番外編 犬神琴音の日々
「琴音ちゃんって変わってるね」
犬神琴音にできた最初の友達は、それが口癖だった。
琴音は十歳まで家庭教師の下で学び、十一歳になった年にはじめて学校へ登校した。私立の厳粛なお嬢様学校だったが、琴音には開けた世界に見えた。
朝礼。背筋の伸びた女性教師が教壇に立つ。
『おはようございます』
生徒たちは挨拶を完全に言い切ってから、頭を下げる。
『本日もご指導ご鞭撻、よろしくお願いします』
声を揃えて教師に伝えた。
「……では、二十一ページから」
女性教師は教科書を開いて、授業を始める。
琴音の背中が叩かれた。
「……?」
降ってきたのは綺麗な五角形に折りたたまれたメモ帳だった。琴音はそれを開く。
放課後、体育館裏へ。
琴音は後ろを振り返る。ブローフレームのメガネをかけた女子生徒がウインクをした。
琴音の心臓が高鳴る。
放課後、琴音が体育館裏へ来ると数人の女子生徒が地面に座っていた。
「まあ、制服が汚れてしまいます」
琴音は言った。しかし彼女たちは気にする様子もなく、キラキラと光るカードでトランプ遊びのようなことをしている。
「なにをしてますの」
「ん、知らないの。ギャザ」
ブローの女子生徒が、たばこ型の駄菓子を琴音にすすめた。琴音は受け取って口に含む。甘く、かすかに薄荷の味がした。
「おいしいですわ」
「それはよかった。あたし、山田妙枝」
「犬神琴音ですわ」
女子生徒の自己紹介に琴音はスカートの端を持って答えた。
「ここはおちこぼれの会だよ」
「おちこぼれ?」
妙枝は駄菓子を齧りながら説明する。
「頑張って頑張ってこの学校に入ったけれど、周りの眩しさについて行けなくなった。そういう、負け犬たちのたまり場」
妙枝がにやりと笑ったので、琴音も微笑みを返す。
「五年生でようやく登校してきた琴音ちゃんは、たぶん周りが眩しすぎるだろうなって思ってね」
「たしかに眩しく感じました」
「だしょ?」
琴音は目を輝かせて、言った。
「ここも、すっごく眩しい」
妙枝は目を丸くする。
「眩しい? あたしらが?」
「ええ。そのカード遊び、教えてくださる?」
琴音は地面に座った。
翌日も、琴音はおちこぼれの会に出向いた。
「お爺様からのおこづかいを増やして貰いましたの。パックを箱で買ってまいりました」
カードゲームの箱を積む。女子生徒たちが目を輝かせて袋を剥き始める。
「ねえねえねえ、このキモいカード貰っていい」
「どうぞ。わたくしはかわいいデッキが組みたいので」
「やりい」
レアカードをタダで渡したことにも気付かず、琴音はにこにこと笑っている。
妙枝は呆れた表情で見ていたが、やがて琴音の腕を掴んで、常緑樹の影へと連れて行く。
「ねえ、ああいうのやめな」
妙枝は小さな声で琴音をとがめる。
「箱買いをですか?」
「施しだよ。あいつらつけあがるから」
琴音は口元に指をあてて、しばらく思案していた。
「わたくし、施しをしていたの?」
「無自覚かよ」
妙枝はたばこ菓子を琴音にすすめる。
「琴音ちゃんって変わってるね」
一本貰って、琴音は口に含んだ。薄荷が口から鼻へ通り抜けた。
琴音は毎日おちこぼれの会に通った。
「負けましたわ」
カードゲームは負け続けていたけれど、毎日楽しんだ。
それを妙枝は微妙な笑顔で見つめていた。
「妙枝さん」
琴音はポケットからたばこ菓子を取り出した。妙枝と同じものだ。
買える駄菓子店を調べて、お忍びで購入したのだ。
「おそろいですわね」
琴音は一本くわえて、微笑んだ。
妙枝はそれを見て、今度は素直に笑う。
授業の後、教師に呼ばれた。
「犬神琴音さん。あなた、学園内でおもちゃを持ち歩いてるようですね」
教師が机に置いたのはパックの袋だった。
「おもちゃではございません。先行投資ですわ」
「あなたには、これがピカソの名画にでも見えるのですか」
「そうです。手のひらサイズの芸術品ですのよ」
琴音は鞄から出したカードを広げて教師に見せた。
教師は額を抑える。
「悪い友達と関係すると、保護者の方が心配なさいますよ」
そう言った。
「悪い友達なんかでは、ありませんわ……」
悲しげに、琴音は答えた。
教師は困ったような顔で琴音を見つめ、そして苛立ったため息をつく。
体育館裏で妙枝が言った。
「琴音ちゃんって変わってるね」
狭い空を見上げて、深呼吸をする。大きく広げた腕を腰に当てた。
「あたし変わってる友達欲しかったから、うれしい」
「喜んでくれているなら、わたくしもうれしいですわ」
琴音は素直な気持ちを伝えた。
琴音に、別の友達ができた。
「鬼堂院小雪です」
物静かで丁寧な言葉遣いをする。
毎週、華道と茶道を習っているし学校でも優等生だった。
鬼堂院は犬神と深く交流があり、祖父の十八回目の結婚披露宴パーティーで、琴音は彼女と知り合った。
「まあ、同じ学校でしたのね」
「ええ、よければ仲良くいたしましょう」
教師から連絡があったのかも知れない。妙枝から遠ざかるように、琴音は小雪と共に稽古事にいそしんだ。
「わたくし、カードゲームが得意ですの」
珠玉のキラキラかわいいデッキを小雪に見せた。
しかし小雪は微笑むだけで、琴音と一緒に遊んではくれなかった。
犬神の家には守り神がいる。
琴音は五歳からそれを継承していた。
――守り神はあなたを守護してくれますが、己のためだけに使ってはなりません――
継承の儀で、琴音の母は言った。
――あなたは怒りを制御しなければなりません。大事な人が傷つけられた時だけ、怒りなさい。それに守り神は答えてくれます――
琴音は母の言葉を覚えていた。
その時は、家族以外に大事な人というのが、琴音にはわかっていなかった。
教室でも、妙枝は琴音に話しかけてこなくなった。
最近はおちこぼれの会にも顔を出していない。
稽古事が忙しくてカードも買わなくなってしまった。
「妙枝さん」
昼食の時間、琴音は自分から話しかけてみた。しかし、廊下から小雪が手を振っていた。
「琴音さん、ご一緒にどうですか」
小雪が学食へ誘う。
「……ええと、あの」
琴音が言い淀んでいるうちに、妙枝はあいまいに微笑んで去ってしまった。
しかたなく、小雪と共に学食をおとずれる。
「私はお野菜の多いAランチにします。琴音さんは」
「……Aランチにしますわ」
琴音は黒毛和牛のハンバーグが食べたかったのだが、なんとなく気後れして小雪と同じものを頼んだ。
「先ほどの方、琴音さんのお友達ですか」
小雪がたずねた。
「……ええ。でも、もう友達ではないのかも」
琴音は沈んだ声で言った。手にしたプレートの上に、ぽたり、と涙が落ちた。
「わたくし、友達を傷つけてしまった」
琴音は気付いていた。
小雪はしばらく困った表情で琴音を見ていたが、ハンカチを取り出して、彼女の涙をぬぐった。
「謝りに行きましょう」
「許してくれるかしら」
琴音は不安を打ち明けた。不安で、悲しくて、胸が張り裂けそうだったのだ。
「許されなくても、友達なんでしょう」
小雪は言った。
その言葉で、琴音は決意した。
プレートを元のところに置いて、学食から出て行った。
「……頑張って」
残された小雪はAランチを受け取って、机に移動した。
体育館裏に妙枝はいた。
「妙枝さん!」
琴音は彼女に呼び掛けた。妙枝はクリームパンをくわえて、無言で琴音を見つめた。
「妙枝さん、ごめんなさい。わたくし、あなたを傷つけてしまいました」
「別に傷ついてないよ」
妙枝は言った。
「妙枝さん」
クリームパンをかじり取り、妙枝は無言で食べ続ける。
「妙枝さん、わたくし」
「おちこぼれの会は解体したよ。教師に見つかって、カード、全部没収された」
咀嚼しながら、妙枝は淡々と教えた。
琴音は泣きそうだった。
「琴音はあたしたちと同じじゃなかった。それは最初からわかってたことだし。あの子と仲良くしてなよ」
妙枝の声は微笑んでいた。何事もなかった、何も傷ついてないというように。
それでも琴音は涙を流していた。
「なんで泣いてるの」
「わたくし、あなたの心がボロボロなのに、なにもできないんです」
「なにもしなくていいって。短い間だったけど、ぜんぜん楽しかったよ」
「でも、だけど……」
琴音は、痛みに耐えきれないというように泣き崩れた。妙枝は面倒くさそうに立ち上がって、琴音の背中をさすってやろうとした。
その背中から、沸き立つものがあった。
湯気のような煙のような、その微かなオーラは徐々に形をなしていく。
妙枝の目にはそれが大きな白犬。いや、狼に見えた。
代々祖霊を祀り守り神とする家は多い。犬神の守り神は動物霊であると、耳には入っていた。それでも、これほどはっきり見えるようなものだとは、妙枝は知らなかった。
狼はどんどん大きくなる。空を覆いつくし、身体は校舎をゆうに越えて、その牙を見せた。
遠吠えが響いた。
校舎の角が削れた。狼の爪が削ったのだ。
生徒と教師は大混乱となり、校舎の外へと逃げだした。
狼はまた遠吠えを発する。鳴き声はどこまでも届きそうだった。
担任の女性教師が職員室の窓から出ようとしていた。
それを、狼は爪の先でひっかけた。
高く放り投げられて口に入った。女性教師はわめきながら半透明の狼の体内を巡った。
女性教師の身体から何かが落ちて来た。
キラキラと光るそれは、妙枝たちのカードだ。
カードに混ざってスマートフォンが落ちて来て、妙枝はそれをキャッチした。女性教師のものだ。画面にはオークションサイトが表示されている。妙枝から没収したレアカードが高騰していた。
「ははっ」
妙枝は笑って、オークションを削除した。
妙枝は教頭にスマートフォンを見せて、ことの次第を隠すことなく話した。
没収したカードを転売していた女性教師は、処分が決まった。
「妙枝さん」
半壊した職員室から出ると、琴音が待っていた。
「なあに、化け物」
妙枝は言った。琴音は、びくり、と身体を震わせて、視線を漂わせる。
涙が溢れそうになっていた。
「化け物の友達欲しかったから、ちょうどいいや」
妙枝は笑った。それを見て、琴音の表情に笑顔が戻った。
犬神琴音と山田妙枝は親友になった。
高校は別の学校になったが、未だに交流は続いている。
「琴音って変わってるね」
「そうかしら」
「うん、全然強くないカード入れてるもん」
「かわいいから、いいのです」
久しぶりに再会した二人は、カードショップの隅で対戦に興じていた。
おわり