その美貌と、纏う不可視の圧力に息を呑んだ。
「だ、旦那。あそこは正面玄関ですが……アポは?」
「いらん。客が店に入るのに、いちいち許可が必要か?」
「いやまぁ、普通はそうですが……要件が要件ですからねぇ、門前払いどころか、番犬に噛み殺されかねませんぜ」
ヘルメスが冷や汗を拭う。
彼のような商人にとって、物流ギルド・アルゴスに足を踏み入れることは、神殿に土足で上がるような畏れ多さと恐怖がある。
だが、カサルは止まらない。
「ヘルメス。よく見ておけ」
カサルは、見上げるような大扉の前に立った。
門番たちが槍を交差させ、行く手を阻む。
その切っ先を、カサルは扇子で軽く叩いた。
「愚か者。我を誰だと心得る」
門番が怒号を上げるより早く、カサルは枢機卿の指輪を掲げる。
深紅の輝き。
絶対的な権威の証だった。
「し、失礼しました!」
門番たちの対応が一変して客人対応に。
権力の悪用に他ならないが、今のカサルにそんな余裕はない。
彼にはどうしてもゴルディオンをその眼で見ておかなければならない理由があったからだ。
そして重厚な扉が、軋んだ音を立てて開かれる。
中から溢れ出してきたのは、熟しすぎた果実の腐臭と、暴力的なまでの金の輝き。
カサルは薄く笑い、その闇の中へと足を踏み入れた。
リアクションされると喜びます。
それではまた、次のお話でお会いしましょう。(´・ω・)ノシ




